精神のリレーとしてのネットワーク

1997年8月14日

朝、いつものように2杯目のコーヒーを持って自宅の仕事場に入る。パソコンのスイッチを入れ、メールを確認する。ここから私の一日が始まる。

メール用ソフトを立ち上げると短い電子音がした。メールが届いている合図である。差出人の名前を確認すると、アメリカ人のようだが、見覚えのない名前である。どうやら数日前、インターネットのあるニューズグループに投稿した私のメッセージを読んで、返事をくれたらしい。

私は趣味でマジックをやっている。メールを送ってくれた人は、今はもう引退したアメリカ人のプロマジシャン、つまり手品師であった。

私はニューズグループの中で、ある古典マジックについて質問した。メールはそれに対する返事で、昔、そのマジックを得意芸にしていたボードビリアンがいたことを教えてくれた。彼の友人で、もう亡くなって30年近くになるという。そのマジックというのは、"Egg on Fan"(扇子の上のたまご)という、日本ではほとんど演じられることのないマジックである。

ティッシュペーパーを小さく破り、それを2センチ角程度に折りたたむ。その小さく折りたたんだ紙切れをスペイン風の黒い扇子の上に置き、何度か跳ね上げる。しばらくすると、その紙切れが徐々に膨らみ、鶏のたまごのようになってくる。十分膨らんだら、扇子の上からそのたまごを取り上げ、テーブルの上に置いてあるガラスのコップに打ちつけて割り、それが本物のたまごであることを示すというマジックである。 このマジックの資料は日本だけでなく、外国にもほとんど残っていない。

私がこれに興味を持ったのは、今年(1997年)のはじめ、インターネットの中でイギリスの本屋のリストに"Egg on Fan"を解説した、わずか数ページの薄い本があることを発見したからだ。それを購入し、読んでいたとき、一部、どうしても意味の分からないところがあった。それを海外のマジック関係者が集まっているニューズグループに質問した。先ほどのメールはこれに答えてくれるものであった。

彼の話によると、それを得意芸にしていたボードビリアンが死んだ後、この芸を継ぐものは誰もいないそうだ。似たようなことをするマジシャンは何人かいる。しかし、そのボードビリアンの編み出した、まさに本当の魔法のようにしか見えないオリジナルな方法、悪魔と取引をして教えてもらったのかと思えるような巧妙な工夫が凝らされたマジックは、この世から永遠に消滅しようとしていた。

ところが、その人が亡くなった後、まるで遺言状のように、そのマジックを詳細に解説したメモが発見された。メールを送ってきてくれた人は亡くなったマジシャンの友人であったので、そのメモをもらい、今まで誰に見せることもなく保管していた。私に送ってきてくれた電子メールは、その秘密を書いたメモであった。

マジシャンにとって、マジックのタネは命と同じくらい大切なものである。そのため、誰にもタネを明かさずに、マジシャンが亡くなると同時に、そのマジックも消えてしまうことがよくある。なぜ彼はこのマジックに限り、そのような詳細なメモを残していたのだろう。また、友人のマジシャンがそれを今から数十年前に手に入れたのに、まったく何の面識もなく、しかもアメリカと日本という遠く離れた場所にいる私にそのような秘密を教える気になったのだろう。。

彼によると、私のわずか数行の質問の中に、「何か」を感じたそうである。そのときは、まだ私は自分のホームページも開いていなかった。

電子メールを使用してのやり取りは、私の机の上にあるコンピューターの画面を通して行っている。2、3軒先に住んでいる友人からの電子メールも、ニューヨークに住んでいる友人からの電子メールも、画面上では何の違いもない。メールだけでなく、掲示板やニューズグループに書き込まれたものも、誰がどこで書こうが同じで見分けなどつかない。地域差もない。そこは空間を越えている。

インターネットが本格的に始まったのはここ3、4年のことであるが、その5、6年前から、パソコン通信は始まっていた。特にNIFTYやPC-VAN、ASCII-NETなどでパソコン通信が本格的にスタートした。NIFTYの中には、会議室によっては数年間分の投稿が今も残っている場合がある。またフォーラムのライブラリーには、もっと古いものが残っている場合もある。


私の友人が6年前に亡くなった。しかし、彼の書いたものは今でもNIFTYのあるフォーラムの中に残っている。彼のことを知らない人であれば、彼がすでに亡くなっていることすら気がつかないであろう。数年前の投稿も、昨日投稿されたものも、コンピュータの画面上では何も違いはない。

この10年間で、パソコン通信で書き込まれた数多くのメッセージは、時間と空間を感じさせないで残っている。昨日の投稿も、すでに亡くなっている人の投稿も、サーバーの中には同じように存在している。

「バーチャルリアリティ」という英語は「仮想現実」と訳されている。我々が暮らしている世界に対して、コンピューターの中で作られる世界のことを「仮想現実」と表現するらしい。しかし、「現実」って何だ? 何が仮想なのだ? 目で見ることができ、手で触ることのできるものが本当に現実なのだろうか。

コンピューターの画面の文字を介して伝わってくる多くの「声」は現実なのだろうか。コンピューターの中にだけ存在しているものが仮想現実なら、意識の中にだけ存在しているものはどうなのだろう。それも現実ではなく、仮想なのか?

私が受け取った、見知らぬアメリカ人マジシャンからのメール、その中で語られていることは、今から数十年前の、名前も顔も知らない一人のボードビリアンの考えたことである。その人はすでに死んでいる。しかし、私がそのメモを読んだとき、時間と空間を越えて、一瞬にして彼の意識は私の中に飛び込んできた。これでもこの人はもう存在していないといえるのであろうか。

私の中では彼は生き生きと動いてる。黒いスペイン風の扇子を上下させ、観客の大きな拍手のなかで演技をしている光景がはっきりと見える。

また、先の6年前に亡くなった私の友人には、そのとき小学生であった一人息子がいる。 その子が高校2年になったときパソコン通信を始めた。NIFTYにも入り、あるフォーラムを読んでいるとき、数年前に亡くなった彼の父のことが偶然にも話題になっているメッセージを読んだ。父が亡くなった後も、彼の中では父は今も生きている。そして、今、自分のまったく知らない人までが、父のことを話題にしてくれている。

幼かった彼も、今では父の残してくれていたメッセージを読み、理解できる。当時、父が考えていたことがわかったとき、コンピューターの画面に向かって父と対話している自分に気づいた。

現在、地球規模で電話回線や光ケーブルを使った大きなネットワークができている。私の家にある電話回線も、モデムを経由して世界中の多くの人とつながっている。 このネットワークは単なる物理的な接続だけではない。意識のネットワークとしてもつながっている。

これまでのパソコン通信と、マルチメディアを駆使したインターネットの境界が急激に薄れてきている。家にいながら、世界中の様々な店から好きなものを購入でき、外国の商品でも電子メールで注文すれば数日で手元に商品が届く。音楽や映像もリアルタイムで入手できる。これらは確かに便利であり刺激的ではあるが、近頃見かけるネットワーク社会の紹介はこのような面ばかりが強調されすぎてはいないか。

この10年間で急速に広がったネットワーク社会は「空間」を越えてしまった。そして「時間」も越えている。時間を超えるというのは、物理的空間による時間差がないということではない。言葉によるやり取り、つまりは意識の伝播。埴谷雄高の言葉を借りるなら「精神のリレー」。意識即現実。現実とは意識の集合である。自分の意識に浮かんだことを投稿という形でネットワークに流すとき、それは今までのメディアとは比較にならないくらいの規模で伝わっていく。そのとき、それに感応する誰かと出会う可能性は大きい。数は問題ではない。たった一人か二人でも、意識の底で触れ合える人と出会えたら幸せだ。ネットワークに自分の意識を流した意味は満たされるだろう。

多くの気づきを与えてくれる世界。今まで一般の人が経験したことのない世界、「仮想」と「現実」が渾然一体となった世界が始まるのが、21世紀のネットワーク社会ではないのか。


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