「自性・縁起・空」について

ナーガールジュナの教えをもとに

1998年4月13日

仏教のキーワードのひとつに「空」(くう)がある。般若心経の一節、「色即是空 空即是色」にも出てくるあの「空」である。

仏教関係の書物を読み始めたとき、これがさっぱりわからなかった。しかし、ひょんなことからわかってきた。実際には、「空」がわかるためには、「自性」(じしょう)・「縁起」をわかる必要がある。

龍樹像 この3つが、同時にわかったと思えたのは、ナーガールジュナの『中論』をはじめとする、彼の一連の論文を読んでいるときであった。ナーガールジュナ(Nagarjuna:龍樹)は、釈迦の死後約500年ほどしてインドに現れた。(西暦50年から150年頃)大乗仏教に哲学的基盤を与え、後の仏教書で、彼の影響をうけていないものなど、ひとつとしてないといってよいほど、大きな影響を与えた人物である。ただ、彼の言っていることはどれも難解で、特に、独特の論理展開に慣れないと、詭弁を弄(ろう)しているとしか思えない面がある。宗教学者の書いている注釈書を読んで勉強したところで、それがいくら言語学的に正確であっても、そして文献学的考察が正確であっても、わけがわからない。

ナーガールジュナは、言葉の限界を知っていた。何かを言葉で表現することは、いつも全体から一部を切り取っているにすぎない。しかも、その切り取り方は一様ではなく、個々人の解釈でどうにでもなる。言葉で全体を表現することなど、できないようになっている。
そのため、瞑想体験のない宗教学者が、いくら詳しく調べたところで彼の言っていることは理解できない。「全体」を理解するのはロジックでは無理なのだ。しかし、実際には彼は何も難しいことなど言っていない。こちらが彼の思惟におけるリズムとロジックに慣れれば言っていることは大抵わかる。私もそれがわかってから、『中論』、『六十頌如理論』、『廻諍論』、『空七十論』と何でも、寝っ転がりながら読めるようになった。

ナーガールジュナが何かを否定するとき、たとえば「Aではない」と言うとき、それを聞いたある人は「非A」を勝手に自分で作り上げてしまう。

「偶数ではない」と言われたとき、「では、奇数なのだ」と思い、「男ではない」と言われたら、「では、女なのだ」と思い込むようなものである。

論理学で、「Aではない」というとき、全体集合が設定されている。「偶数ではない」と言われたとき、全体集合として「整数」を扱っているのなら「偶数の否定」は確かに「奇数」になるだろ。しかし、全体集合が実数であるのなら、「偶数ではない」と言われたところで、奇数とは限らない。2.5かも知れない。あるものを指して、「男ではない」と言われたときも同じこと。「ラジオ」かも知れないし、「チューリップ」かもしれない。

つまり、あることの否定は、あくまで"not A"であって、何か具体的な"not A"を指しているのではない。これがわかっていないと、頓珍漢な解釈になり、また詭弁としかとらえることができなくなる。

例えば、釈迦が言っているように、「執着することがすべての苦の根本である」というのは正しいのだが、では「非執着」がよいのかというとそうではない。「執着するな」と言うと、たとえば「お金に執着するな」という場合、これを「金にこだわるのがよくないので、すべてを投げ捨てて、裸一貫になればよいのだ」と思う人が必ず出てくる。しかし、お金をすべて捨てたところで何も起こらない。この人は、「非執着」という「新たな執着」に取り付かれているにすぎない。人は万事、この調子で誤解を重ねる。「人の役に立ちたい」などと公然と言っている連中の欲深さ、強欲そうな顔を思いだしてみたらよい。

話を少しもどして、ナーガールジュナが言っている「空」というのは「空っぽ」ということでも「無」ということでもない。広い意味で、「空っぽ」、「無」と言ってもよい場合もあるが、実際はそのようなことではない。これは、ものには「自性」(じしょう)がないということなのだ。では、「自性」とは何なのか。この「自性」こそが「空」を理解するキーワードである。

ナーガールジュナの言う「自性」は、「変わることのない、そのもの本来の性質」という意味である。永久不変の存在として、過去・現在・未来のいつでもその本来の性質を保ったまま変わることのないもの。過去にはなくてのちに生成・消滅することのないもの。原因・条件に依存して存在しないもの。このようなものを「自性」と呼んでいる。

「我」(ガ)とか「アートマン」も同じような意味で仏教界では使われてきた。一般には、すべてのものには「我」があると思われている。しかし、ナーガールジュナは、今まで仏教で言われてきたことをほとんどすべて否定している。「我」も「非我」もない。当然ながら、「我」がないのであれば、「我所」もない。「我所」というのは、「我が所有しているもの」という意味。平たく言えば、「私たち人間が所有しているものなど、何もないのだ」ということである。

今我々が住んでいるこの宇宙はできて150億年くらいになるそうだ。この地球にあるもの、地球に限らずこの宇宙にあるどのようなものも、150億年前からあったものなど何もない。150億年前、ビッグバンが起こり、その後できたものにすぎない。また今あるものも、いずれまた「消える」。

つまり、いかなるものも、永遠に変わることのないものなど何もない。「物」であれ、「意識」であれ、目に見えるものでも、見えないものでも、そのもの独自の不変の性質などはない。すべては変化の中で起きている一つの形態にすぎない。何もかも、他のものとの関係性・依存性のなかでしか存在していない。

ひとつの花が咲くには、水、光、土、空気、微生物、その他諸々の存在があってはじめて「在る」ことができる。一人の人間も、一個の石も同じこと。無数の他のものとの関係性のなかでしか存在できない。そのもの固有の「自性」などなにもない。

「空」というのは、いかなるものにも、「自性」などないということであった。
すべては「諸行無常」。常に同じ状態を維持できるものなどこの宇宙にはなにもない。

このことがわかっていれば、後は簡単。

すべては「縁起」によって生じているだから、どのようなものにも、「自性」はない。つまり、「空」なのだ。(「縁起」とは「他のものとの関係性によって起こる」ということ。)

人間に「自性」がないのであれば、その実体のない「我」が一体何を所有できるのだろう。

私たちは様々なものに執着して暮らしている。金、家、土地、知識、家族、愛情、、....。これらにも同様に実体はない。実体のない人間が、実体のない「もの」を追い求めるところから、すべての悩みは起きる。

しかし、先にも言ったように、これらを無理に捨てたところで何もおきない。「有」への執着が、「無」への執着に変わっただけで、実際には同じことにすぎない。何かを捨てなければならないなどと思っていると、それは結局、新たな執着が発生しているにすぎない。

むさぼることは意味がないが、自分に取って必要だと思うことは、そのまま受け入れておけばよい。自分が何かを欲するのなら、それはそれで意味があるに違いない。花が咲くためには、花は水や光を求める。それは執着ではない。花にとって必要なものなのだ。

金もあればあったでよいし、なければなくてもよい。すべては、「阿弥陀様のお計らい」だと思っておれば何が起きてもバタバタしなくて済む。

実際、一人の人間が生きて行くとき、自分で決められることなど何もない。もし縁があればそれが実現するだろうし、縁がなければそれは自分のところにやってこない。
縁も時節の中で移り変わる。すべては諸行無常と時節因縁で動いている。

もし、宇宙開闢以来存在していて、この後も永遠になくならないものがあるとするなら、それはこの宇宙全体に充満しているエネルギーなのだろう。ビッグバンが起きたとき、今の宇宙全体は鉛筆の先程度の大きさであったという説がある。そこに充満していたエネルギーが爆発し、膨れ上がり、今の宇宙ができた。いずれまた、冷えて収縮し、この宇宙全体が鉛筆の先程度の「点」となるまで収縮するのだろうか。「無」から「有」は生じないのであれば、すべてははじめからあり、これからも消えることはないとも言える。


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