「自己実現」という妄想

 

1997年8月30日

数年前、「人格改造セミナー」とか「自己改造セミナー」というようなものが流行っていた。
社員教育という名目で、会社が社員にさせるものや、個人で申し込むものまで数多くあった。(現在もある)

個人が自主的に、何らかの都合で自分を変えたいという気持ちになることはよくある。
そのようなとき、宗教に走ったり、哲学をかじってみたりして、何らかの「答」を求めようとする。 しかし、実際にはそのような答を探しに行ったところでどこにも「落ちて」いない。
答はすでに、いつでも自分自身の中にある。

「自己実現」というのも妙な言葉である。この言葉は、心理学者のマズローが広めたものだが、「自己実現を目指す」という限り、「現在の自分は『実現』していない」という想いに取り付かれているのだろう。 本当の自分はもっとすばらしいものであり、当然行きつくはずのレベルにまだ達していないことを不満に思い、何とかしたいという焦りがあるのだろう。

まだ実のならない木が、早く多くの果実をつけたいと望んでいるようなものだろうが、草・木はそのような愚かしいことは望まない。望んだところでどうなるものでもない。なるようにしかならないことを知っている...、、、いや、知る知らない以前に、そのような妄想に取り付かれることもない。

種子は種子として、芽は芽として完成している。葉は葉として、花は花として、いつだって完全な姿になっている。芽が果実にコンプレックスを持っているわけではない。果実は茎、葉、花に優越感を持っているわけでもない。いつの時点でも、その草・木にとっては完全な姿をしている。枯葉は枯葉として、老木は老木として十全な姿をしている。

また、リンゴの木は蜜柑の木をうらやましいとも思っていない。人間だけが妄想に取り付かれてしまっている。しかし、実際は人間だって同じことである。いつでも、その人はその人の十全な姿になっている。太い細い、長い短いの差はあっても、隣と比べたところでどうなるものでもない。

インドの聖者、ラマナ・マハリシが、「どうすれば自己実現できるのでしょうか?」という問に答えて言っている。

 

実現というのは、新しく獲得される何かではない。それはすでにそこにある。必要なことのすべては「私は実現していない」という想いを追い払うことである。

(中略)

さらに、「どうやって自己に到達できましょうか?」という問に答えて

自己に到るということはない。自己がもし到られるべきものならば、それは今ここにはなく、やがて得られる何かを意味するだろう。新しく得られるものはまた、失われるものでもある。それは永遠のものではない。永遠でないものに努力する価値はない。それゆえに、自己は到るものではないと言うのである。あなたは、自己である。あなたはすでに”それ”である。

『ラマナ・マハリシの教え』 めるくまーる社

人は知識を身につければつけるほど、見えるものが見えなくなる。 フィルターにフィルターを重ねて、ますます見えなくなるのだろう。このフィルターさえはずしてしまえば、すべてそこにあるものは見えるのに、様々な知識がフィルターを強固にしてしまっている。

アメリカ先住民族の人達の間に伝わっている言葉を読むと、彼らの洞察力には驚嘆する。余計な知識や妄想なしに事物をあるがままに見ると、本当は誰でも気づくことなのだろう。

そう言えば昔ドリスデイが歌って流行った歌に、" Que sera sera."(ケセラセラ)というのがあった。 英語では"Whatever will be will be.."と訳されているが、スペイン語とほぼ同じ対応になっている。

「存在するものは、何であっても存在する」。逆に言えば、存在しないものは何であっても存在しない。

地域差や年代など関係なく、わかる人はわかっている。存在しないもの、「無」を求めて右往左往するのは愚かしい。


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