パソコンショップの中で、デジタルの置き時計を売っていた。10万年に1秒しか狂わないということと、3,000円と安かったので、つい買ってしまった。買ってから1ヶ月ほどになるが、テレビの時報と比べても、いつもぴったり一致している。これは想像以上に気分がよい。説明書を読んでみると、10万年に1秒しか狂わないとは書いてあるが、10万年「もつ」とはどこにも書いていない。(当たり前か) 液晶の時計だから、よくもって10年くらいのものだろう。 それにしても、10年と10万年.....。誇大広告にならないのだろうか....と思いながらデジタルの点滅を眺めていると、10万年、いや、もっと永い時間について想いを馳せてしまった。
10年と10万年と言えば途方もなく大きな差であるように感じられるが、またどちらも一瞬であるとも言える。
「時」の話が出てきたついでに、マイスター・エックハルトに登場してもらおう。 こんなことを言っている。
(時が満ちるというかぎり)もうそれ以上の時間はないというのであれば、いつ「時が満ちる」というのであろうか。時の内で人の心が永遠の内へと移され、一切の時間的事物がその人の内で死するとき、そのときが「時の満ちる」ときである。以前に話したことであるが、時の内にあって喜ぶ者は、常に喜ぶということはない。
(中略)
時を超え、時の外にある人が常に喜ぶのである。
『エックハルト説教集』
「時の内にあって喜ぶ者は常に喜ぶということはない」とは、どういうことだろうか。
これは、「一時の楽しみ」、例えば「宝くじに当たること」は嬉しいことではあるが、しかしそのお金はやがてなくなる。つまり、「時の内に悲しむ」ことになる。ということは、それは本当の喜びにはなり得ない。すなわち、一瞬の喜びにすらなり得ない。
これは、日常生活で私たちの身の回りに起こる「嬉しいと思えること、心ときめくこと」のほとんどすべてに当てはまる。
「時の外にある人」、つまり物理的な時間を超越して、永遠の時の中でも喜べるようなことだけが、本当の喜びであるとエックハルトは言っている。
これは確かにそうなのだが、そう言ってしまうと身も蓋もないと私は思っている。 ヘタをすると、虚無主義になってしまう。別に虚無主義が悪いというのではない。それはただ趣味の問題にすぎない。 いずれにしても、虚しくなるのは、詰まるところ、「すべては無に帰する」からであることは明白である。
話が広がりすぎるが、ついでなので、この際言っておくことにする。(誰に?)
人が生きていることに意味などあるのだろうか。あると言えばあるし、ないと言えばない。
誤解して欲しくないのは、意味がないというのは、無意味ということではない。「出来合いの意味」、誰にでも当てはまるような究極の意味などないということなのだ。所詮、この世は現象学.....。いや、こんな言葉を持ち出すとかえって胡散臭くなる。 要するに、好きなように自分で意味付けをすればよいだけなのだ。
「人生とは***であると、私は決めた!」、と自分で宣言すればよい。それでおしまい。気が変われば、「***」を「XXX」に変えればよい。変えるのに、誰にも遠慮などいらない。それで怒るような神様も、宇宙人も、タオもない。自分自身の意味付けがすべてなのだ。 自分にとってしっくりくるものを作り上げたら、それが「お悟り」になる。
東洋の思想は、この部分に関していえば西洋をはるかに越えている。ナーガールジュナ(龍樹)を持ち出すまでもなく、「有でもなく無でもないもの」、「一即多即一」、等々、恐ろしくも有り難い教えが充満している。
「時間」に関しても、東洋思想や禅のほうがずっと柔軟に出来ている。
「刹那滅的宇宙」、つまりこの世はフラッシュバックのようにパッ、パッと瞬間、瞬間に消えてはまた、新しい世界が生まれているという解釈。(物理的世界を含めても問題ないが、まあ、認識の世界ということにしておく。)
道元禅師曰く、「前後ありと言えども前後裁断せり」。 「一刹那即永遠」。東洋では、昔から、「永遠の中に瞬間が、瞬間の中に永遠がある」ことを知っていた。
どんな理屈を展開しても、最後は全部無になるのは厳然たる事実である。原子レベルに戻ってしまう。いや、ことと次第では、原子ですら存在できないレベルになるだろう。これだけは誰が何と言っても無駄なのだ。この事実の前にはどんな理屈も信心も屁の突っ張りにもならない。
これにひょんなところで気づいて発狂する人、自殺する人、いろいろいるが、自殺してもしなくても、たどり着くところは同じなのだからあわてることもない。 宇宙のメカニズムがそうなっているだけ。誰かが恣意的にコントロールしているわけではない。
先ほどのエックハルトの言葉、「時間を超え、時の外にある人が常に喜ぶのである」、というのもそのとおりなのだが、瞬間の中に永遠を見つけることが出来れば、たちまち話は逆転する。
桜の花は数日で散ってしまうが、その数日が、桜にとってはそれがそのまま永遠!
そう解釈しておけば、友人とのバカ騒ぎ、コンサートでの盛り上がり、家族との団らん、彼女とのSEXも、その人にとっては、すべて永遠に通じる喜びに転化する。何も「時の内のできごと」にすぎないと悲観する必要などない。先ほども言ったが、この世で唯一絶対なのは、「すべては死ぬ、そしてすべては無に帰る」ということに尽きる。 それを踏まえて、どう意味づけをするかは、個人の自由なのだ。
どうせ無になるのだから、今日で死のうと思ってもOK。そして死ぬための方法論も、『完全自殺マニュアル』から、それに類するものまで数多くある。自分を納得させてからでないと死ねない人用の「指導マニュアル」もある。どうせ、だれだってあと100年もしないうちに、「無」になるわけだから、楽しんでやれと思うのもひとつの選択肢だ。私なんて煩悩と欲のかたまりみたいな人間だから、死ぬまでは生きていてやろうと思っているが、どうも世の中は、深刻そうな顔して、早く死ぬと偉そうにみられるようだ。でもどっちだって同じこと。
あなたはこの世をどう意味付けするのだろう。
昔、神戸に、「ぐるぐるまわってやっぱり山口屋」という広告を出している店があったそうだ。 ぐるぐるまわっても、まわってこなくても、同じところにたどり着くようになっているのがこの世の仕組みなのだ。
最後に、ランボオの『地獄の季節』から引用させてもらう。
{おれがしっかり思い出しているとしての話だが}おれがしっかり思い出しているとしての話だが、昔は、おれの生活は饗宴だった、そこではあらゆる人びとの心が開き、酒という酒が流れていた。
或る夜のことだ、おれは美を膝に座らせた。
--さてみると、やり切れぬ代物だった。--
それでおれは毒づいてやった。おれは、正義に対して武装した。
おれは逃げた。おお、魔女たちよ、おお、悲惨よ、おお憎しみよ、おまえたちなんだ、おれが宝をあずけたのは!おれはとうとう、おれの精神のなかから、人間くさい希望などことごとく消してしまうことが出来た。ありとあらゆるよろこびの息の根をとめるために、そのうえに野獣のように音もなく躍りかかった。
おれは、死刑執行人どもを呼び、くたばりながら、奴らの鉄砲の台尻に噛みついてやった。殻竿(からざお)の刑を呼び、砂にまみれ血にまみれて窒息した。不幸がおれの神であった。おれは泥のなかにながながと寝そべった。罪の風で身を乾かした。さてそれから、狂気を相手にあれこれひどいペテンを仕組んでやった。
そして春が、おれのところに、ぞっとするような白痴の笑い運んできたのだ。ところでつい近頃のことだ。すんでのことでぎゃっと最後の音(ね)をあげそうになって、おれは、昔の饗宴をよみがえらせる鍵を探してみようかと思い立った、あの饗宴なら、たぶんまた食欲も湧こうというものだ。
慈愛がその鍵だ。---こんな考えが閃いたが、これはおれが夢を見ていた証拠だ!「いつになっても、おまえはハイエナかそんなところさ.....」と、昔いかにもかわいい罌粟(けし)の花でおれの頭を飾ってくれた悪魔のやつがわめき散らす。「死でもくわえこむんだな、おまえの食欲を総動員して、おまえのエゴイズムや七つの大罪のありったけを振りまわして。」
やれやれ! そんなものならいやと言うほど手に入れたよ。---だけど、親愛なるサタンよ、伏してお願いしたいんだがね、そんなに苛々した目付きはしないでくれないか! のびのびになっているちょっとした陋劣な代物はいずれお見せするとしてそれを待つあいだに、あんたは物書きには描写や教訓の才などない方がお好きなんだから、おれの堕地獄の手帖からも見るも無惨な、二,三枚を破り取ってお目にかけよう。
『ランボオ全詩』 (栗津則雄訳 思潮社)
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