その時、玉川学園・高等部にいた浜田光夫君をひっぱり出して、これ又、日活のニューフェイスであった吉永小百合とコンビをくませて「ガラスの中の少女」という映画をこしらえたのは、確かに僕である。 |
「真昼の誘拐」で高橋英樹君を送りだし、「伊豆の踊子」「風立ちぬ」では、山口百恵、三浦友和という当代の人気者の仕事を手伝い、下って「星の牧場」では寺尾聡、壇ふみのおふたりに御登場願った。こんなことを書き始めるときりがないが、決して数少ないとはいえぬ映画監督生活の中でまさか、自分が絵筆をにぎるとは、思いもかけぬことであった。絵の字もへたくそで、色紙など出されると何とかかんとか理屈をつけて逃げまわった。その僕が、最近、イーゼルの上にスケッチブックをひろげて、その前に、坐り込んでいるのだから大笑いである。 |
それも、これも、西井義晃画伯の責任なのである。あれは、うちの劇団(民藝)の瀧沢修師匠といっしょに、ゴッホの足跡を辿ってみようというツアーに参加してからのことだから、もう大分昔の話だ。 |
談論風発、常に一座の中心にいる、でっかい声の、お酒の好きな御仁が西井義晃画伯であった。彼のまわりには常に笑い声が湧いた。以来、幾度かいっしょにヨーロッパにも行き、そしてはじめて彼の個展を見せてもらって、ほんとに驚いた。何という、心優しい画であろう、西井さんが心優しくないといっているのではさらさらない。しかし、しかしである。画と西井さんがどうにもつながらない。面白いものである。ある意味では豪放で磊落、一筆描きの墨絵の方が似つかわしいのに、これは又、何と繊細で透明な、匂い立つようなバラの花だ。あっ、この人は凄く神経質で心細やかな人なんだな。やっぱり芸術家なんだ。と馬鹿に感心したりする。その内に、書もうまいのだということを発見する。皆さんは、御存じあるまいが、豪放・磊落は、書の方に見事に体現されているのである。見事な両刀づかい。是非とも御覧になるといい。もっとも、書の方は、飲み屋さんのお品書きとして、ぶら下がっていながら、簡単には、見つからない。いっしょになって、酔っぱらって、連れて行ってもらうしか方法はない。酔いが進むにつれてますます良い字に見えてくるから不思議である。 |
定評のある風景画は、静かな詩情をたたえて、この画なら、どこにかけてもどこにおいてもその一郭には、心地よい風が吹くだろう。 |
とにかく、うまいだろ、良いだろ、という顔をしていない所が凄い。しかも、恐らく、どんな所に置いてもぴたりとはまるジグソー・パズルだ。そして決して出しゃばらない室内楽のような雰囲気をかもし出す。いつの間にやら僕は西井画伯の追いかけと化していた。 |
西井さんとの旅は、勿論、絵描きさんたちの旅だからその中で画をかかないのは、僕くらいなもので、皆、朝早くから、街に散ってゆく。気がついたら、ホテルには、僕ひとり。のんびり飯をくって行く所もないから、結局、皆の絵をかいている所に、足が向く。そして、ぼんやり、その傍らに坐っている。全く似てゴキゲンなのである。 |
ところが、西井さんは「あんたも何か、描きなはれ!」と恐ろしいことを言う。
「思ったように描きはったらよろし! うまいこと描こうなんて思うからあかんのや。好きなように描きなはれ」この甘言にだまされて、今は、えらいことを始めたもんやと、後悔すれどあとの祭り。自他ともに許すブキッチョマンが、七転八倒、悪戦苦闘。ある美しい先生に入門して、イーゼルを立てることとは相成った。
「好きなように描けるくらいなら、何の苦労もあるまいに…」時折西井画伯がうらめしくもなる。「下手でもよろしいのや。うまい画ほど、つまらんもんはない」スケッチ・ブックのむこうに西井さんのいたずらっ子のような笑顔がのぞいている。 |
1999年 |