パン時計
1999/10/16
最初に「パン時計」というマジックがあります。明治時代から、寄席などでよく演じられていましたが、最近はほとんど見かけません。戦後はアダチ龍光師がよく演じていました。龍光師が亡くなってからは、誰もやっていないのでしょうか。現象のはっきりした効果的なマジックなのに、誰もやらないのが不思議です。
現象
スライスしていない食パンが1斤、お盆に乗って、テーブルの上に置いてあります。観客から腕時計を借り、それを小さな木製の箱に入れ、終始、観客から見える場所に箱を置いておきます。
食パンを取り上げ、どこにも切れ目のない、完全な食パンであることをよく確認してもらいます。ナイフでパンを二つに切り、観客にどちらか好きなほうのパンを指定してもらいます。選ばれなかったパンは、さらにうすく切って、中には何もないことを見せます。
選ばれたほうのパンに、ナイフを突き刺したまま、もう一度お盆の上に戻します。
時計の入っている箱を開けてみると、中から時計が消えています。ナイフの刺さっている食パンを取り上げ、ナイフを抜いてからパンをよく観客に示します。ナイフの切れ目以外、どこにも穴などははありません。 そのパンをむしって行くと、中から観客から借りた時計ができます。
コメント
私は小学生の頃、アダチ龍光氏がこれをやっているのを何度かテレビで見ました。初めて見たとき、二つに切ったパンを選ばせるのはフォーシングなのだろうと思っていました。それにしてはいつ見ても、龍光師のフォースは自然で、マジシャンズ・チョイスを使っているとは思えなかったのです。実際には、これはフォースではなく、本当に観客が指定したほうのパンから時計を取り出すことができたのです。
このマジックは明治時代から演じられるようになったそうですが、不思議なことに、海外の文献では見たことがありません。ひょとっしたら、明治時代、日本人のマジシャンが考案したのでしょうか。
日本でも解説書はほとんどありません。唯一、『不思議』(マジックマガジン社発行 Vol.5 No.18:1989年夏)に、高木重朗氏が解説したものがあるくらいです。
またこれを演じるためには時計を入れる木製の箱が必要です。この箱も今では入手し難いかも知れませんが、マジックショップによっては置いてある店もあるでしょう。要は時計を消すことが出来ればよいのですから、必ずしもこの箱がないと出来ないというものでもありませんが、ハンドリングの都合上、このタイプの箱があったほうが便利だと思います。
蛇足:龍光師は、昭和天皇にも何度かマジックをご覧に入れています。そのときもこれを演じました。天皇に、二つに切った食パンのうち、ひとつを選んでもらおうとお尋ねしたら、天皇はにこにこと笑っているだけで、答えてもらえなかったそうです。どっちかに決めてもらわないことには先に進めないので弱っていたら、侍従の人から、「陛下はお決めになりません」と言われたそうです。その後どうしたのか知りませんが、マジックは無事成功したようです。
龍光師のマジックはこれに限らず、話術が天下一品でした。奇術というより話術と言ったほうがよいくらいです。このマジックだけでも、引っ張ろうと思えば、15分くらい持たせることができたはずです。あれは才能なのでしょうか。今でもしゃべりが中心のマジシャンもいますが、とても龍光師のようなわけには行きません。他の奇術師が誰もこれをやらないのは、龍光師の演技を知っていると、とてもあのように観客をわかせることなど出来ないと気づいているからかも知れません。