先週、テレビで神谷美恵子さん(1914-1979)の特集をやっていた。 神谷さんは、「らい」(ハンセン病)の国立療養所である長島愛生園で、永年診察にあたってこられた精神科医である。『生きがいについて』、『心のたび』(みすず書房)他、数多くの著作でも知られている。
少し前、マザー・テレサも亡くなった。このお二人に共通しているのは、あるとき天の声を聞き、その声に導かれるまま、自分自身の一生を捧げる事を見つけられた点である。
神谷さんは中学か高校生の頃、「らい」の人たちとの衝撃的な出会いがあり、医師を志望した。しかしそのときは両親の反対により、医学進学はあきらめざるを得なかった。数年後、ご自身が結核で療養中のとき、天の声を聞いた。「患者が読んでいる声」を聞き、24、5歳で医学部に入り直し、医学の道に進まれた。
何かの声に促されるように、一生をかける仕事を持つことのできた人は幸せである。神谷さんのような劇的な体験はなくとも、これこそ自分の天職と思えるものがある人は、それだけで自分がこの世にいる意味を実感できるであろう。
自分の仕事が世の中でどのような意味を持ち、どのような位置を占めるのかがわからず途方にくれるときがある。神谷さんやマザー・テレサなどのような大きな業績を残した人達と自分とを比べてしまうと落ち込むしかないが、自分の知識や経験が、世の中に何らかの形で還元できたという実感を持つことができたら、少しは満たされるのだろう。決して「量」は問題ではないはずである。
自分の現在の仕事に充足感がない場合、何か役にたつこと、例えばボランティア活動のような、少しは人の役に立つと実感できるようなものを始める人がいる。人は他人から感謝されればうれしい。それはまあよいとしよう。しかし、人に何かをしてあげるのが、自分自身の充足感を満たすためにするのであれば、それは他人を利用しているにすぎない。このような人は、何かをしてあげたのに、他人が自分に対して感謝の言葉や、それに見合ったものを返してくれないと怒りだす。
これでは人のために尽くすと言っても、それはただ自分が人からの賞賛や感謝を得るために他人を利用しているにすぎない。自分のエゴを肥大させるために行っているようなものだ。以前より、もっと醜悪になっていることに気づくはずだ。
ひたすら受動的に生き、人からの感謝もいらない。神様からのご褒美もいらない。自分という存在を消して、ひたすら他者のために何かをすることができるのなら、その人は必ず満たされる。
天職を意識的に見つけようとしても見つからないように、幸福や生きがいを求めて積極的に行動してもそれらはやってこない。求めようとしても得られるものではない。求めれば求めるほど逃げて行く。 むしろそのようなものは自分には不要で、求めることを完全に放棄したとき、自分自信がいつの間にか「幸福」や「生きがい」で満たされていることに気づく。
人は自分のエゴを肥大させることなく、人のために動くことができるのだろうか。
やろうとしてもできない。では何もしないほうがよいのだろうか。人助けなど一切しないほうが感謝などされない分、エゴに栄養をあたえることもないのでまだマシなのだろうか。
人は何かをする場合、自分で意識するしないに関わらず、見返りを期待している。それが目に見えない見返りであればあるほど、自分でも気づかないでいる分、醜悪になる。このジレンマから抜け出すのに、マイスター・エックハルトが彼の説教のとき引用している聖書の一節が役に立つかも知れない。「わたしがあなたがたを選んだのである。わたしがあなたがたを全世界から選び出したのである。わたしがあなたがたを全世界と全被造物との中から選りすぐったのである。あなたが出かけていって、多くの実を結び、あなたがたにその実がとどまるようにと。」
(ヨハネ15.16)自分の現在の仕事、または無償の行為と言われるものであっても、それをすることになったのは私が選んだからではなく、私が選ばれたのだという実感を持てたら救われる。それに気づけば、人の役に立つことを行っても、エゴを肥大させることはなくなるだろう。
例えるなら、自分自身は水道の配管に使われている接続部分の一部にすぎず、その「部品」として私が選ばれたのは私の意志ではなく、何かの力で選ばれているのだということ。これはキリスト教であれば当然それが神になる。神の意志として、被造物としての自分がそこに組み込まれているという認識。神が気に入らなければ阿弥陀様のおはからいでも、タオのお導きでも、<存在の力>でも何でもよい。
よくわからないが、自分という存在は大きな全体の一部になっており、そこには何らかの意味があるはずだと思えたとき、写真のネガとポジが一瞬に逆転するように自分のまわりのすべてのことに意味を見いだせる。
私にできることは、流れ込んで来た水を、私を通過させてまた他へ送り流すことしかできない。私というフィルターを通し、そこで私のエネルギーを加えることで、再び世に送り出すことしかできない。またそれでよいのだろう。
神谷さんやマザー・テレサ、その他、この世にはこのお二人と同じように「道具としての私」を自覚した人は大勢いる。自分は誰かの犠牲になっているとか、この世で認められなくても神様はきっとわかってくださるだろうと言った強欲なことも考えていない。 ひたすら全体のパーツとして、「無私の私」の役割を果たしているとき、人は「生きがい」や「幸福」と言った言葉があることさえ忘れているだろう。
しかし、多くの人は自分の天職が何なのかわからず、苦しんでいる。そして焦る。しかし焦る必要はない。 私たちはいつだって、無数の選択肢の中から何かを選んで生きていると思っている。 ある日の一日、朝起きてから寝るまでの間だけでも、「したこと」より、「しなかったこと」のほうが数千倍、数万倍ある。”できたかもしれない”と思えることは山ほどあっても、実際にやっていることはいつもひとつだけなのだ。
私たちは自分の意志で決定して、何かをしているつもりでいる。しかし、実際には常に、何かの意志でさせられているのかもわからない。 自分の行動、自分を取り巻く様々な出来事にはすべて意味があり、宇宙全体に流れている大きなエネルギー、全体の一部としての自分を自覚できたとき、私たちは焦らなくなる。
失恋、失業、事故、肉親の死、その他諸々の理由で人は大きく落ち込む。このような状況にあった人が、絶望の淵から立ち上がり、新たに生きはじめるときにも、同じようなことが起こる。
自分の絶望と、他人の絶望のどちらが大きいかを比較することなどできない。想像できるもっともひどい状況、例えば先のハンセン病は近年まで、宣告されると同時に、深い絶望をもたらした病のひとつであった。一度かかると、家族とも縁を切り、生涯、隔離された場所で過ごすことを強いられた。現在の癌の宣告と比べてどちらがつらいか、一概には言えないものの、家族、親戚縁者からも一切身を隠し、ひっそりと死んで逝かなければならない自分を想像したとき、ほとんどの人は死をも考えたはずである。同じような意味で、人間が考えられる最も悲惨な状況というと、第二次世界大戦のアウシュビッツの強制収容所もそうであったはずだ。
これらの過酷な状況にあっても、毅然と生き、死んでいった人達が数多くいたことを神谷さんや、『夜と霧』の著者でしられているV.E.フランクル氏は証言している。 このような状況にありながら、心安らかに暮らして続けた人達がいたことは、私たちに大きな勇気を与えてくれる。
ここまで書いてきて、「生きがい」という言葉を何気なく使ってきたが、本当にそのようなものがあるのだろうか。
新しい病名を作ると、突然、その病気だという人が増える。例えば「多重人格」や「ノイローゼ」。言葉ができると、それが存在するかのように思ってしまう。「生きがい」や「幸福」、これらには何ら実体はない。ないものをあると思い、人は追い求めているだけなのかもしれない。だからこそ、そのようなことを考える暇も余裕もない人のほうが、「生きがい」にも「幸福」にも満たされているのかもしれない。人間以外のどのような生き物も「生きがい」など求めていない。私の机の上の観葉植物はいつも青い葉を付け、そこに在る。在ることがすべてである。
理屈ではわかっていても、いや、実際は理屈としてわかっていないからかも知れないのだが、現実に生きる目的を見失い、自殺する人は大勢いる。 今まで大切だと思っていたもの、財産、地位、家族、愛、...。これらがひとつずつ、葉が落ちるように、あなたから落ちて行くときが来ないとも限らない。そのとき、あなたは何を頼りに生き抜くのだろう。
このようなとき、何かの宗教を持っている人は強い。特にキリスト教などでは、最後の最後は必ず神が手を差しのべてくれることになっている。同じ宗教と言っても仏教はこうはいかない。誰も手を差しのべてはくれないことになっている。だが、手は差しのべてもらえないが、これも阿弥陀様のおはからいだと思っているのなら、間違いなく心安らかになれる。「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えていればそれでよいのだという信仰、現代人は馬鹿にするが、これほど強力な方法論は他にはない。
そのような神を持っていないのなら、畢竟、フランクルの言っているように、「意味への意志」ということになるのだろう。自分で自分を納得させる意味づけをするしか仕方がないのかもしれない。それと同時に、「一日一生」の精神、今日しかないと思って、今日、この一日だけは後に悔いを残すことなく生きて見ようと決心して一日を過ごしてみる。明日や一年後に期待するのではなく、今日しかないと思ってみると、不安も何もなくなっていることに気がつく。