わたしのモノ、わたしとモノ。
これがあるとき、かれがある。
2003年2月10日 (update:2026年2月26日)
手のひらに乗るほどの大きさで、あなたにとって最も大切なものを見せてほしい――そう言われたら、何を差し出すだろうか。
2002年の秋、神戸の兵庫県立美術館でゴッホ展が開かれていた。会場の入口に貼られていた一枚の案内が、私の足を止めた。
「わたしのモノ、わたしとモノ。」
My object; I and object.
美術作家・しばたゆりさんの企画で、美術館を訪れた人が自分にとってゆかりのあるモノを両手で持ち、その姿を写真に撮って展示するというものである。写真には手首から先だけが写る。顔も名前もない。ただ手と、その人にとって大切なモノだけが並ぶ。
ゴッホ展を見終えても、その企画が妙に気になった。撮影会場をのぞいてみると、黒いビロードを貼った板の後ろから、参加者が両手を差し出している。首から大きなカメラを下げたしばたさんが、きびきびと指示を出していた。
私も参加したくなった。だが、こんな企画があるとは知らなかったから、何の準備もしていない。鞄をひっくり返してみたが、ろくなものが出てこない。いつもなら一組くらいは入っているトランプさえ、その日に限って持っていなかった。
財布の中を探ると、金貨とトランプが一枚だけあった。
トランプは、マリリン・モンローがまだノーマ・ジーンと名乗っていた頃の写真がデザインされたものだ。金貨はカナダのメープル金貨で、コインマジックに使っている。
特別な意味があって持ち歩いていたわけではない。たまたま入れっぱなしになっていただけだ。しかし、今この場で差し出せるものは、それくらいしかなかった。
撮影の際には、品物と自分との関係を一行で書く欄がある。深い意味など考えていなかった私は、ついこう書いてしまった。
「美女と金貨。どちらも大好き!」
軽い冗談のつもりだった。
それから数か月後、「未来予想図〜私の人生☆劇場〜」という展示が始まった。東山魁夷の版画展を見たあと、その会場に足を運んだ。
広い体育館のような部屋の三面が、無数の手で埋め尽くされている。老眼鏡、携帯電話、化粧品、位牌、震災の瓦礫の下から取り出した品、若くして戦死した息子の写真――。
写真とはいえ、これほど多くの「思い」に囲まれると、圧迫感さえ覚える。
それに比べて、私の「美女と金貨」は、なんとも軽い。
おそらく選から漏れただろうと思いながら見て回っていると、出口近く、しかも目線の高さという目立つ場所に、それはあった。
「美女と金貨。どちらも大好き!」
A beautiful woman and a gold coin. I like them both!
まるで私の軽薄さが、壁いっぱいに掲げられているようで、少々気恥ずかしかった。
帰宅してから、もし事前に知っていたら何を持っていっただろうかと考えてみた。本棚や机の上、引き出しの中を見渡す。しかし決められない。どれも私にとっては愛着のある品だが、他人から見ればただのガラクタである。
展示会場に並んでいた品々も同じだ。モノ自体に普遍的な価値があるのではない。それぞれの人とそのモノとの関係――つまり「縁」に価値があるのだろう。
ふと、仏教の縁起の言葉が浮かんだ。
これがあるとき、かれがある。
これが生ずるとき、かれが生ずる。
これがないとき、かれがない。
これが滅するとき、かれが滅する。
モノの価値は、その人との関係の中にだけ生まれる。縁が消えれば、価値もまた消える。
私たちは「私のモノ」と呼ぶものに囲まれているが、本当に「私のもの」と言い切れるものなど、あるのだろうか。身体さえもいっときの器にすぎないとすれば、確かなものとは何なのか。
サン=テグジュベリは『星の王子さま』の中で、キツネにこう語らせている。
「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは目に見えないんだよ」
しばたさんの企画は、「あなたの大切なモノは何ですか」と問うと同時に、「本当に大切なものは、形の中にはないのではないか」と静かに問い返していたのかもしれない。
それでも、私の机の上には相変わらず金貨があり、引き出しにはあのトランプがある。形あるものはいつか消えるとわかっていながら、私はそれらをいとおしんでいる。
手のひらに乗せて差し出せるものはある。だが、本当に差し出したいものは、きっと目には見えない。
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