「私」を取り巻く世界

1998年3月18日

私たちは山や川、建物、さまざまな生き物が存在している「空間」にいる。

人は生まれたとき、突然、「時空」の中に放り出される。しばらくすると、自分の周りに「世界」が出来ていることに気がつく。 自分の周りの世界を初めて意識する3、4歳の頃。それから年月が経ち、10代、20代、30代……、と生きて行くにつれ、いろいろな世界のなかを通り過ぎて行く。

周囲を見渡すと、ある人はいつも楽しそうな世界を、またある人はいつも悲しく悲惨な世界に生きている。人生は不平等なものだと思うこともある。まるで本人の意思や行いとは無関係であるかのように、ある人のところには幸運が集中し、別の人のところには不運が集中しているように見えることもある。

人はすでに出来上がっている世界、誰かが作り上げた世界がすでにあり、その中を歩きながら、偶然に、時には楽しいこと、また時には悲しいことと遭遇しながら空間の中を通り過ぎているように思っている。偶然誰かと出会い、そして別れると思っている。

今の自分を取り巻いている世界は物理的、地理的な要素に加え、多くの人達から構成されている。家族、友人、知人、恋人、仕事関係の人、近所の人……。このような人々との出会いも、偶然なのであろうか。それとも必然であったのだろうか。

偶然と言えば偶然、必然と言えば必然であるのだが、サイコロを転がして、無作為に選ばれた者同士が偶然出会っているわけではないだろう。

一人の人間は、磁石のようなものかも知れない。この磁石は磁力が固定したものではなく、強さも、引き寄せる材質も、刻一刻と変化している。何を吸い寄せるか、変化し続けている。

私たちが生まれたとき、確かに物理的空間はすでにあった。そして時間と空間の中を手探りで進んで来たように思うが、実際はむしろ逆で、自分自身はいつも動かず、座標軸の中心にあり、周りの世界が自分のほうに向かって寄ってきているのかもしれない。中心である自分自身は動かず、そこにはいつも自分がいる。その中心をとりまく世界が動くとき、自分の前を通り過ぎる無数の物や人の中から、あるものだけを吸い寄せ、拾い上げているのかもしれない。

引き寄せる力はその人の業(ごう)、つまりそれまでの行いが決定する。磁石としての強さや、何を引き寄せるかは、その人が今、何をし、何を考えているかで変化し続ける。

世界が時間の流れに乗って自分のほうに向かってきたとき、そのときの自分自身の業が、そのときの自分にとって必要なものだけを引き寄せる。砂と鉄が混ざっていても、磁石は鉄だけを抜き出すように。

もし、ある人が自分の周りは素敵な世界だと思えるのなら、それは結局自分自身が引き寄せた世界である。自分自身の行いや思考の凝縮したものが今の自分をとりまく世界を形作っている。誰かがどこかからもってきてくれて、私やあなたにプレゼントしてくれたものではない。 すべて自分が引き寄せたものである。

同様に、自分は年がら年中不運で、自分の周囲にはろくな人間しかいないと思っているのなら、それも自分自身がそのような人達を引き寄せ、自分でそのような世界を作り上げているのだろう。誰かがあなたに、そのような世界を押しつけているわけではない。

どのような世界が住みやすく快適であるかは人によって一様ではない。ある生き物の住みやすい場所が、他の生き物には生きてゆけない環境であることは、自然界を見渡せばいくらでもある。客観的によい世界、絶対的に快適な環境など、どこにも存在しない。

この世のすべては「縁起」、つまり他との関係性の中でしか起こらない。それだけで存在できるものなど何もない。自分を取り巻く世界を変えたいと思っているのなら、それはたぶん簡単なことなのだ。自分が変われば世界は一瞬にして変わる。写真のネガとポジが逆転するように、同じものを見ても、たちまちにして一変する。

あなたの周りが、いつも素敵な人に囲まれているのなら、それはあなた自身が素敵な人なのだろう。あなたの周りには、バカで嫌な人間しかいないと思っているのなら、あなたがまさにそのような人物なのだろう。いつだって人は自分の世界を自分で作り出している。誰かに文句を言ったところで何も起こらない。


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