「コピー」は簡単?

オリジナルへの道

1999年4月10日改訂
1997年9月10日


タレントのアグネス・チャンが料理について話をしていた。

ご主人のお母さん(日本人)から和食を教えてもらっているのだが、アグネスが作ると、できあがったものは全部中華風になってしまうらしい。教えてもらったとおりの材料や調理方法で作っても、全部そうなってしまうらしい。みそ汁や、すき焼きも例外ではない。

これは何となく想像できる。

数年前から香港では日本食がブームになっており、先日も何軒かの店が紹介されていた。

ところが、日本料理を出す店で、経営者も料理人も日本人ではない場合、出来上がってきた料理は見るだけで何かおかしい。どう見てもそれが「日本料理」とは思えない。カツ丼や親子丼のようなものでさえどこか違っている。中華と和食が混ざった、国籍不明の奇妙な代物になっている。ガイジンが日本の着物を着ているときの不自然さと共通したものがある。

味はテレビのためわからないが、見た目だけでもあきらかにおかしい。これは、器、盛りつけ方などからくるものなのだろうか。

アグネスも、みそ汁を出すとき、日本の漆器ではなく、中華風のお椀に入れて食卓に出すと言っていたから、それだけで「気分は中華」になってしまうのかもしれない。 緑茶をコーヒーカップで出されたら、いくら味や香りが同じでも、お茶を飲んでいるという気分にはなれない。逆に、コーヒーや紅茶を日本の茶碗で出されてもしっくりこない。科学的には、器が変わったとしても味や匂いが変わることはないはずなのに、実際には大きな違和感があるのは、視覚、嗅覚、味覚といったものは相互に影響しあい、全体としてひとつの情報になっているからだろう。

それにしても、ある国の料理がその国の料理らしくなるのは何なのだろう。 食材、調理法、器、盛りつけ方といった目に見えるもの以外に、一国の料理をその国の料理たらしめているものがあるとするなら、それは「思想」なのかもしれない。フランス料理にはフランス料理の思想があり、中華料理には中華料理の、懐石料理には懐石料理の「思想」がある。それを理解しない限り、表面だけを真似しても、すぐに見破られてしまう。

ある国の料理は、気候、風土、文化などを背景に持っている。それを無視して、形だけを真似しても、本物を知っている人から見ればその違いは一目瞭然である。

何の分野でも、コピーくらい簡単だと思っても、実際にやってみるとそれすら簡単でないことがわかる。料理を真似するだけでも思うようにできないのだから、新しい何かを産み出すのは、途方もなく難しいことなのだろう。おいしいものとおいしいものを足せば、もっとおいしいものができるというわけにはいかない。十たす十が二十になるとは限らず、五にしかならないこともめずらしくない。たしたためによくなるどころか、かえって両方がマイナスになることもよくある。中華と日本料理を混ぜ合わせたら、「オリジナル」料理ができるというものでもないだろう。

「まなぶとまねぶ」、つまり、「学ぶと真似る」は語源としては同じものだそうである。安直にオリジナルを追い求めるよりも、その前にしっかり真似ることが、コピーを越え、オリジナルに到達する一番の近道ではないのだろうか。

マジェイア


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