「わたし」はいつから「わたし」になったのか

1998年1月21日

生まれたばかりの赤ん坊には「心」はない。しかし生まれた直後でも「意識」はある。

母親の子宮の中でも意識はあったのだろう。いったい、私の「意識」は「いつ」生まれたのだろう。精子と卵子が結びついた受精の瞬間なのだろうか……。

それはひとまずおくとして、ここに私が生まれて間もない頃の写真がある。生まれたばかりの私の写真を見ても、これが今の自分と同じものだとはとうてい思えない。しかし世間一般ではこの赤ん坊と私は「同じ人」ということになっている。だがいったい何をもって同じと言っているのだろう。

この世のすべては縁起のなかで生じ、去って行く。実体のあるものなど何もない。変化のスパンが少し長いものは、実体があるように感じるだけにすぎない。

ローソクが燃えているとき、今見ている炎と1分前に見た炎は同じなのだろうか。同じと言えば同じ、違うと言えば違う。

もし「連続していること」を「同じ」と解釈するなら同じである。

しかし実際は「同じ炎」などありえない。

人間の体も同じこと。皮膚、血液、細胞も、生まれてから今まで、同じものなど残っていない。炎とどこが違うのか。

それなのに、世間一般では、写真に写っている赤ん坊の私と、今の私は同じだということになっている。本当にそう言ってよいのだろうか。

もう少しさかのぼって、あなたが母親の中にやどり、妊娠3ヶ月目くらいの胎児のときの写真があるとしたらどうだろう。それを見ても、あなたはそれが自分であると言えるだろうか。受精した次の日に撮った受精卵の写真があるのなら、それを見て、それが今のあなたと同じと言えるのだろうか。

「自己」を連続体として定義するなら、写真に写っている赤ん坊、または受精直後の受精卵があなただと言えないこともないだろう。

では、受精があなたのスタートだとするのなら、受精の前、あなたは存在しなかったのだろうか。さらにあなたが死んだとき、あなたの体はなくなる。そのときあなたは完全に消えるのだろうか。

すべては縁起、つまり、この世のすべてのものは何かと何かの関係性のなかでしか生じない。唯一、それだけで存在できるものなど何もない。

もし今の私と、生まれたばかりの、写真に写っている私が同じもの、連続体であるのなら、つながっているのは肉体であるはずがない。連綿とつながっているのは「意識」なのだろう。もう少し平たく言うなら何かの「エネルギー」と言ってもよい。意識でもエネルギーでもどちらでもよいが、連続しているものは目に見える物質ではなく、エネルギーのようなものだろう。

比叡山の「根本中堂」には、千二百年前から燃え続けている灯明がある。実体のない炎が千二百年間も燃え続けているのは、エネルギーが別のローソクや油に移り、それが延々とつながり続けているからだ。千二百年前の「炎」が残っているわけではない。

伝わるのは人の意識、またはエネルギーだけであるのなら、受精の瞬間に新しいエネルギーが生まれたのだろうか。

ろうそくが燃えるには、燃える素になる物質がいる。その物質が形を変え、実体のない炎となっている。父と母からきた精子と卵子を媒介として、エネルギーが一個の受精卵になるとき、そこにはどのようなものが含まれているのだろう。おそらく父や母の生きてきた中で関係してきたすべてのことが凝縮して詰め込まれているはずだ。すべての業(ごう)が含まれているに違いない。これは決して比喩ではない。物質は存在しない。すべてに実体はない。物質と見えるものは、ただエネルギーの一時の姿にほかならない。たとえ目の前に見えているように思える石ころでも、あまりにも大きなエネルギーのため、その振動、振る舞いがいっとき幻影を作っているに過ぎない。これは量子力学の言うところと同じだが、釈迦は二千五百年も前から気づいていた。

あなたがあなたになったのはいつなのか。そしてあなたが「消える」ときなど来るのだろうか。


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