魔法都市日記(67)2002年6月頃
ガラス製のAce of Heartsとハーフダラー
6月は体調もすっかりよくなったので、仕事の合間をぬっては出歩いていた。下旬あたりから暑くなってきたが、それもあまり苦にならないところをみると、よほど調子がよいらしい。
某月某日5月末からFIFAワールドカップ(W杯)が始まり、6月は日本中がサッカーに燃えていた。
神戸駅の南、「モザイク」に行く途中に、W杯までの残り日数を表示する電光掲示板があった。「あと500日」といった数字が表示されていたときは、まだずいぶん先のことのように思いながら眺めていたのに、気がついたらいつの間にかその日がやってきていた。何事であれ、そんな日が本当に来るのかと思っているようなことであっても、必ずその日はやってくる。
世界的にみると、サッカーはスポーツ人口としては最大なのだそうだ。テレビの観戦者数だけを比べても、オリンピックより断然多い。
日本でサッカーが今ほどメジャーなスポーツになる前、南米やヨーロッパの熱狂ぶりを見ていると、正気の沙汰とは思えなかった。たかがサッカーの試合に負けただけで、暴動や殺人、ときには国家間の戦争の引き金になるのだから、どうしてそこまで熱くなるのか理解できなかった。
今回のW杯でも、優勝候補であったフランスやアルゼンチン、ポルトガルが予選リーグで負けて決勝リーグに残れないことが決定した瞬間、母国で放心したように立ちつくしているサポーターがおおぜいいた。その場にしゃがみ込み、絶望で頭を抱えている老人の姿も映し出されていた。
反面、アメリカのようなスポーツ大国でも、アメリカが予選リーグを勝ち抜き、決勝トーナメントに入ったことすら大半のアメリカ人は知らないそうである。ニュースでもほとんど取りあげられないため、大半のアメリカ人はサッカーのW杯が行われていることも知らないという現実がある。卓球の世界選手権は2年に一度開催されているが、そのようなものがいつどこで行われているのか、日本人の99%は知らないのではないだろうか。アメリカでのサッカー人気は、卓球程度のものかも知れない。
アメリカはさておき、日本は燃えていた。大半は”にわか”サッカーファンであるのだろうが、売れ残りチケットを販売すると、20分ほどの間に数百万件の電話が殺到したのだから、みんな必死になっていた。私も数回電話を掛けてみたが、ウンともスンとも言わなかった。
これだけ手に入れにくいチケットなのに、いつもメールをいただくM氏などは9試合を観戦したそうだ。そのうちの6試合は韓国でのゲームのため、W杯の期間だけで日本と韓国の間を5往復したそうである。みんながチケットを手に入れるために苦労ししているのに、どうして9試合分も入手できたのかと不思議に思っていたら、特定の国を応援するためのチケットが販売されていたようである。日本ではあまり知られていなかったようだが、サポーターのために、ある国が勝ち進んでいる間は、その国が出場するゲームはすべて席が確保できるシステムなのだそうである。このチケットを利用して、M氏はポルトガルの追っかけをやっていた。優勝候補にも入っていたポルトガルが予選リーグで敗退してからは、韓国戦に切り替えたそうである。いまだに耳の奥から「テーハ、ミングオ!」の大合唱が離れないとメールにあったから、無事社会復帰できたのか心配になっている。
私は仕事で休めないため、もっぱらテレビでの観戦であったが、それでも日本がトルコに負けるまで、毎日気もそぞろであった。不景気で暗い事件ばかりが起きているなかで、ひとときでも憂さを忘れることのできるものがあるのは幸せかもしれない。
韓国の健闘にくらべて、日本はいつもあと一歩のところでがっかりさせてくれる。9年前は「ドーハの悲劇」があり、前回のW杯では予選で一勝もできずに敗退、今回も決勝トーナメントでも1、2勝はできる気分でいたときにトルコに負けてしまった。韓国やトルコの善戦と、優勝候補といわれていた国が次々と予選で落ちてしまうのを見ていると、勝負事というのは、どうしても勝たなければという気迫の差で、かなりの部分が決まってしまうものだと、あらためて感じた。
某月某日
今年は東大寺の大仏開眼1250年にあたる。それにあわせて奈良国立博物館でも「東大寺のすべて」展が開催されていた。(2002年4月20日〜7月7日)
この前東大寺に行ったのはいったいつのことなのか、思い出せない。しばらく行っていないのは間違いないとしても、はっきりしている記憶は小学校の4年生、つまり40年ほど前ということになる。夏休みに両親と3人で行った記憶だけは鮮明に残っている。このとき以来ということもないと思うのだが、ひょっとすると本当に40年ぶりなのかも知れない。
東大寺への参拝もさることながら、奈良に行くのも2年ぶりくらいになる。奈良と京都を比べると、自宅からの時間はどちらもJRで1時間程度であり、料金は京都までが約800円、奈良が650円で、距離的にはむしろ京都より近いはずなのに、奈良のほうがずっと遠く感じてしまう。これは奈良が東海道線からはずれていることと、盆地の中にあり、周囲を山に囲まれた中に入って行くからということもあるかもしれない。
奈良駅と京都駅を比べると、奈良駅は昔ながらの小さな駅なのに、京都駅は巨大な駅ビルと一体化している。東大寺や奈良国立博物館周辺を散策しても、空気が京都とはまったく違っている。京都駅周辺は今や大阪、東京ともあまり差はないが、奈良は駅を降りた瞬間「のどか」という雰囲気が漂っている。東大寺や奈良国立博物館周辺を散策しても、空気が京都とはまったく違っている。
とにかく久しぶりに奈良に行ってみることにした。
今回のイベントの目玉になっていたのは、秘仏「執金剛神立像」(しゅこんごじんりゅうぞう)である。これは例年であれば12月16日の1日だけ、三月堂(法華堂)の横にある扉を開けて一般公開されている。これが期間中、公開されていた。できることならこれも博物館に移したかったようだが、構造上、土台から離せないため、三月堂まで行かなくてはならなかった。同じ境内の中とはいえ、東大寺は広いため、門をくぐってからでも三月堂までたどり着くにはかなりきつい山道を登る必要がある。
JR奈良駅でタクシーに乗るとき、三月堂と博物館に行くつもりであると言うと、車がやっと通れるような細い山道を登って、三月堂の前まで着けてくれた。途中、70代、80代のお年寄りが歩いて登っている横をすり抜けるようにタクシーで行ってしまうのは申し訳ないような気分ではあった。しかし歩いて登っていたらその後はバテてしまって、博物館をまわる元気はなくなっていたかも知れない。
三月堂で執金剛神立像を見るには、普段の拝観料500円とは別に、もう500円払わなければならなかった。三月堂の本尊は「不空羂索観音立像」(ふくうけんさくかんのんりゅうぞう)であり、この観音様の横を守るような位置に執金剛神立像は立っている。
執金剛神立像これが仁王の原型になったといわれるだけあり、恐ろしい形相をしている。手に持っている金剛杵(こんごうしょ)はスーパーウエポンとでもいうような強力な武器であり、いかなる仏敵も一撃で破壊してしまうといわれている。口の部分や左腕の一部にはまだ朱色が残っているため、一層迫力がある。
東大寺には国宝だけでいったいいくつあるのか知らないが、三月堂にある16体の仏像だけでも12体が国宝、4体が重要文化財に指定されている。天平文化のエッセンスが凝縮しているだけあり、どれも大変美しい。本尊の中央に位置する不空羂索観音立像は高さ約3.6mもあり、大きく、迫力がある。
三月堂に入ると、ずいぶん窮屈そうだな、というのが第一印象である。ラッシュアワーの電車ほどひどくはないにしても、大小さまざまな仏様が16体もびっしりと並んでいるため、ずいぶん狭苦しく感じる。あとで知った話では、元来他の場所にあった仏像をここに運び入れたため、当初の数より増えたようだ。そのせいで、窮屈になっているようだ。
三月堂を出た後、山道を下って大仏殿に向かう。
東大寺の境内にはそこらじゅうに鹿がいる。売店で鹿煎餅を買って、あげようかと思うのだが、手に持っているのを見つけられると、鹿がいっせいにこちらに向かってくるのではないかという恐怖心があった。修学旅行の中学生が鹿煎餅をあげている様子をしばらく眺めて観察すると、手に煎餅を持っていても、決して突進してくるようなことはないようだ。こちらが手を差し出すと寄ってくるが、無理にぶつかってくるようなしない。鳩よりもずっと行儀がよい。1枚あげたあと、まだ欲しそうにあとをついてくるときは、鹿に向かって、「もうない」とはっきり言うと、それ以上は追いかけても来ない。人間の言葉がわかるのか?
鹿は境内だけでも数百頭はいるため、中には病気や、体が不自由なものもいる。木陰で一頭、群れから離れて昼寝をしているのがいた。煎餅を差し出したら、立ち上がらないで頭だけ上げ、寝そべったまま煎餅を食べている。「寝たまま食べたら牛になる」と、一言文句を言ってやろうかと思ったら、足が悪くて立ち上がれないようであった。他には白内障なのか、片目が完全に見えなくなっている鹿もいた。これだけいれば、人間同様、いろいろな鹿がいても不思議ではない。
鹿の管理はどうなっているのか詳しくは知らないが、見物客からもらう鹿煎餅だけで生きていけるとは思えない。糞は道の上にも落としているので、実際にはもっと落ちていそうなものだが、これもあまり気にならないところを見ると掃除をする人がいるのかも知れない。鹿煎餅の売り上げもバカにならない金額だと思うので、みやげ物屋の人なども、協力しているのかもしれない。
鹿に煎餅をあげたり、みやげ物を買ったりしながら金堂(大仏殿)まで下りて行くと、ほどなくして大仏殿が見えるところまで出てきた。大仏殿の前はずいぶん広い空間があるが、これはまったく記憶がないため、本当に40年近く来ていなかったのかもしれない。
一歩中に入ると、大仏様は想像していた以上に大きい。子供の頃遊んでいた場所に成人してから行ってみると、思っていた以上に狭かったり、小さかったりするものである。ものの大きさは相対的なため、自分の体が小さいときには大きく見えていたものでも、ひさしぶりに、同じものを見ると、ずいぶん小さくて、驚くことがよくある。しかし、大仏は想像していた以上に大きかった。地方から来ている修学旅行の生徒は本物の大仏を見るのははじめてのようであった。足を一歩を踏み入れたとたん、イメージしていたものよりはるかに大きいようで、そこら中から「オーッ」という驚嘆の声があがっていた。
東大寺の大仏は盧遮那仏(るしゃなぶつ)と呼ばれているのだが、これがお釈迦様とどういう関係になっているのか、実のところこれまでよくわからなかった。漠然と、お釈迦様の偉大さを誇張するため、可能な限り大きく作ったものだろうと思っていたのだが、今回よい機会なので、東大寺の方にたずねてみた。最初、受付に座っている女の子にたずねると、どうにも要領を得ない説明しかないため、さらにたずねてみると、手に負えないと思ったのか、詳しそうな人を連れてきてくれた。
要するに、大仏というのはお釈迦様の悟り、すなわちこの宇宙全体の真理を象徴、あるいは具現化したものであり、広い意味ではお釈迦様と大仏様は同じものと思ってよいとのことであった。これでだいぶ納得できた。
大仏殿は今でも木造建築としては世界最大である。落雷などで、これまで何度か建て替えられているが、あれだけ巨大な木造建築が数々の地震や台風にも長い年月耐えてきているのであるから、当時の建築技術の高さにも驚嘆するしかない。
これだけ大きな屋根を支えているのだから、使われている柱はどれも大変太い。入り口から右奥にある柱の1本は、下の方をくり抜いて、くぐり抜けられるようになっている。この穴の大きさは、大仏様の鼻の穴と同じ大きさなのだそうだ。40年前は私もくぐったのだが、今ではどう見ても頭くらいしか入らないと思うので、くぐるのはやめておいた。
東大寺を出て、すぐそばの博物館にも向かう。この博物館は外から見ると別棟に見える建物が地下でつながり、地下にもレストランや展示場があるため、外から見る以上に大きい。展示物は東大寺から運び込まれた数多くの国宝や重要文化財をはじめ、どれも貴重なものばかりである。それが目の前、数十センチの至近距離で見られるため、寺にあるときよりも細部までよくわかる。
東大寺は国宝、重要文化財の宝庫であり、そのうちのかなりの数が博物館に移されていた。しかし大きすぎて移せないものや、土台と一体化していて仏像だけを運ぶことができないものなどもあるため、東大寺と連動させての展示となっている。博物館と東大寺の入り口は、歩いて5分程度の距離しかない。近いといえば近いが、四天王立像を会場まで運ぶときは日通の美術品を運ぶ専用車で、1時間もかけたそうである。前日には車の通るコースをほうきで掃き、さらに厳重に梱包したあとコンテナに積み込み、内部では1体につき二人の係員が両側から押さえて運搬したそうである。外部からの振動を極力抑えて、そろりそろりと運ぶらしい。確かNHKで制作されているテレビ番組、「プロジェクトX」でも国宝級の絵画や、仏像のような貴重でデリケートなものを運ぶときの様子が以前特集されていたが、海外から運び込まれるときと変わらないくらい大がかりなプロジェクトが組まれるらしい。どれも貴重なものばかりであるが、特に四天王立像は塑造、つまり粘土でできた等身大の像のため、木製のものよりもいっそう衝撃には神経を使ったのかもしれない。
博物館で塑造の四天王立像は見ると、仏様というより、美術品として見てしまうが、その分、細部までよく鑑賞できる。この塑造は粘土に雲母をまぜ、体の部位によってその配合を変えることで微妙な質感を出している。
また、東大寺の復興に尽力した鎌倉時代の高僧、重源上人(ちょうげんしょうにん)の座像など、木でできたものなのに、2、3メートルの距離から見ても、本当に生きた上人が座っているとしか思えないほど生々しい。皮膚のしわ、衣のたるみ方など、細部にいたるまで忠実に再現されているからということもあるのだが、それだけなら東京タワーの中にある、ろう人形のほうがもっと実物に似せて作られているはずである。しかしあのろう人形にはまったく生命を感じないが、この座像は、まさに生きた人が座っているとか思えないほど存在感がある。上人の魂が宿っているのかもしれない。
あとよく知られているものでは、お釈迦様が生まれてすぐに立ち上がり、天と地を指さし、「天上天下唯我独尊」と言ったといわれている「誕生釈迦仏立像」があった。これは歴史の教科書でもよく見かけるが、写真では大きさがわからない。金色に輝き、お皿のような中に立っている像はせいぜい10センチくらいのものかと思っていたら、実際は50センチ近くもあり、これも予想外に大きい。とにかく歴史や美術の教科書で見たことのあるものがそこら中にある。
歴史上の区分では奈良時代と呼ばれているのは西暦710年から784年までのわずか70余年にすぎない。この間に、東大寺の大仏をはじめ、万葉集なども整理されたのだから、何とも密度の濃い時代であったと、あらためて驚いてしまう。752年に大仏開眼があり、それから1250年が過ぎているのに、この辺りには当時の面影や空気までが、そこかしこに残っている。
某月某日
今年の春頃、神戸の元町駅近くに、「神戸ドールミュージアム」がオープンした。アンティークドールやオートマタ(自動人形)が展示されている。
1階から3階まで展示されているが、建物自体が小さいため、展示されているオートマタはごく限られた数しかない。しかし一部、興味をひかれるものもあった。「手品師」と題されたオートマタは左右それぞれの手に円錐形のふたのようなものを持っている。これをテーブルの上にあるサイコロや果物、小鳥などにかぶせてから持ち上げると、別の物に変わっている。日本のからくり人形にも「品玉人形」と呼ばれるものがあり、現象はまったく同じである。
もうひとつ目についたものとしては、この店の看板にも使われている、タバコを吹かすオートマタである。これはメリエスの映画『月世界旅行』に出てくる月のような顔をしている。ここはオートマタは数も少なく、他にはあまり見るべきものもないが、アンティークな人形はかなりあるため、そちらに興味のある方ならおもしろいかも知れない。
神戸ドールミュージアム
神戸市中央区三ノ宮町3丁目1番17号
入館料:大人(高校生以上)500円/小人(小学生以上)400円
開館時間:午前10時から午後6時
休館日:水曜(祝日のときは翌日)
電話/FAX:078-327-4680
オートマタが展示されている施設としては、2000年春に静岡県の伊豆高原にオープンした「野坂オートマタ美術館」が質、量共に日本で最大である。ここはぜひ行ってみたいと思っている。
この美術館は展示物を録画したビデオを販売しているため、それを見ればどのようなものがあるか、だいたいわかる。ビデオは以前NHKで放送されていた「ゆめオルゴール」という短い番組のために製作されたものである。このビデオはNHKの放送用に製作されたものであるため画質もよく、細部まではっきりと見える。他では見られないような珍しいものも数多くあり、このビデオのおかげでオートマタの広さと深さを知った。美術館ではオートマタを動かして見せてもらえるが、古いものが多いため、実演してもらえるものは一日数体と限られているようである。
販売されている4本のビデオを見ると、大半のものが100年以上前に制作されている。いくつか紹介してみよう。
「魅惑の蛇つかい」(アンリ・エルネスト・ドウカン作 1890年):
女性が左手にヘビを持ち、右手にラッパを持っている。今にも女性の鼻に噛みつきそうなヘビをラッパで操る。女性の呼吸にあわせて胸も動く。
「風邪をひいた男」ジャン・マリ・ファリポア作 1980年
ギターを手に持った男がいる。この男は風邪をひいているようで、しきりにくしゃみをする。そのあと、鼻から鼻水が出てくる。それをすすり上げると、また鼻の中に戻ってしまう。鼻水のように見える液体は、実際は透明なガラスでできている。
「ジェシカおばさん」1900年
椅子に座ったおばさんが、ポットからカップにお茶を入れる。実際に液体がカップに入るようすがはっきりと見える。カップに入れたお茶を飲み干すとカップは空になり、またカップからついで飲む。
「催眠術師」(レナート・ボアレット作 1996年)
マジックではお馴染みの「人体浮揚」現象。女性に台の上で横になってもらい、寝たまま浮かせる。布は掛けない。静かに浮き上がり、また台の上まで降りてくる。
これが製作されたのは1996年となっている。ずいぶん新しいので、まったく新規に製作されたものかと思い、電話で確かめてみた。するとオリジナルがあり、それを復刻させたものであることがわかった。最近10年くらいの間に製造されたものも何点かあるが、そのようなものでも大半は復刻版であり、まったく新規に作られるものは少ないようだ。とは言え、現代のオートマタ製作者が独自のアイディアで、これまでにないアイディアのオートマタを作ることも行われているようである。
日本のからくり人形の場合、江戸時代に製作されたものはゼンマイとしてクジラのひげを使っていた。西洋のオートマタの場合、100年くらい前のものであっても、すでに電気で動くモーターなどは使用されていた。現在、オートマタを新規に製作するにあたり、何を使ってはいけないといった制約はないとのことなので、コンピューター制御されたものなどもそのうち出てくるかもしれない。ソニーから発売されているロボット犬、AIBOなどは現在のオートマタとして後世に残るかもしれない。
昔のものは制御といっても軸とカムの回転運動が中心になり、これの組み合わせで複雑な動きを作り出していた。コンピューター制御された現在のロボットなどとは比べものにならないほど単純な動きしかできないはずなのに、このようなものを作り上げた当時の職人の技術力の高さには驚嘆するしかない。
オートマタを作る職人は、元来時計職人であった。お得意様である貴族や大金持ちに時計だけでなく、このようなものを提供することで収入を得ると同時に、自分の技術力を見える形で誇示できる点も、多くの時計職人がオートマタ製作に取り組んだ理由かも知れない。
話は逸れるが、最近、時計職人はどうなっているのであろう。昔、うちの近所にあった少し大きい時計店では、職人だけでも常時5、6人いた。いつ行っても、目にルーペをはさみ、壁に向かったままもくもくと作業を続けている職人の姿があった。あの人たちは今どうしているのだろう。
30年くらい前まで、時計を扱う職人は自分の仕事にプライドをもっていたはずである。昔は時計といえば高価なものであったため、数年に一度、分解掃除をしてもらい大切に使っていた。それがいつのころからか、腕時計が電気仕掛けになり、内部がブラックホール化してしまった。職人にしても、それまでの技術がほとんど活かせなくなり、修理はメーカーに送るか、新しく買い換えることを勧めるしかなくなってしまった。また、時刻を知るためだけなら、携帯電話や電子手帳、その他時計代わりになるものがいくらでもあるため、腕時計がなくて困るということもない。私も腕時計をするのは旅行のときと、時計を使ったマジックをするときくらいしかない。
いくつかの要因が重なり、実際、日本では時計技術者の数が激減しているようである。長い年月を掛けて習得した技術が、技術革新や時代のせいで無用の長物と化してしまうのはつらいものがあると思う。何か他で活かせないものだろうか。
野坂オートマタ美術館
静岡県伊東市八幡野字株尻1283番75
休館日:第2・第3火曜日(但し、祝・祭日は除く)
開館時間:9:30〜17:00(入館は16:00まで)
入館料: 大 人 1,200円 / 中高生 600円 / 小学生以下 無料
電話: 0557-55-1800
Fax: 0557-55-1700某月某日
前回の日記(66)で、居酒屋の天井にトランプが1枚貼り付いていた話を紹介したら、読んでくださった方から早速メールをいただいた。
この方が旅行でスペインのバルセロナに行ったとき、ガウディの作った公園、パークグエルに立ち寄った。この公園の中にある建物の天井にもトランプが1枚貼り付いていて、そのことがずっと気になっていたそうである。今回、これも誰かが「カード・オン・ザ・シーリング」をやったにちがいないとわかり、長年の謎が解けてほっとしているという内容であった。このマジックを知らないと、ガウディがデザインとして、天井に1枚のトランプを貼り付けていると思う人がいても不思議ではないかも知れない。
確かマイケル・アマーであったと思うが、高さが10メートル以上もあるような高い天井の寺院で演じ、そのカードが今でも天井に残っていると言っていた。これだけ高いと簡単には取れないため、この先100年くらい経っても残っているかもしれない。
ひとこと注意しておくと、「カード・オン・ザ・シーリング」は確実に自力で取り除くことができて、天井に何の痕跡も残らないという条件でしか演じるべきではない。マジシャンが行うことは、「スプーン曲げ」であれ、何でも許してもらえると思っている馬鹿なマジシャンもいるようであるが、これはとんでもないことである。そのあたりのことをわかった上で演じて欲しい。高級レストランで純銀のスプーンを曲げて、高額の損害賠償を請求されたマジシャンも現実にいるように聞いている。貴族の屋敷でマジックを演じ、テーブルをナイフで突き刺し、所有者の貴族から文句を言われたとき、「これはマリニがつけたものだとおっしゃればよい」と言って許されたのは、それがマックス・マリニであったからである。今このようなことをやって許されそうなマジシャンは世界的に見ても誰もいない。
某月某日
6月28日の新聞に何とも情けない記事が載っていた。
「大麻密輸マジック失敗、米国人手品師を逮捕」
逮捕された男性マジシャン(39歳)は、ショーで使用するボールの中に、バンコクで仕入れた大麻樹脂約1キロ(末端価格800万円)を隠して持ち込もうとしたらしい。
通関検査の際、係員の気をそらそうして、頼まれてもいないのにマジックを見せ始めたそうである。係員はこの男の不自然な行動を怪しいと思い、普段よりも念入りに荷物を調べた。案の定、道具の中から大麻樹脂が発見された。新聞には名前も載っていたが、まったく聞いたこともないマジシャンであった。おそらく売れない三流マジシャンなのだろうが、それにしてもこれはお粗末すぎる。
アル・ベイカーの言葉に「追いかけられてもいないのに逃げてはいけない」というのがある。逮捕されたマジシャンは、この有名な言葉も知らなかったにちがいない。
マジックで使用する道具には、「ネタ場」という、秘密の隠し場所を持っているものがある。このようなところに何かを隠せば見つからないと思っていたのだろうが、いくら道具がよくできていても、本人が愚かであると、自分で犯行を自白するような振る舞いをしてしまう。
30年ほど前、アルバート・ゴッシュマンというアメリカの有名なクロースアップマジシャンが初来日した。鞄には直径5cmくらいのスポンジボールが大量に詰まっていた。このボールは彼のショーの中でも使用するのであるが、実際には数個あればよい。千個近いボールを鞄に詰めてきた目的は、レクチャーなどの際、販売するためである。売る目的で持ってきていれば税金がかかるはずなのだが、ショーで使うと言えば税関も無条件で通してくれたらしい。
鞄から飛び出すほどの商品であっても、隠そうとせず、どうどうと「ショーで使うものだ」と言えば怪しまれないものなのだろう。この二人を比べても、マジシャンは繊細な神経と、ある種の厚顔さを併せもたないと一流にはなれないことがわかる。
「追いかけられてもいないのに逃げてはいけない」でひとつ思い出した。
駅の改札は、今ではJRも私鉄も自動改札になっているが、数年前まで係員がいた。その頃、定期をつかっていた知人は、期限切れになっていることに気がつかず、一ヶ月近くも使っていたそうである。本人がまったく自覚していないため、駅員も気がつかなかった。つまり駅員は定期に書いてある日付を見るよりも、人の顔や挙動を見ているらしい。
期限切れや、乗り越しの切符を持っていると、当人がドキドキするため、視線があらぬ方を向いたり、顔がこわばったりする。駅員はそれを敏感に感じ取り、定期や切符を見ると、たいてい期限が切れていたり、乗り越しであったりするのだそうである。ところが、本人が期限切れなどに気がついていないと、態度に不自然なところがないため、駅員も見落としてしまう。
ひと月近くも期限の切れた定期を使っていたこの知人は期限切れに気がついた日の朝、会社の帰りに新しい定期を買うつもりで、その日の朝だけ、もう1回そ知らぬ顔で改札を通り抜けようとした。
「もしもし」
駅員から呼び止められた。
「定期の期限が切れていますよ」
本人は平静を装って、いつもと同じように通り過ぎたつもりなのに、やはり微妙な心の変化は隠せなかったのだろう。見事にばれてしまった。自分が気がついたとたん、それが態度に出てしまったようだ。この日の朝くらい切符を買って入ればよかったものを、ひと月もばれなかったのだから、もう1回くらい大丈夫と思ったのが運の尽きであった。
人をだますこと以上に、自分をだますことの方がずっと難しい。
某月某日
松田道弘氏からのご依頼で、この春頃から書いていた「カラーチェンジングナイフ」「エッグ・オン・ファン」「小さくなるトランプ」の原稿がやっと完成して、ホッとしている。「魔法都市案内」の中でも、「オンラインマジック教室」などではマジックの解説は書いている。このようなものはたいてい1、2時間もあれば書けるのに、本になると思うと、なかなか構想がまとまらなくて、ずいぶん時間が掛かってしまった。サイトの中であればいつでも何度でも修正ができるため気楽なのだが、印刷されたものは簡単には直せない。それでついあれこれと考えてしまう。
カラーチェンジング用のナイフよい機会なので、古い本を引っ張り出してきては読み返していた。やはり古典はおもしろい。ビデオやDVDでは動く画像が手軽に見られるため、最近はそちらからマジックに入る人も多いが、文字の力は相変わらず軽視できない。
画像と文字の決定的な違いはイマジネーションを刺激する力かもしれない。文字からの情報だけで動きを理解しようとすると、読み手側が想像力をはたらかせないと理解すらできない。面倒で、遠回りなようであるが、これが役に立つ。動作の解説など、一度や二度くらい読んだだけではわからないこともあるのだが、試行錯誤をしながら、あれこれやっているうちに、その過程で自分なりのハンドリングが生まれることも少なくない。ビデオなどでお手本を見せられると、コピーをするのはらくであるが、それ以上の発展性がないように思う。
余談になるが、この2、3年、老眼が進み、本を読むのがすっかり面倒になっていた。とくにこの1、2年はマジックの本に限らず、買っても読まない本が大量に積んだままになっていた。今年の1月、4年ぶりに眼鏡を作ったら、小さい字がずいぶん読み易い。
40代半ばあたりから、同年代の人が老眼鏡を使い始めたとき、私はそのようなものなしでも、辞書の小さい字もはっきり見えていた。昔よりもよく見えるのではないかと思うほど、どんな小さな文字でも、近視用の眼鏡だけでこと足りていた。ひょっとしたら目だけでも若返ったのかと喜んでいたのに、半年ほどして、突然、文字が読みにくくなってきた。最初はなんらかの理由で目がかすんでいるのかと思っていたが、レンズをふいても、目薬をさしても、小さい文字が読みにくい。これが老眼であると認めるのにはずいぶん抵抗があった。半年ほどの間、どんな小さな字でも読めるようになっていたのは、線香花火が燃え尽きる瞬間、一瞬だけ輝きを増すようなものであったのかも知れない。
老眼だとわかればさっさと老眼鏡を作ればよいのに、自分の老化を客観視することに抵抗があり、無理をしてでも近視用の眼鏡でがんばっていた。しかし目の疲れが激しく、長時間の読書は無理になってしまった。読めなければ読めなくても何とかなると思って放っておいたのだが、仕事にも差し障りが出始めたため、今年の始めに作り直してきた。読書用、コンピューター用、日常使う近視用、美術館などに行ったとき、少し離れた細かい部分までも見るためのものと、一度に4個も作ってしまった。旅行のときはこれに予備の眼鏡も持っていくため、鞄の中が眼鏡だらけになっている。
とにかく眼鏡を換えたら、小さい字でもらくに読めるので、うれしくなって古いマジックの本を引っ張り出してきては読み返していた。
古い本を読んで、あらためて感じたのはルイス・ギャンソンの偉大さである。ギャンソンが1980年に亡くなり、そのあとリチャード・カウフマン、ジョン・ラッカーバウマー、ステファン・ミンチなどが、数多くのマジック関係の本を書いているが、ギャンソンとの決定的な差はマジックに対するセンスである。ギャンソンがマジックの世界で知られるようになったのは、ダイ・ヴァーノンやスライディーニのマジックを紹介したからかも知れないが、彼自身のオリジナルルーティンも秀逸である。
解説者としての才能は特筆に値するが、マジックを考案するセンスもすぐれている。ヴァーノンやスライディーニが4、50年前に神様のような扱いになったのも、ルイス・ギャンソンが執筆した『ヴァーノン・ブック』や『マジック・オブ・スライディーニ』に負うところが大きい。マジシャンとしての能力と、編集者としての能力は異質なものであるが、このふたつを高度なレベルで備えていたのがルイス・ギャンソンであったとあらためて感じている。
古い本を読むことの楽しさに加えて、古くからあるマジックに、自分なりのアイディアや、自分にあったせりふなどを考えるだけでも、それが自分のものになる楽しさは格別のものがある。国内外のマジックショップから、数ヶ月ごとに送られてくるカタログを見て、片っ端から買っても、実際に使えるものなど年にひとつかふたつあれば上等である。まして数年後にも自分のレパートリーとして残っているものなど、数年にひとつあるかどうかである。それは重々わかっていても、私などは半分惰性で30年以上買い続けていたが、最近はとみに、めぼしいものがめっきり減っている。少なくとも私がやってみたいと思うものはほとんどない。長くマジックをやっていれば大抵の人が通る道とはいえ、いつまでも新ネタを追いかけても仕方がないと思ってきた。「小さくなるトランプ」や「カラーチェンジングナイフ」などの他にも、まだまだ「古典」となるものがある。そのようなものに、自分なりのアイディアを組み込んだ独自のルーティンを構築する楽しみは格別なので、マジックを始めたばかりの方にも、お勧めしている。
独自のルーティンといっても、コンベンション用のルーティンや、マニアを引っかけることを目的としたものではなく、一般の人に見せるときに、自分なりの雰囲気が出せたらそれで十分であると思っている。