1999年3月18日更新
1998年4月17日
近所を散歩していると、庭先にコンテナを置いて花を栽培したり、小さな花壇に草花を植えている家が目につく。ここ数年、「ガーデニング」が大変人気のようだが、日本の住宅事情を知っていると、ガーデニングが流行っていると聞いても、何だか不釣り合いだと思っていた。作られたブームのひとつなのだろうと思っていた。庭のある家など都会ではほとんどないのに、何でガーデニングが流行るのか不思議であった。
「ガーデニング」という言葉は少々仰々しい。昔はこんなことは言わなかった。「ガーデニング」という言葉が一人歩きをし出したのは、ここ数年のことだろう。以前は、「園芸」と言っていたはずである。NHKのテレビ番組で、昔から続いているのに「趣味の園芸」があるが、数年前までは、「園芸」が一般的な言い方であった。それが近年、「園芸」よりも「ガーデニング」が主流になっている。
確かに「ガーデニング」のほうがイメージも明るく、洒落た感じがする。「園芸」という言葉から受けるのは、年寄りが暇つぶしで、花を育てているといったイメージが強いが、「ガーデニング」と聞けば、実態は別にしても、何となくお洒落な感じがする。そのせいもあり、日本の住宅事情とは無関係に、言葉としての「ガーデニング」だけが一人歩きするようになってしまったのだろう。
しかし、趣味を聞かれて、「ガーデニング」とは気恥ずかしくて答えられない。本当に、広い庭のある家にでも住んでいるのなら別だが、庭もないのに「ガーデニング」はないだろうと思ってしまう。これはみんな感じているようで、そのせいか、「ガーデニング」をやっている人でも、大抵、「花を作っています」といった表現で答えている。
先日近所の花屋に行ったら、ここにも「ガーデニングコーナー」ができていた。そこに置いてあるコンテナや花をながめていると、店の人が寄ってきた。
「ガーデニングをなさっているのですか」
何て答えてよいものか、一瞬返事に困った。庭と呼べるようなものもうちにはないのに、気恥ずかしくて、「はい」とは答えられない。「園芸です」と言うのもわざとらしい。適当にごまかしたが、何で言葉ひとつのために、うろうろしなければならないのか、自分自身がおかしかった。
「ガーデニング」という言葉を日本で定着させるのには今ひとつ抵抗があるが、花は昔から好きである。散歩や、自転車で少々遠出をしたときに見かける、よく手入れされた庭先の花をながめていると、「ガーデニング」をやりたくなってきた。
「猫の額ほどの広さ」という形容があるが、うちの庭など箱庭みたいなものだから、やると言ったところでイギリス風のガーデンなど、端から望むべくもない。しかし、狭いなら狭いなりに、こじんまりとしたものでも作ってみれば楽しいだろう。洒落たものでなくても、昔の日本の家にあった前栽(せんざい)の洋風といったものでよいと思っている。
母が花を好きなこともあって、玄関や居間、テーブルにはいつも花があった。狭い庭にも、父が作っていた花が年中咲いていた。父が亡くなって10年近く経つが、そのころと比べると、ほとんど手入れらしいこともしていないのに、庭先の花や木は、太陽や雨などの恵みを受けて、毎年花をつけてくれる。
ツバキも毎年咲くが、一輪のツバキの寿命は一瞬とも言ってよいほど短い。しばらく咲いて、すぐに散ってしまう、しかし、この一輪のツバキの中には、過去から伝わってきたすべてのツバキの命がつまっている。現象としての「咲くこと」は一瞬であるが、散ってしまっても、何もかもが消えてしまったわけではない。もし、消えてしまうなら、次のツバキが咲くことはないはずである。翌年、また新しいツバキが咲くのは、前のツバキから受け取った何かがあるからなのだろう。一輪のツバキの中には、連綿とつながっている何かがある。消えることもなければ、生まれることもない何か。
花をながめたり、手入れをしていると、普段忘れそうになることを思い出させてくれる。理屈としてわかっていたつもりのことが、実感としてわかることがある。このような気づき与えてくれることが、「ガーデニング」の魅力のひとつなのかも知れない。