ヴェネツィア

 

Venice

1998年6月22日


イタリアのヴェネツィアは「水上都市」と呼ばれている。水に浮かんでいるわけではないが、船の上からヴェネツィアを眺めると、確かに海の上に浮かんでいるとしとか見えない。実際は、500年ほど前、海に突き出た浅瀬、潟(かた)に無数の杭を打ち込み土台を作った。そうしてできた土台の上に都市を建設した。

ヴェネツィアの人々はヴェネツィアを自慢する。世界中、どこにもこんな都市はないと言う。確かにそうだろう。彼らがヴェネツィアを誇り思っていることは間違いないが、それと同時に、私は初めてヴェネツィアを訪れたときから、島全体に漂っている、白けた雰囲気も感じていた。住人の表情も同様である。無愛想というわけではない。愛想良く接してくれても、どこかさめている。白けているというより達観に近いのかも知れない。

ヴェネツィアにいるときは感じなかったが、去ってからしばらくして、私にはそこが「水上都市」というより、むしろ「空の都市」という呼び方こそふさわしいのではないかと思えてきた。「そら」ではない、「くう」である。実体のない場所、虚飾の都市という意味である。

ヴェネツィアに限らず、世界中のどこの都市であろうと国家であろうと、実体など何もない。すべては私たちのイメージの産物にすぎない。それはわかっているのだが、ヴェネツィアほどそのことを実感させてくれる場所はなかった。

500年前、海の中に杭を打ち込み土台を作った人達は、最初からこの上にドゥオモ(大聖堂)のような巨大な建造物を造るつもりだったのだろうか。もしそうなら、正気の沙汰とは思えない。「砂上の楼閣」が危うさの例えとして使われるのなら、「水上のドゥオモ」など、それの千倍危ういと感じてもよさそうなものではないか。これを作った人達は、何かの拍子にこれが海の中に沈んで行くかも知れないという不安を感じなかったのだろうか。彼らもきっと感じてはいたのだろう。しかし、沈んだら沈んだときのことだと開き直っていたのだろうか。そうでないと、あのようなものを作れるはずがない。どこに何を作ろうが、永遠に続くものなどないのなら、短くても、花開いたという実感が持てたらそれでよいと思っていたのだろうか。いつ崩壊するかも知れないという不安、恐れは、それ自体いつしか恍惚に転化する。

 

mask

ヴェネツィアの中を歩いていると、数多くある土産物屋のなかでも、カーニバルのときにかぶるマスクを売っている店が目につく。どのマスクも美しく彩色されて人目をひくが、その表情はカーニバルの陽気さとは裏腹に、冷ややかな嘲笑を含み、どこまでも醒めている。人々がこのマスクをかぶるとき、この町の風景と完全に一体化している。町を美しく着飾るのも、いずれここは海の中に沈み、すべてが消滅してしまうことを知っているからだろう。やがて消えてしまうからこそ、精一杯の化粧をし、今ある生を満喫しているのだろう。  

 

mask

 

島全体が運命共同体であり、その呪縛から逃れられないことをヴェネツィアは最初から気づいていた。それ故に、この町は悪あがきも訪問者に媚びることもしないのだろう。

マジェイア


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