梵我一如の体験

 

2000年12月17日


十月末、長野の善光寺に行ってきた。これまで私はふしぎと長野には縁がなく、善光寺に行くのもこれが初めてであった。牛に引かれて行ったわけではなく、インドから長野に里帰りしている美女にひかれて、ついふらふらと行ってしまっただけなのだが、それでも貴重な体験ができたのは善光寺の御利益なのだろうか。

善光寺の中には「戒壇めぐり」という真の闇が体験できる場所がある。ご本尊が祭ってある祭壇のすぐ横に、地下に通じる階段があり、そこを降りて行くと一切の光が入り込まない場所に出る。部屋というより、通路になっているらしい。ここを手探りで進んで行くと、途中に鍵があり、その鍵に触れると極楽往生ができると言われている。この鍵の真上にご本尊の阿弥陀如来がお祭りしてあるそうだ。

本尊は秘仏となっているので公開されることはないが、七年に一度だけ身代わりの仏様が開帳される。阿弥陀如来は宇宙に充満している全エネルギーの象徴としての「存在」であり、私にとっては最も心安らぐ仏様である。鍵にさわることは、あこがれの「人」に触れるようで、気分が高揚していた。

「戒壇めぐり」の入口から下に降りてみると、呆れるほど真っ暗で、どのような造りになっているのかまったくわからない。目を開いていても閉じていても違いはなく、何も見えないことに戸惑った。完全な闇の中では、自分が今いる場所がどのくらいの広さなのかもわからない。方向や広さ、高さの感覚がなくなると、これまで体験したことのないような恐怖心が沸き上がってきた。今この場でぽっくり死んだら、永遠にこのような真っ暗な状態が続くのかと思うと、一刻も早くこの場から逃げ出したくなってきた。

プラネタリウムなどで、突然部屋が暗くなっただけで小さい子供が泣き出すことがよくある。人間には本能として暗闇を怖れる何かがあるのだろうか。

日常的にも暗い場所はあるが、完全な闇ということはなく、どこかに光はある。夜でも月や街灯のあかりが射し込み、完全な闇にはならない。ところが「戒壇めぐり」の中では、まったく何も見えない。

最初、何とも言えない恐怖に襲われたが、しばらくその場で立ち止まっていると、不安感や怖れは徐々に消えて行き、むしろ安らぎさえ感じ始めた。

完全な闇はそのまま大宇宙とつながっており、時間や空間をも呑み込んでしまっている。そこには漠とした「存在」だけが充満しており、私たちはその中に包まれていることが徐々にわかってきた。

私と外界との境目、自分と自分以外のものを分ける境目があるのなら、それはいったいどこなのだろう。皮膚一枚で、私と外界とは分けられているのだろうか。完全な闇の中では、そのような境目は消えてしまい、意味をもたなくなっていた。これまであると思っていたものがなくなり、自分の意識だけが暗闇の中で浮かんでいた。肉体はすでに消滅していた。

本来宇宙がそうであるように、私たちもただ漠として「在る」のだと思えたとき、言い知れぬ安堵と安らぎがみなぎってきた。


indexindex homeHome Pageへ
k-miwa@nisiq.net:Send Mail