ルドルフ・シュタイナー
出力器官としての目
2001年3月21日
ドイツに、ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner、1861〜1925年)という人がいた。日本では、「シュタイナー教育」の創始者として少しは名前がとおっているかもしれないが、その全体像はほとんど知られていないのが実情であろう。私もシュタイナーの名前だけは昔から知っていた。しかしシュタイナーの著作リストをながめると、教育、芸術、哲学、心理学、建築、医学、天文、農業、その他、文字どおり森羅万象に渡っており、実体は漠としてよくわからなかった。
大型書店では、シュタイナー関係の本は哲学と宗教の間に置かれていることが多い。どの棚に本を並べるかは、書店の担当者が決めるのだろうが、この位置はシュタイナーが世間でどのような認知のされかたをしているのかを端的に示しているとも言える。書店の人も苦労しているのだろう。
現在、大阪で「ルドルフ・シュタイナー100冊のノート展」が開催されている。 (2001年3月3日(土)〜4月5日) 日本におけるシュタイナー研究の第一人者である高橋巌氏(元慶応大学教授)の講演会もあったので行ってきた。
会場ではシュタイナーが残したノートやメモが数多く展示されていた。このノートは他人に見せるために書いたものではなく、何かがひらめいたときや、考えたことをメモした覚え書きである。そのため本人以外の人が読むと、何かの暗号か落書きのようにしか見えないものも多い。おまけに私はシュタイナーについての予備知識はほとんどゼロといってもよいので、本来ならとても理解できなかっただろうが、高橋氏の解説を読ませていただいたり、話をうかがったりしていると、ある程度わかってきた。
シュタイナーを理解できないのは日本だけではない。ドイツ以外の国はもとより、現在のドイツでも事情はあまり差はないようだ。教育理論に一目は置かれているものの、それを受け入れる教育機関はそれほど多くはない。日本でも幼児教育に取り入れているところがポツポツと見られる程度に過ぎない。
話が逸れるが、現在スペインには数世紀にまたがり建造中の聖堂がある。アントニオ・ガウディの設計によるサグラダ・ファミリア聖堂がそれなのだが、この中で、「生誕の門」の彫刻を任されている日本人、外尾悦郎氏が先日帰国されていた。そのときのインタビューで印象に残った言葉がある。
「ある人を理解しようと思ったら、その人の作品だけを見ていても理解できるものではない。とくにその人が並はずれた人物であるのならなおさらである。そのようなとき、作品だけでなく、その人が見ていた方向を一緒に見るようにすれば、その人の全体像がわかるものだ」
今回の「ノート展」は、そのような意味でもありがたいものであった。シュタイナー自身のおおもとになっている部分や、宇宙観、つまり向いている方向がよく理解できた。
シュタイナーのことがある程度わかってくると、彼の考え方を受け入れるのは、キリスト教を背景とするヨーロッパ社会では抵抗があるだろうと思える。しかし仏教やインド哲学について多少とも馴染みのある私たち東洋人には、それほど違和感はないような気がする。今回、シュタイナーが残したノートをながめていてわかったことは、彼の頭にあったのは「梵我一如(ぼんがいちにょ)」に他ならないということであった。つまり、自分と宇宙は一体であること、それを言葉ではなく、芸術的な感性を十全に伸ばすことで、一般の人にも気づかせようとしていたのであろう。 それがシュタイナー教育の根底に違いない。
具体的には、意識、それは人類が生まれるずっと前、この宇宙が出来たときからすでに、エネルギーという形で存在していた。その「意識」が様々な衣装を身につけて、いっとき人間の形をしたり、鳥や花、石になっているだけであるとシュタイナーは考えている。
無から有は生じない。今、私たちにある「意識」、それは「魂」とも「エネルギー」と言い換えてもよいと私は思っているが、そのようなものが存在するのであれば、それは肉体とは別のものとして存在してもおかしくはない。肉体はそのようなものを包む仮の住みかにすぎない。それは時が来ればやがて消えるが、意識、またはエネルギーは消滅することはない。おそらくここのところがわかりにくいのだろう。
しかしエネルギーは形を変えることはあっても、消えることがないのは現代物理学の教えるところでもある。無から有は生じないのと同様に、有が無になることもない。人類が生まれる前から宇宙にはエネルギーが充満していた。それが今、私たちの目にしている事物は、今このときだけ、形ある物質になっているだけである。このことは科学を学んできた私たちにも、抵抗なく受け入れられるのではないだろうか。
展示されているノートには数多くの絵もあった。木にヘビが巻き付いているもの、「まが玉」のようなもの、渦巻き状の図など、ながめているだけでは何かのデザインかと思うようなものも多い。
その中のひとつに、横を向いた人間の顔を描いた図があった。光が目から入り、その光が脳に伝わり、再び目から出て行くところが描かれていた。この絵は私自身に様々なことを連想させ、古い記憶をよみがえらせてくれた。
日常、私たちの目にはいろいろな光が飛び込んで来る。目に見えているものはすべて何らかのエネルギーを持っているのは当然としても、それらを全部認識しているわけではない。私たちが「見ているもの」は、そのうちのごく一部にすぎない。0.000……%といったものだろう。
ある対象物をながめているとき、それは暗闇で、一部にスポットライトをあてているようなものかも知れない。光があたっていない部分にも、ものは存在しているが、それは私たちの認識の外にある。スポットライトがあたっているものだけが見えている。普段私たちは、自分に必要な情報だけを無意識に、または意識的に取捨選択しながら対象物を見ている。
先のシュタイナーの絵では、対象物から出た光が目に入り、脳の一部にたどり着いたあと、再び目から出て行く。それがまた対象物にとどくといった考え方は、私にとっては大変新鮮なものであった。見るという行為は、光が向こうから入ってくるだけではなく、こちらが意識的に、対象物にスポットライトをあてていると言ったほうがよいくらいである。
実際、目は入力器官としてだけでなく、出力器官としての働きもあるとシュタイナーは考えていた。「見ることは見られること」という言葉がある。人は何かを見るとき、同時にその対象物からも見られている。この言葉自体は、芸人が芸をするとき、見ている観客も、実は芸人から見られているのだ、ということを意味している。芸人は常に観客の反応を見ながら、その時、その場の観客にあわせて自分の芸を変えている。また格別知ろうとは思わなくても観客の個性や、”人となり”まで、自ずとわかってしまう。この言葉自体はこのような意味なのだが、それとは別に、「見ることは見られること」に関して、私が小学校の低学年であったころ、散髪屋に行くたびに不思議で仕方のないことがあった。
当時、近所にあった散髪屋は、壁に向かって椅子が三つ並んでいた。椅子の前には鏡がある。左端の椅子に座り、髪を刈ってもらっているとき、隣の席の前にある鏡を見ると、そこに座っている人の顔は見えないで、さらに隣の席、つまり右端の人が中央の鏡に写っていた。光の入射角と反射角の関係でそうなることは、今なら理解できるが、当時はこれが不思議で仕方がなかった。左端にいる私が、右端の人の顔を中央の鏡で見ているということは、右端の人には、中央の鏡に私の顔が写っているのだろうと想像できた。つまり、子供心にも自分が何かを見ているときは、同時に向こうからも見られているのだと気づいたのだが、これは当時の私には大発見であった。観察する者は、常に観察される者でもあるのだ。
今回、シュタイナーの絵を見ていると、そのことがさらにはっきりしてきた。その絵は、何かを見ているとき、いつだってその対象物との間で、何らかのやり取りが起きているのだと私に気づかせてくれた。見るという行為は、決して一方通行ではないのだ。
対象物から来た光は目から入り、それが体内で私自身のフィルターを通過した後、それを再び対象物に向かって照射している。早い話、私のエネルギーが、私の見ているものに対して、何らかの影響を与えているということである。
もし何かを見るとき、共感をもって対象物を見れば、その「波動」はそのように伝わる。反感をもって見れば、それもそのように伝わる。対象物が人であっても、花でも鳥でも、石であっても、自ずとこちらの気持ちが「波動」となり、伝わることになる。ここでいっている「波動」というのは物理学で定義されている「波」というより、「気分」「空気」に近いかも知れない。
子供は敏感である。誰かと目が合っただけで、この人は自分に対して好意を持ってくれているかそうでないかを一瞬にして感じ取る。言葉でどれほどやさしそうなことを言っても、嫌だと思えば拒絶する。小さい子供に限らず、おとなでも何かの折りに、ふと人の視線を感じることがある。これは見つめている人から照射されているエネルギーを感じ取ることがあるからだろうか。
自分と宇宙が一体であるとわかるためには難行苦行など必要はなく、人間が本来持っている五感すべてを十全に機能させることができれば、一般の人でもそのことに気づくとシュタイナーは考えていた。そのための方法論として、芸術活動をはじめとする様々な試みをおこなっていたのだろう。
私たちが見つめるもの、あるいは心の中で思ったことが、直接的あるいは間接的にではあっても対象物に対して影響を与えるのだと理解できれば、すべてのものは連鎖しており、自分と宇宙が一体であるという実感をもてるのではないだろうか。
「ルドルフ・シュタイナー 100冊のノート展」
2001年3月3日(土)〜4月5日(木)
11:00 〜 21:00 (最終日のみ19時にて閉館)
KPOキリンプラザ大阪(4 階KPO GALLERY, 6階KPO HALL)
入 場 料 大人700円/学生500円(中学生以下無料) >
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