日本画の空間

花鳥画の世界

花

2000年6月13日


神戸のそごう百貨店で、日本画家の上村淳之(うえむらあつし)氏と、美術評論家の伊藤順二氏による対談があった。 <2000年6月10日(土曜)3時〜4時>

テーマは「花鳥画の伝統と淳之芸術のゆくえ」

この春、フェルメール展を大阪市立美術館に見に行った折、淳之の祖母にあたる上村松園(しょうえん)の作品が展示してあった。そのあと、父に当たる松篁(しょうこう)の作品を見て感動し、今回、淳之の作品展と対談があることを知り、仕事の合間をくぐり抜けて行ってきた。

 


たいていの日本画には背景がなく、対象物がポツンと描かれている。西洋の絵画と比べてみると、日本画は平面的であり、ある意味単調であるのだが、優れた日本画を見ていると、大変心やすらぎ、親しみを感じる。なぜそのような感じがするのか不思議であった。 これは何も私が日本人だからといったことではない。

淳之の作品や父松篁の作品と向かい合っていると、その親しみというのは自分が今いる空間と、描かれている世界がつながっており、枠の中にある世界とこちら側が裁断されていないからだと気がついた。どれほど古い作品であっても、すぐれた作品は時空を越えて作者の魂と、描かれている対象が私の前に命をもって現れてくる。

描かれている絵は平面的であり二次元ではあるが、そこには空間(三次元)も時間(四次元)も含まれている。西洋の絵画よりも、時空の幅が格段に広い。実際には広いというより、完全に宇宙と一体化している。

今回、対談の間、淳之の後ろには本人の作品が6点展示されていた。話をうかがいながら作品を眺めていると、ここに描かれているのは、作者の知り得た「梵我一如(ぼんがいちにょ)」を具現化したものであることがわかる。この世のすべてのエネルギーは大元で一つであり、鳥も花も人も風も雲も月も、花鳥風月ことごとくが、本来境目のないものであることが理解できる。だからこそ、描かれている鳥や花、空気までが親しく迫ってくるのだろう。

淳之の作品の中で、飛び立つ鳥、木の葉、おぼろにかすんだ月が一枚の絵の中に描かれているものがあった。空気の中に鳥の精、これはエネルギーあるいは魂と呼んでもおなじことなのだが、それに葉の精、月の精、空気の精が混然と一体となって描かれており、どこがそれぞれの境目かもわからない。すべての精は互いにつながっている。皮膚一枚で私と外界が区別されているわけではなく、本来、どこまでもつながっている。

日本画のもつ空間、それにとけ込むように描かれている花や鳥の精は技巧だけでは表現しえない。

「知ってしまった者」だけが知る感動は、本来、他人に伝えることなどできない種類のものである。葛藤の後にやってくる三昧の境地、そのとき作者は消え、魂は描いている対象の中にとけ込む。日本画のすぐれた作品に共通しているのは、空間がただのスペースではなく、作者の魂が充満している場である。そのため、たとえ額縁の中に入れても、どこまでも広がってゆくのだろう。


マジェイア

追加情報

「資生堂アートハウス」:上村松篁の作品が数点見られます。

「松伯美術館」:上村松園・松篁・淳之の作品を展示している美術館です。


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