わたしのモノ、わたしとモノ。

これがあるとき、かれがある。

2003年2月10日
2009年1月10日改訂


 手の上に乗るくらいの大きさで、あなたにとってもっとも大切なものを見せて欲しいと言われたら、何を選ぶだろうか。

 昨年(2002年)の秋、神戸にある兵庫県立美術館でゴッホ展が開催されていた。その会場の入り口に貼ってあったある企画の案内に目がとまった。

「わたしのモノ、わたしとモノ。」 My object; I and object.

 美術作家、しばたゆりさんの企画によるイベントである。美術館に来ている人に参加してもらい、自分とゆかりのあるモノや大切なモノを両手で持ち、それを写真に撮って展示するというものであった。実際に展示されるのは2002年11月19日から2003年1月13日に開催されるイベント、「未来予想図〜私の人生☆劇場〜」の中である。それまで1、2ヶ月かけて、県立美術館を訪れた人にお願いして撮影をするようだ。

  ゴッホ展を見たあとも、このイベントがどうにも気になる。とにかく一度のぞいてみようと思い、撮影会場に行ってみた。想像していたよりも大きな部屋である。首から大きなカメラを下げ、参加者やスタッフにきびきびと指示をしているのがしばたさんなのだろう。すでに数名の参加者が順番を待っていた。机の上には黒いビロードを貼った板があり、板の後ろから手を出す格好で自分とゆかりのあるものを持つ。パネルにして展示されるときは手首から先だけになる。

 興味を引かれたので私も参加したかったのだが、こんなことをやっているなんて知らなかったため、何一つ準備してこなかった。鞄の中をひっくり返しても使えそうなものはなにもない。いつもなら一組くらいは持っているトランプさえない。財布の中を見ると、マジックのネタなら2,3あった。たとえばMr.マリックがよくテレビで演じている「シガー・スルー・コイン」、つまり火のついたタバコを100円玉に貫通させるマジックのネタはある。これは好きなマジックなのだが、これを撮影しても企画の趣旨にそぐわない。

 財布の中を見ると、金貨と、トランプが1枚だけ見つかった。このトランプはマリリン・モンローがまだデビュー前、ノーマ・ジーンと名乗っていた頃のものである。19歳の頃撮影されたヌード写真がトランプのバックにデザインされている。

  こんなトランプが財布に入っているのはギャンブルに勝つためのまじないでもなければ、モンローのファンだからというわけでもない。少し前、知人がぜひこのトランプを見たいというので、財布に入れておいたものがそのままになっていた。金貨はカナダのメープル金貨である。アメリカの50セント銀貨とほぼ同じ大きさのため、コインマジックの中で使っている。ある程度おもしろそうな写真が撮れるとしたらこの二つくらいしかない。

 さらに、品物と自分との関係を述べなくてはならない。撮影したモノがすべて美術館に展示されるとは限らないのだが、実際に展示されるときは1行程度の簡単な説明文が付く。それに必要なキャプションを書く欄があった。関係と言われても、ただウケねらいで出しただけなので、適当な説明も思いつかない。まあ実際のところ、美しい女性も金貨も決して嫌いではないので、

 「美女と金貨。どちらも大好き!」

と書いておいた。

 この撮影から数ヶ月が経った。しばらく美術館に行くこともなかったのだが、1月は東山魁夷版画展が開催されていることもあり、行ってみることにした。

 東山魁夷の特別展を見た後、迷路のように入り組んだ美術館の中を道順にそって進むと、「未来予想図〜私の人生☆劇場〜」の会場に着いた。11名の美術家が参加しているため、何部屋にも分かれて展示されている。各部屋を順に廻って行くと、広くて天井の高い、体育館のような部屋があった。ここが例の展示会場のようである。大きな壁の三面が、千人近い人の手と、その人にとって思い入れのある品物で埋め尽くされている。写真とはいえ、これだけの手に囲まれると圧迫感がある。

 予想外に多くの人が協力したのだろう、上の方にある写真など、高くて何を持っているのかよく見えない。ざっと全体を見渡しても、私の手が展示されているのかさえわからない。ヌード写真や金貨というふざけたものを出したからカットされているかもしれない。入り口に近いところから順に見ていくことにした。

 他の方々の品物を見ると、ありとあらゆるものがある。老眼鏡。これはお年寄りの方なのだろう。携帯電話に化粧品。最近の女子高生にとってはこの二つが命の次に大切なものなのだそうだ。位牌もあった。これは普段持ち歩いているとは思えないので、家から持ってきたのだろうか。阪神大震災の瓦礫の下から取りだした品物や、若くして戦死した息子さんの写真など、それなりに胸をうつようなものもあった。ほぼ最後まで見たが、私が提示したモノはどこにもない。やはり省かれたらしい……、と思った矢先、出口に近いところ、それも目線の高さという一番目立つ場所にあった。写真の下には「美女と金貨。どちらも大好き!」という、まぬけなキャプションまでそのまま入っている。おまけに英語でも

 A beautiful woman and a gold coin. I like them both!

と添えられていた。

  こんなことになるのなら、もう少しそれらしいモノを持ってきて、あらためて撮影してもらうべきだった。しかし今さらしょうがない。

 今回はこのような撮影があると知らなかったが、もし事前に知っていたら、何を持って行くか、あらためて考えてみた。しばらくあれこれと私の部屋にあるものを見渡した。だが、結局決まらない。私の周りにある雑ぱくなモノの数々は、他人が見ればガラクタとしか思えないものばかりである。どれも金銭的に安いものばかりというのは事実だが、たとえ高価であったとしても同じことだ。会場にあった数多くの写真を見ても、大半のものは他人が見ればどうでもよいようなモノばかりである。私だけでなく、みんなそうなのだろう。

 モノ自体に何らかの価値があるのではなく、それと自分との関係、つまり「縁」に何らかの価値を感じているから、そのモノに愛着がある。しかし縁も常に変化し続ける。

 これがあるとき、かれがある。
 これが生ずるとき、かれが生ずる。
 これがないとき、かれがない。
 これが滅するとき、かれが滅する。

 これは仏教の縁起説を説明するときに用いられるよく知られたフレーズである。「これ」が消滅すれば「かれ」も滅する。すべては自分とモノとの関係で決まる。その縁が消えたとき、「かれ」も消える。

 私たちは様々なものに囲まれ、中には後生大事に執着しているものもあるが「私のモノ」と言えるモノなど、実際には何もない。私との関係の中でしか存在しないモノ、しかもその「私」でさえ「これが私」といえるようなものは「意識」くらいしか思いつかない。身体は言うまでもなく一時の器にすぎない。実体のないこの身体に宿っている意識、「これ」があるとき「かれ」があったとしても、それもまた夢・幻のような関係にすぎない。

 私にとって大切にしたいものはあるが、それは形のあるようなものではない。形あるものはいずれ必ず消滅する。そのうち消えてしまうモノに絶対的普遍的な価値などあるはずがない。とは言え、いま自分の周りにある数々のモノは私を楽しませてくれている。どれもそれなりにいとおしい。それらが私を取り巻く全体の一部を作っていることも事実である。

 他人が見ればガラクタとしか思えないようなものでも愛着はある。しかし究極の何かをひとつ選び出し、掌の上に提示してみろと言われたら、それはちょっと話がちがう。畢竟(ひっきょう)、私に限らず誰にとっても、大切にしたいものは、形のあるようなものではないのだろう。

 そういえば、サン=テグジュベリは『星の王子さま』のなかで、キツネが王子さまと別れるとき、王子さまに向かってキツネに語らせている。

 「さっきの秘密をいおうかね。なに、なんでもないことだよ。心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは目に見えないんだよ」

     『星の王子さま』 内藤濯 訳

 しばたゆりさんが今回のイベントでやりたかったことは、あなたにとって究極的にいとおしいものは何なのかという問いかけと同時に、形のあるもので、そのようなものはないのだという気づきを与えるのが目的ではなかったのだろうか。執着を捨てようとしても簡単に捨てられるものではないが、今回のように、最後の最後まで残しておきたいモノを探してみることで、自分にとって最も執着しているものが見えてくるかも知れない。


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