月見をしながら

 

お月見

1999年9月23日


30年ほど前、叔父が大きなガラス瓶にスズムシを数匹入れて持ってきてくれた。なすびやキュウリを割り箸に突き刺したものを2日に一度くらいの割で交換して、時々霧吹きで水を掛けてやるだけで、秋口から数ヶ月鳴いてくれた。

ことさら手を掛けなくても、次の年にはまた新しいスズムシが土の中から生まれてきては鳴いてくれていた。これが数年続いたが、祖母が亡くなった後、こまめに世話をするものがいなくなってしまった。瓶の中にあった砂を庭の隅に蒔いておいたら、翌年から、庭でスズムシの鳴き声が聞こえてくるようになった。瓶の中に残っていた卵が孵化したのだろうか。

そのときから20数年間、毎年、秋になると庭さきからスズムシの声が聞こえていた。それが阪神大震災があった年の秋から、鳴き声がしなくなってしまった。うちも兵庫県南部に位置するが、それほど壊滅的な被害を受けたわけでもなく、庭にも大きな変化はないはずなのに、突然鳴かなくなってしまった。あれからもう4回目の秋を迎える。

今年の夏、茶道具を扱っている店に立ち寄ったとき、偶然、木製の虫かごを見つけた。これは虫を入れるためのものではなく、茶会などで、茶菓子を出すときの演出として使うものらしい。

虫かご

もう少し涼しくなったら、十五夜の月でも眺めながら庭先でお茶を一服というのは風情なものだろう。そんな場面を想像していると、突然、スズムシの鳴き声が聞こえてきた。この虫かごには、下に菓子を置く台も付いており、かごを台から取り上げるとスズムシの声が流れてくるような仕掛けになっている。

ススキの穂や、十五夜の月を頭の中に思い浮かべていたが、電子部品で作り出されたスズムシの声はどうにも興ざめになってしまう。この電子音は不要だが、木でできた虫かごは欲しかったので買ってきた。

暑かった夏もようやく終わる気配がしてきた数日前、かごを庭が見える部屋に持ち出した。お茶をたててもらっている間、月を眺めていると、スズムシの声が聞こえてきた。かごの台からかと思ったが、そうではない。よく聞いてみると、庭から聞こえてくる。隣はお寺で、昔は寺の境内と、うちの庭の間には幅が1メートル足らずの川があっただけで、垣根も何もなかった。うちの庭先からお寺の庭もよく見えており、川を飛び越すだけで自由に行き来ができた。それがいつの頃からか、防犯のためもあり、間には塀が出来てしまっている。そのため、今では庭同士がつながっていることはないのだが、寺の庭には虫が色々といるのだろう。ひょっとすると、それが聞こえて来ているのかも知れないと思い、庭に出てみた。よく耳を澄ましてみると、確かにうちの庭先からであることがわかった。またスズムシが復活したのだろうか。30年前、叔父が持ってきてくれたスズムシが、代々、庭先で鳴き続けてくれているのだろうか。不思議なような、不思議でないような、妙な気分であった。と同時に、少し前に、NHKでやっていた遺伝の番組や、ドーキンスの本のことを思い出していた。

「人は遺伝子を守るために生かされているにすぎない」という説がある。主役はあくまで遺伝子であり、人間の体は遺伝子を残していくための道具にすぎないということらしい。
(『生物=生存機械論』(1976年、リチャード・ドーキンス著、紀伊國屋書店)

これまで、「薔薇の木には薔薇の花が咲くこと」が当然と思われていた。たまに、鳶が鷹を生んだのかと思えるようなことがあっても、遺伝子はしっかりと、何代にも渡って生きながらえてきた。遺伝子を人為的に操作することなどできないと思われていたのだが、今ではそうでもないらしい。

今世紀後半から遺伝子工学は急激に進歩した。まもなく20世紀は終わるが、21世紀は、生き物までデザイン出来るようになるらしい。遺伝子を操作することで、生まれてくる人間の子供まで好きなようにデザインできるそうだ。

どんな醜女、醜男の間であっても、その時代に流行の顔をもった子供が作れる。目の大きさ、髪の色、骨格、何でも自由自在。脳味噌にしても思いのままになる。IQが、二人あわせて100くらいしかない夫婦の間でも、アインシュタイン並の頭を持った子供が作れるようになるのだろう。しかもこれらがすべて生まれる前からコンピューターの画面上で、出来上がりの姿まで確認できる。赤ん坊のときの姿は勿論、17歳になったときの姿まで、製造前に確認できる。専門のデザイナーも出てくるだろう。毎年、秋にはパリコレが開かれるかも知れない。「カリスマデザイナー」に自分の子供をデザインしてもらうためなら、1年や2年の予約待ちくらい、平気だろう。優秀な遺伝子は闇で法外な値段で取り引きされたりする、秘密のルートもできるのだろう。

昔、作家のバーナード・ショーが、パーティに出席しているとき、ある女優から逆ナンパされた。結婚を申し込まれたのだ。

「あなたの頭脳と私の美貌を持った子供が、私たち二人の間に産まれたら、どれだけ素敵なことでしょう」

女優はこうプロポーズしたのだが、ショーは冷たく言い放った。

「そうなれば素敵かも知れませんが、もしあなたの頭脳と、私に似た子が生まれたら、これ以上悲惨なことはありませんからお断りします」

このようなセリフも、21世紀には使えなくなるのだろうか。


indexIndexへ homeHomeへ

k-miwa@nisiq.net:Send Mail