エネルギーの循環としての存在

1998年2月22日

ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。 淀みに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。 世中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。


これは鴨長明が記した『方丈記』の冒頭部分である。 川面に浮かぶ泡、海の波、風、これらに実体はない。

海に、いくら見事な波が立っていても、それを切り取り、保存することはできない。 春先の心地よい風。これも箱に詰めて残しておくことはできない。

いずれも、確かに現象としては存在しているが実体はない。

遙か彼方の海上で起きた波が、日本の海岸まで伝わってくる。砂浜までたどり着くと波は消える。この波を作っていたエネルギーはどうなったのだろう。波と一緒に消えてしまったのであろうか。

風のある日、海岸を眺めていると数多くの波が見える。それらが動いているかぎり、何らかのエネルギーは存在する。エネルギーが「波」という現象を引き起こしている。我々が波を見るとき、つい、動いている部分に意識は行くが、ひとつひとつの波は海という大きな存在の表面に起きている現象にすぎない。すべての波は、大きな水の固まりとしてつながっている。

海岸までたどり着いた波はそこで消えるが、エネルギーは再び海の中に、大きな水の固まりの中に吸収されて行く。吸収され、全体に戻って行ったエネルギーは、また新たな波が産まれるときの助けになっているのだろう。エネルギーは消えることはない。運動エネルギー、位置エネルギー、その他熱や光に変わっても、エネルギーは保存される。

花が咲き、やがて枯れる。咲いているとき、花の細胞のひとつひとつが生き生きと活動し、そこにはエネルギーが満ちている。花が枯れて行くとき、細胞のひとつひとつにあったエネルギーはどうなるのだろう。これも波と同じで、花を生かしていたエネルギーは消えるのではなく、「全体」へと吸収されて行くだけなのだろう。

先に話したように、風や波には実体はなく、「現象」であるということは納得できると思う。では、花はどうなのだろう。花には実体はあるのだろうか。手に触れることができるから実体があるなどとはとても言えない。それなら、風や波でさえ、手で「感じる」ことはできる。

波や風、炎などには実体はなく、現象であることは理解できても、花には実体があると私たちは思ってしまう。しかし、「波」であっても、「花」であっても、それは現象にすぎない。あるのは多少の「時間の差」にすぎない。花が花らしい姿をしているのはせいぜい数日から半月程度である。花によっては、もっと早く消えてしまうものもある。炎や波、風は花よりも短いので、一瞬の現象として理解できても、花が現象ではなく、実体があると思うのは、炎や波より、ほんの少し時間的に長いのでそう感じるだけである。実際には、花だって、見ている間にも刻々と変化は起こっている。

ひとつの波が生まれ、旅を続け、海岸で姿を消し、エネルギーとして全体に吸収されて行く。
ひとつの植物が芽を出し、しばらく咲き誇り、やがて枯れて姿を消して行く。花を作っていたエネルギーもどこかに吸収されて行く。しかしそれは消えるのではなく、また再び新たな「現象」を生み出すエネルギーとなる。

ひとりの人間が生まれ、しばらく生かされ、やがて姿を消して行く。これと、泡や花のどこが違うというのだろう。まったく同じことではないのか。人の一生も現象にすぎない。実体などなにもない。無から有は生じない。無いものはどこまで行っても無い。在るものは元々在ったものなのだ。ただ形が変わるだけにすぎない。

自分が「今在る」ということを認めるなら、それは、生まれる前からも在ったのだろう。そして、死んだ後も在るのだろう。どこへ行くのかは知らないが、宇宙全体のエネルギーの中に戻って行き、また何かの「現象」として、私たち本性であるエネルギーは出現するのであろう。

「現象としての自分」を認めるなら、私たちのまわりに起きるすべてのことに対して、それを眺め楽しむことが可能になるのではないだろうか。


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