花火
40数年ぶりに花火見物に行ってきた。 私が初めて本格的な打ち上げ花火を見たのは、5,6歳のころ、甲子園球場で開催されたものであった。そのときの驚きは今でも鮮明に覚えている。花火が開くたびに私は絶叫しまくっていた。頭の上に火の粉が落ちてくるとしか思えない恐怖があった。周りの大人は、なぜみんな逃げないで、うれしそうな顔をして見上げていられるのか不思議で仕方がなかった。ドーンという音と共に、頭の上に大きな火の花が開くたびに私は両親の服の中に頭を突っ込んでいた。 これが私にとっての、打ち上げ花火の原体験である。 今回花火に行ったのは別段深い意味があったわけでもない。コンビニの棚に並んでいる情報誌を眺めていたら、たまたま花火特集があり、それを見ていると、突然行きたくなってしまっただけである。一緒に行った友人に、花火に行くのは40数年ぶりだと話すと呆れられてしまった。普通、夏のデートコースでは花火は定番のひとつなのに、どうして行かなかったのか不思議がっていた。 そうか、花火って夏のデートコースの定番なんだ。でもどういうわけか、若いときもデートのとき、花火に行くということが頭の中をよぎったことは一度もなかった。私の意識から、花火見物は消えていたのだろうか。それとも子供時代の恐怖がトラウマとなり、花火を無意識に避けていたのだろうか。デートのとき、ドーンという音がするたびに、女の子のかげに隠れたのでは愛想を尽かされると思い、それで行かなかったのかも知れない。 甲子園球場での花火大会はもうずっと前になくなった。しかし関西ではPLの花火大会をはじめ、各地で開かれている。PLの花火は12万発打ち上げ、規模は世界最大のものらしいが、行った人の話では、行くまでの距離が遠いのと、人が多すぎて身動きがとれないのでお薦めできないということであった。神戸港、琵琶湖、その他いくつかの候補地を調べてみると、宝塚でも花火大会があることがわかった。宝塚ならうちから近いので、ここに行くことにした。今年で80年を越える大変歴史の古い花火大会である。 花火の会場は、宝塚歌劇のあるファミリーランドに沿って流れている武庫川で行われる。無料の席もいくらでもあるが、1,500円払うと座席指定で、ワンドリンクがついてくる席もあるので、早速電話で予約を入れておいた。この1,500円はファミリーランドの入場料も含まれているので、絶対お得である。席は武庫川の岸に椅子が並べられている。打ち上げ場所と観覧席は直線距離でも50メートルくらいしか離れていない。目の前に巨大なスピーカもあり、音楽も流れてくる。宝塚劇場の真裏なので、音楽関係の専門家も関係して、花火と音楽をシンクロさせることが今年のテーマになっていたようだ。タイトルは「音楽と花火でつづる夏・秋・冬・春」。最後は「さくらさくら」をアレンジした曲にあわせて、本当に無数の桜の花びらが散ってゆくような幻想的な花火であった。 花火は7時45分から始まることになっていた。武庫川の岸辺とはいえ、川の向こう側にもマンションやホテルも立ち並んでいる。窓からの光りが目障りだと思っていたら、花火が始まる直前に、マンションの窓から漏れていた光が一斉に消えた。どうやら住民も協力して、花火をやっている間は部屋の電気を消すか、カーテンを閉めるようだ。 シュルシュルーッという音がしたかと思うと、突然頭の上一面に花火が開いた。私たちの座っていた席は打ち上げ場所の正面であり、昔甲子園球場で見たときと状況はさほど変わっていない。大きな玉が開くと、頭の上全面に火の花が咲き、今回も悲鳴をあげてしまった。本当に火の粉が落ちてきそうな恐怖がある。この歳になっても恐ろしいのに、子供の頃なら恐くても無理はなかったはずである。火薬の量は計算されているので、落ちたときにはちょうど燃えつきるようになってはいるのだろうが、それでも絶対安全とは言えない。 しかし、花火は恐ろしくても、このような火の粉をかぶるようなところ、頭の真上で開くような場所で見てこそ、花火の醍醐味が味わえるのだろう。開いてから数秒遅れて音が聞こえてくるような遠くの花火も哀愁があり、風情のあるものだが、やはり火の粉が降ってくるような場所で見てこそ、花火は楽しめる。迫力が全然違う。 火の恐怖にもだいぶ慣れてきたので、ボーと上を見上げていると、大きな玉が数十発連続して打ち上げられた。空一面が火に包まれ、瞬時に開いては消えてゆく火の花を見ていると、距離感もなくなり、自分自身があの火のかたまりの中心にいるような感覚になってきた。宇宙全体が破裂しているような錯覚になる。ビッグバンの真ん中にでもいる気分であった。宇宙開闢(かいびゃく)の瞬間もこのようなものだったのかも知れない……、というのはちょっと大げさかもしれないが、それに近いような感覚を体験した。 45分間の間に2,000発も頭の上で破裂すると、さすがにだいぶ慣れてきて色々と考える余裕も出てきた。そのようなとき、宝塚全部が包まれるくらいのでかい玉が開き、観客からも大きな歓声が上がった。そのとき、私の頭に激痛が走った。何かが落ちてきたに違いない。頭から血が出ているかも知れないと思うくらい痛かった。手で触れてみると、幸い出血はしていなかったが、きっと火薬を包んであった紙の筒でもあたったのだろう。 昨年一部の人たちの間で「ノストラダムスの大予言」が話題になっていた。なんでも「1999年7の月、天から恐怖の大王が降りてくる」と言っていたそうだ。恐怖の大王というのが実際には何を指すのかは不明であった。核を積んだミサイル、巨大隕石の衝突、飛行機の墜落、人工衛星の残骸等、色々言われていた。残念ながら予言は1年ずれたが、天から降りてくる恐怖の大王というのは、結局花火の燃えかすのことではななかったのか。それならノストラダムス先生の予言も大当たりだった。 とにもかくにも、40数年ぶりに見た花火は何ともいさぎよい芸術であった。火はすべてのものの始まりであり、終わりでもある。薬品を調合することで微妙な色合いを作り出し、ほんの数秒であっても自分独自の花を開かせることに精魂を傾けている花火職人は芸術家であると同時に、錬金術師のような気分で魔法の玉を作っているのだろうか。またときには、人類にはじめて火をもたらしたプロメテウスのような気分にもなっているのかもしれない。
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