シャボン玉
1999年2月15日(改訂)
1997年7月31日
少し前、東京の「北の丸公園」にある「科学技術館」に行ってきました。
科学技術に関する様々な分野の展示物や、実際にそれを使って、体験しながら学ぶことのできる装置もあります。 建物は1964年にできたので、全体に古いのですが、歴史的に貴重なものに加えて、つねに最先端のものも紹介しようとしている意欲がうかがえます。
エンターテインメントの部分を専門の業者などに依頼して、もう少し工夫すれば同じことを見せるにしても、もっと楽しく見せることができるはずです。 各フロアーは、天文,機械、コンピューター、錯覚など様々な分野に分かれています。
ここに行った目的は、人が入ることのできる大きなシャボン玉があると教えてもらったからです。 目的はシャボン玉ですが、時間もあったので、下の階から順に各フロアーを廻りながら、上がって行きました。ところが、最上階までたどり着いたのに、どこにもシャボン玉がなく、もうやっていないのかと、諦めかけていました。すると最上階の隅に、「ワークスの部屋」というのがあり、館内の実験道具や展示品の修理・改造を行っている場所がありました。この一角に、シャボン玉があったのです。
人間が入れるくらいのシャボン玉のことをはじめて聞いたときから、私はてっきり、針金で作った金魚すくいの枠の大きいようなもので、係員がシャボン玉を作り、それを頭からすっぽりとかぶせてくれる場面を想像していました。しかし、実際はもう少しメカニックな装置です。
直径70センチ程度の丸い台があり,その上に立つと,石鹸水に浸した大きなリングが足もとから上がってきて,シャボンの筒ができるのです。「シャボン玉」というより、「シャボン筒」と言ったほうが近いでしょう。ただこれは,中に入っている人が自分で操作する事は出来ません。外にいる人にハンドルを持って、力で上げてもらう必要があります。
シャボン玉の中に入って驚いたのは、外から見ているとあれほどキラキラと虹色に輝いていたシャボンが、中からではほとんど見えないのです。膜ができているのか、できていないのかさえわからないような状態でした。よく見ると確かに膜は見えますが、内部からはほとんど見えません。
私たちの周りには空気が取り巻いていることなど、普段は意識すらしていません。水の中に住んでいる魚も、周りには水があることなど気がついていないと思います。空気の存在など、今では小学生でも知っていますが、一般の人がそのようなことを知ったのは、人類の歴史全体でみても、ごく最近のことです。
人類最初の宇宙飛行士、ソ連のガガーリンは、大気圏外からはじめて地球を見たとき、「地球は青かった」という、あまりおもしろくもない一言を残しました。もう少し気のきいたことが言えないのかと思いましたが、しかしあれこそが、ガガーリンの素直な驚きであったのでしょう。大気圏外から肉眼で地球を見たとき、はじめて、地球が青く輝く、美しい星であることが実感としてわかったのだと思います。
理屈としては地球も宇宙に浮かんでいる一個の星であることはわかっていても、それを真っ黒な宇宙からながめてみることで、地球は青く輝く大気につつまれ、無数の生命が存在している1個の星として認識できたのでしょう。
いつも私たちの周りにあるのに気がつかないこと。それに包まれていると、その存在そのものが当たり前になってしまい、見えなくなっています。そこから一歩出て、外からながめてみることではじめて見えてくるものがあります。「観照」というのは仏教の言葉ですが、そのものから一歩出て、対象をながめることで、新たな発見が起きることは珍しくありません。
今回の、シャボンの中に入るという体験はガガーリンの場合とは逆でした。いつも外からながめていたシャボンが、内部に入ってしまうと見えなくなります。膜があるのかないのかもわからなくなってしまいます。このことは、私たちを取り巻いている<存在>、あるいは「愛」でも同じことでしょう。
私たちはいつも<存在>につつまれています。しかし、水の中の魚が水を認識できないように、<存在>を認識できません。どうにかしてそこから一歩出て、観照者としての立場からながめてみることでしか<存在>を認識できません。
わかっているつもりのことでも、一歩外に出るか、中に入るだけで、違う世界があることを感じさせてくれる体験でした。
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