おいしい生活(7)
神様の料理
一期一会

子どもの頃、私は料理少年であった。
日本でテレビが普及しはじめた昭和32年(1957年)頃、NHKテレビで『きょうの料理』が始まった。当時私は小学校に入ったばかりであったのだが、どういうわけかこの番組が好きで、いつも画面に貼り付くようにしながら見ていた。ノートと筆記用具を準備し、材料や作り方を克明にメモしていた。
江上トミ、飯田深雪、王馬煕純、赤堀全子といった方々が講師をされていた。
1960年頃、当時としてはめずらしい「グラタン」の作り方が紹介された。これを見たあと、私の頭の中は脳味噌がホワイトソースとマカロニに変わってしまったのかと思うくらい、寝ても覚めても頭の中はグラタン一色であった。
ホワイトソース、マカロニ、洒落たデザインのグラタン皿、オーブンという調理器、このどれもが私の心を捉えて離さなかった。日本は戦後の混乱期から抜け出し、様々な家電が普及し始めた頃である。しかしまだ一般家庭にはガスオーブンなどという洒落たものはなかった。
テレビで覚えたグラタンの作り方を毎日何度も何度も頭の中で思い出しているうちに、いてもたってもいられなくなってきた。
気がついたら、私は一人で近所の大阪ガスの店に行き、ガスオーブンを月賦で購入し、家まで配達してもらっていた。
小学生が一人で月賦のガスオーブンを買えるはずもないのに、実際に届いたのだから、今となっては不思議な話である。おそらく店の主人が祖母を知っていたため、祖母に請求書をまわせば支払ってもらえると思い、配達してくれたのだろう。それにしても親に断りもなく、勝手に大きな調理器具を買ってしまうのだから、私はとんでもない子供であったことは間違いない。
両親は突然大きな荷物が届いたので呆れていたが、グラタンを作って、家族みんなに食べさせるからということで、無理やり納得させた覚えがある。
その夜、早速作ってみた。
小麦粉、バター、牛乳でホワイトソースを作り、マカロニ、鶏肉などの具とまぜ、グラタン皿に入れてからも上にもたっぷりとソースをかける。オーブンに入れてから、耐火ガラスでできた覗き窓に顔がつきそうなくらい近づけて覗いていると、気泡がソースを破って出てくる。それは火山の噴火を連想させるようなわくわくする光景であった。そのあと、まっ白なソースにうっすらと焦げ目がついてくる。
最後にオーブンのふたを開け、中まで火が通っているのを確認する瞬間、それは錬金術師が釜からつぼを取り出すときの期待と不安もかくやと思うばかりのものであった。
仕上げとして、バターのかたまりを乗せ、粉チーズとパセリのみじん切りをふりかけると、できあがりである。はじめて作ったにしては上々の出来上がりであった。
このころ先の番組に講師として出演されるようになったのが、帝国ホテルのシェフである村上信夫さんである。
体中にぎっしりとおいしいものがつまっているような体躯、こぼれ落ちそうな笑みを満面にたたえたその姿は、絵画などで見る「西洋料理のシェフ」そのものであった。姿かたちだけでなく、人間的な魅力と、一流の料理人だけが発散するオーラが充ち満ちていた。
それまで料理番組の講師といえば、料理教室で先生をなさっている方ばかりであった。現役の一流シェフがテレビで料理を教えること自体、画期的なできごとであったはずである。
料理人は、自分が作り出した味を秘密にしたいものである。それを公開してしまうことには抵抗があったと思うのに、村上さんはフランス料理の神髄を惜しげもなく公開されていた。勿論、家庭用にアレンジはされているのだが、要所は手抜きすることなく、きちんと解説してくださっていた。これはフランス料理を日本で普及させたいという願いと、公開したところで、そう簡単には自分を越えられないという自信があったからできたにちがいない。
一度は村上さんご自身に作っていただいた料理を食べてみたいとは思っていたが、東京まで出かけて、帝国ホテルのレストランでフレンチのフルコースを食べて帰ってくるだけの勇気はなかった。近所のショップでガスオーブンを勝手に買ってくるようなとんでもない子供であった私であるが、そこまではできなかった。これが1961年、私が小学5年生のときの話である。
後年、東京での定宿を帝国ホテルにするようになったのも、村上さんの料理が食べられるから、というのもある。
今年(2001年)の8月頃、久しぶりに「村上信夫とフランス料理の夕べ」が開催されるというお知らせをいただいた。
今回のテーマは、文豪アレクサンドル・デュマ(1802−1870)である。『三銃士』や『モンテクリスト伯』等でよく知られているデュマは「料理事典」を残しているほどの食通でもあった。
予定されているメニューをながめると、デュマが好んで食したものや、デュマの事典をもとに、村上さんが再現してくださるものなど、興味深い料理がならんでいた。村上さんもいくらお元気とはいえ、現在80歳である。これから先、そう何度もいただける機会もないだろうと思うと、思案している余裕などなかった。即日申し込んだ。
会場で久しぶりにお見かけした村上さんは、相変わらずよく通る声で、ご挨拶や司会者からの質問にもてきぱきと答えておられた。頭の回転の速さは昔とちっとも変わっていない。
お顔はますます仏様のようになり、仏教学者の中村元先生とイメージがだぶってしまいそうになる。私にとっては神様でも仏様でもどちらでもよいのだが、ただそこにいてくださるだけで、周囲の空気が瞬時になごむ。どのテーブルを見ても、みんなにこにこ顔になっている。
会場は帝国ホテル2階、「孔雀の間」。参加者ごとに独立したテーブルが準備されている。他のテーブルとも適当な距離があるため、余計な気を使わなくてもよいのはありがたい。
メニューに掲載されている一品に
「カフェ・アングレで親しまれた珍品 燕の巣のダブルコンソメ」
があった。
「燕の巣」と聞いて、私が最初に思い浮かべたものは、家の軒先などでよく見かけた燕の巣である。最近燕の巣を見かけなくなったため記憶が定かではないが、泥と枯れ草でできたようなものであったはずである。いったいあれをどうやって料理に使うのか、想像もできなかった。
削ってスープの中に入れたとしても、おいしいとは思えない。ひょっとするとあの巣全体がスープ皿になっていて、その中にコンソメスープが入っているのだろうか……。
出てきたものは泥も枯れ草も入っておらず、器でもなかった。琥珀色に澄み切ったコンソメスープの中に、透明なひも状のものが沈んでいる。これが「燕の巣」なのだろうか。
村上さんの説明によると、燕といっても海燕の巣であり、断崖絶壁のような、大変入手困難な場所にあるそうだ。中国製のものもあるが、今回のものはフランスから取り寄せた逸品とのことであった。
海燕の巣は海藻と燕が出す唾液でできている。海藻を一度口の中で溶かして、唾液と混ぜて透明な液状にしてから作っているらしい。
「燕の巣」にはいくつかのランクがあり、食材としては、産卵前のものが最高だとうかがった。たまごを産み落としたあとのものや、孵化したあとのものは巣に燕の毛が混ざるため、それを細い串で一本一本取り除いてから使用しなくてはならない。今回のものはそのようなことをしなくてもよく、大変貴重なものであったようだ。
燕には少々気の毒な話だが、採ってくる人も断崖絶壁によじ登り、命がけである。しかしそれに見合う報酬が期待できるから、そこまで危険な目にあっても、採取する人がいるのだろう。
このような話をうかがっていると、『竹取物語』を思い起こしてしまった。かぐや姫が五人の求婚者に無理難題を提示する例の話である。「火ネズミの皮衣」や、「竜の首にかかっている五色の玉」等とならんで、「燕(つばくらめ)のもたる子安貝」もあった。これと比べれば「海燕の巣」はまだだいぶ楽かも知れない。
味?そんなものは、私の力ではとても言葉で表現できない。
テレビで、若い女性レポーターが何を食べても「おいし〜い」としか言えないのをばかにして見ていたが、私も同じようなものである。会場では「おいし〜い」という言葉さえ出なかった。ただ惚(ほう)けたように、にこにこしながら頂くことしかできなかった。
燕の巣のあとは、「デュマ紹介の古典魚料理 平目の香草風味 ヴェニス風ソース」
が続き、さらにそのあと、メインディッシュは
文豪デュマの友人 ヴュイユモ料理長創作メニュー ジビエ(鹿肉)のステーキ ポアブラードソース
または
特撰フィレビーフのパイ包み焼き ユッサルド風 フォアグラ入りデュクセル添えトリュフソース
この二つから、どちらかを選ぶことになっていた。
これは予約の段階で頼んでおかなければならなかった。案内状が届いたときはまだ狂牛病が問題になる前のことであったのだが、私は迷うことなくジビエをお願いしておいた。
友人にそのことを話すと、
「あなたはバンビのママを食べるつもりなの?」
と、まるで人非人(にんぴにん)を見るような目で言われてしまった。しかし、ジビエは牡鹿の肉であるため、バンビのママということはない。バンビのパパかもしれないけれど……。
日本では牝鹿や子鹿は捕獲することはできないため、鹿肉と言えば雄の肉になる。このようなものは西洋から入ってきたのだろうと思っていたら、昔から日本でも食べていたらしい。
明治のころまで、日本では表だっては動物の肉を食べる習慣はなかったが、馬肉を桜肉、猪の肉を牡丹肉、鹿の肉を紅葉肉と呼び、植物の名前に付け替えることで、実際には日常的にもよく食べられていたようである。
味は獣特有のにおいがあるのかと思っていたが、そのようなこともなく、大変おいしくいただけた。山の中を走りまわっているだけあって肉はほどよく締まり、ソースと煮込んでも存在感のあるしっかりした味になっていた。皿にはイチジクを煮たものが添えられていた。野性味ある鹿肉と、イチジクのほんのりした甘さが絶妙のバランスで口の中に広がった。
同伴者は「フィレビーフのパイ包み焼き」を頼んでいたので、一口分ずつ交換してみた。どちらがおいしいというレベルの料理ではないので、甲乙などつけられないのだが、イチジクとジビエの組み合わせには驚嘆していた。
今回、この会に出席した方々の大半はムッシュ村上のファンである。ファンと言うより、私と同じ、神様と思っている方ばかりかも知れない。
そのせいもあるのか、どこのテーブルを見ても、すべてのお皿がきれいに空になっていた。芸術としか言いようのない味を体験すると、一滴のソースも残したくないのはよくわかる。無意識のうちにパンで皿をぬぐうため、食べ終わったあとの皿が、これから料理が盛られるのかと思うくらい、光り輝いていた。
料理人にとって、客がひとつも残さず、きれいに食べてくれること以上の喜びはないのだろう、村上さんはじめシェフ一同、大変感激しておられた。参加者もこのことは司会者から言われてはじめて気がついたようで、辺りを見渡し、どのテーブルの皿も光っているのを見て、納得しあっていた。私など、人がいなければ皿をなめていたかもしれない。
40年前、私がテレビではじめて村上さんを見たとき、大きな衝撃を受けたのだが、その理由が自分でもよくわからないまま年月は過ぎていた。
この十数年の間に、何度もレ・セゾンをはじめ、帝国ホテルの中のレストランは利用しているため、どこかで村上さんご自身による手料理を頂いているのだろうという淡い期待はあったものの、シェフを指名してまでということはできなかった。
今回、実際に厨房で腕をふるってくださったのは現在の料理長以下、村上さんのお弟子さんの方々である。村上さんご自身の手料理ではないが、企画し、綿密な打ち合わせの段階で、十分村上さんの意志は伝わっていると私は思っている。
一流のシェフが、本気で作ればどんなものができるのかを見せてもらった思いがした。前菜からデザート、小菓子にいたるまで、何を食べても感激で、私の舌はずっとしびれたようになっていた。
一流の料理人とは、誰も気づかなかった味を,この世に一瞬だけ立ち上げる人なのだと思う。
その味は、食材や技術だけでなく、場所や人、その場の空気まで含めて完成する。
だからこそ、料理はいつも一期一会なのだ。
味は、決してシェフの腕だけで決まるものではない。食材、気候、場所、人、そしてその場に居合わせた自分自身−−
それらすべてが重なったとき、はじめて「その一皿」は生まれる。
40年前、ブラウン管の向こうから感じた圧倒的な存在感の正体を,私はようやく理解したのだと思う。
食事会が終わったあと、ご高齢にもかかわらず出口のところで参加者全員を見送ってくださり、みなさんお一人お一人と、二言、三言ご挨拶を交わしてくださっていた。
出席者の9割以上の人が長い列を作って並んでいたのも、このような素敵な料理と楽しい時間をプレゼントしてくださったお礼を言わずにはとても去ることはできないという思いからであることがよくわかる。長い列のため、私も細々としたお礼は申し上げられなかったが、はじめて「神様」の手を握らせてもらったとき、ごつくて、迫力のある手に圧倒されそうになった。80歳の手とはとても思えない。
これなら来年も間違いなくお目にかかれる。安心して部屋に戻ることができた。
この文章をかいてからも年月は流れたが、あの夜に見たオーブンの中の光景と,村上信夫さんのたたずまいだけは、今も少しも色あせていない。
(2001年・記)
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村上信夫とフランス料理の夕べ Vins 白ワイン Chablis ler Cru "Les Lys" シャブリ プルミエ クリュ ”レリー” 赤ワイン Chateau Grand Corbin シャトー グラン コルバン Menu Salade de Homard et Petoncle Classique a la Vinaigrette
aux Herbes Consomme Double aux Nids d'Hirondelle Supreme de Barbue Poele , Sauce Venitienne Sorbet au Marasquin
ou Coeur de Filet de Boeuf en Croute a la Hussarde
Charlotte de Pommes Glacees a la Polonaise Cafe Friandises
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平成13年11月9日(金)
帝国ホテル東京 孔雀の間