自因自果

 

1999年7月5日

これまでにも何度か書いていることだが、お釈迦様の最大の悟りは「諸行無常」と「縁起」である。「縁起」というのは、現在、世間一般で使われているような意味ではない。元来の意味は、ものとものとの関係性のことである。勿論、人と人でも、人とものでもよい。この世のすべてのものは他との関係性の中でしか存在していない。どのようなものも、縁によって生じ、縁によって滅びる。言われてみれば当たり前のことなのだが、人類史上、このことに最初に気がついたのが釈迦であった。これはどんな発見よりも、偉大な発見である。

お釈迦様は、突然、このようなことを思いついたのではない。ご自分も含めて、人は多くの悩みを抱え、苦悩の連続で生きている。なぜ人にはこのような悩み、苦悩がつきまとうのかを考え続けているとき、「執着」にたどり着いた。

人は多くものに執着している。金、地位、名誉、家、仕事、家族、子供、妻、夫、知識……。あるものが手に入れば自分は幸せになると思っている。そして、一旦、手に入れたものは絶対手放したくないと思っている。しかし、実際は、いつかすべてを手放さなければならないときがやってくる。いくら膨大な金を持っていても、死ぬときは持っては行けない。どんなに強欲な人間でも、何一つ持っては死ねない。持って行けるのは、その人の「行い」、つまり、「業(ごう)」だけである。生前、その人が行った「業」だけは、死んだ後も持って行けることになっている。持って行けるというより、振り払うことはできない仕組みになっている。死んだ後、「業」以外は、持っていても持っては行けないのに、過剰に執着することが不幸の元凶であることに、お釈迦様は気がついた。

では、その執着を取っ払うにはどうすればよいのか。追い払おうとしても、そう簡単に追い払えるものではない。しかし、あることに気がついたとき、それが消えた。それが「無常」と「縁起」であった。

一本の木が存在するためには、多くのものの助けがあってはじめて可能になる。水、土、光、風、様々な微生物……、無数のものとの関係の中で、一本の木がある。このあたりのことは、以前も書いたから参照してもらうとして、とにかく、何一つ、そのものだけで存在できるものはなく、すべてのものは「実体がない」ことに気がついた。

縁起によってすべてのものが存在していることが認められるのなら、この世に偶然はなく、すべてはそうなるべくしてなったのだということも認められるだろう。これが理解できると、無闇に執着しなくなる。過剰な執着はなくなる。「足(たる)を知る」ようにもなる。

「縁起」という真理から様々なことがわかるが、もう一つ、仏教で言われる「因果」の関係もそうである。一般には「因果応報」と言う言葉でよく知られている。もう少し平たく、「善因善果 悪因悪果 自因自果」(ぜんいんぜんか あくいんあっか じいんじか)とも言われる。

「因」というのは、「行為」のことである。「果」は、結果、すなわち表に現象として現れてくることである。「よいことをすればよい結果が返ってくる。悪いことをすれば悪い結果が返ってくる。自分の行いはすべて自分に返ってくる」ということである。

人とは誰でも、自分によいことが起きたとき、それは自分がよいことをしたからであると納得するだろう。確かに「自因自果」であると納得している。

しかし、自分にとってよくないこと、嫌なことが起きたとき、それを認めたがらない。「悪因悪果 自因自果」が認められない。自分に起きた悪いこと、いやなことは、あいつのせいであると思ってしまう。悪いことはすべて、他人のせいだと思っている。

あいつがあんなことをするから、私は不幸になったのだ、あいつが私をだましたから私は不幸になった。自分の身に起きた不幸はすべて他人のせいにしてしまう。

結婚するまではやさしかった夫が、結婚した途端、浮気はする、暴力はふるう、家に金は入れない、と嘆いている人がいる。しかも、「私はまったく悪くなく、悪いのはすべて夫である」と愚痴をこぼしている女の人がいる。本当にそうなのだろうか。このような行為自体は確かに夫も非難されることではあるが、そのような夫を選んだのは当の本人である。その女性が、自分で夫を選んだのだ。

何かの縁である人と知り合うのだが、縁は不思議なもので、いつでも、その人に一番ふさわしい人と出会うようになっている。自分自身がろくでもないときは、ろくでもない人間としか出会わない。その人が変わってくると、出会う人も変わってくる。つまり、そのような夫を選んだのは「自因自果」である。

自分の身に起きるすべてのことを、それが必然の出来事であり、それは自分にとって必要なことなのだと認めるとき、その人は救われる。阿弥陀様の計らいであると思っても、この世を取り巻くエネルギー、<存在>の力と思っても、「道(タオ)」の導きでも、とにかく、それはすべて自分のせいであり、自分にとって必要なことなのだと認められない限り、その人は救われない。ニーチェのように「神は死んだ」と言うのなら、「永劫回帰」に「Yes」と言えればよい。「悪因悪果」も、それは「自因自果」であると認めないなら、その人は百万回死んでも同じことである。

私たち一人一人に起きること、それはすべて過去の自分が行ったことや考えたこと、つまり行為や想念の結果が現在現れているにすぎない。そして、今、自分のやっていることが、将来、自分に返ってくる。


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