<98.9.15 K.Kotani>関西アニメ戦争史 5 

−近メ協衰亡史− きんめまつりからハンガリー動乱まで




1983年9月25日、PAF9が神戸で開催された。この上映後、会場に集まった関西地区自主アニメ関係者によって、関西地区の自主アニメの連合協議団体を作ろうという話がまとまった。 この話を進めていたのが、グループSHADOの永山竜叶氏、アニメーションワークショップ大阪の秋山好正氏、KAP・アニメ塾の小谷、HAG阪神アニメーショングループの田原実氏の4人である。
永山氏は、日本SF大会のようなものを関西の自主アニメ団体でもできないものかと構想していた。また、秋山氏は、アニメーションワークショップ大阪講座を8月に開催した後、東京でアニメーションの仕事をする事になり、残されたメンバーの事を心配して、バックアップする組織の必要を感じていた。小谷は、関西地区の自主アニメの資料づくりを以前より行っており、それをまとめて公刊することと、定期的情報誌の発行による自主アニメの活性化を検討していた。田原氏は、関西地区が独立して行なう関西PAFのようなものを企画していた。
この3者に同アニのメンバー、各大学のアニメ研のメンバー・OBが集まり、話合いを持ったわけである。
11月27日、大阪労働センターにて、第1回近メ協会合が開かれた。この会合は準備不足で、参加したメンバーに迷惑をかける結果となってしまった。
翌84年2月5日、近メ協第2回会合が神戸で行なわれた。この場で、仙台の自主制作振興団体のひょっこりプリンの上映会VTRが上映された。これはひょっこりプリンのお手伝いスタッフで、阪大アニメ研の古川徹生氏の協力によって上映できたものである。古川氏はこういう活動に熱心で、この後も近メ協の各種イベントに積極的にいろいろと協力していただいた。
5月、東京の秋山好正氏から、翌年の国際アニメフェスの情報がはいった。公募部門に近メ協から作品を出品しないかというものである。応募作品は16ミリに限定されるが、秋山氏がカメラを持っているので、それを使用できるという事であった。(実際には近メ協、HAG、アニメワークショップ神戸の3者で別の16ミリの中古カメラを秋山氏の協力で購入し、使用した。)
この応募作品の選定のため、8ミリ上映会を企画し、優秀作品を16ミリ化して応募する事にした。 これと並行して、近メ協事務局では「きんめまつり」の企画が進行していた。きんめまつりとは、いままで各サークルがばらばらに開催していた上映会・自主講座などのイベントを一定期間にまとめて開催する事により、外部的にはメジャーなイベントとしてマスコミの力をもって、いままでの個々のイベントの出来なかった観客動員を行ない、内部的にはみんなで大きなイベントを開催する事により、各サークル間の一体感を高めようというものであった。
また、アニメーションワークショップ神戸では、翌年の国際アニメーションフェスティバルに向けて、作品制作が進んでいた。
こうして85年3月から5月のきんめまつりまでの間、近メ協では多忙な日々が続いた。きんめまつり自体は参加サークルの多くが事務局の期待したほどの積極的な動きを見せなかったため、全体としてマイナーなイベントに終わったが、国際アニメーションフェスティバルでデビュー賞を受賞するにいたる「風 1分40秒」を発掘するという成果をあげた。
この「きんめまつり」の結果、近メ協の各サークルが抱える問題点がさらけだされた。きんめまつりの一つのイベントであった「アニメワークショップ」の運営団体として期待されていたアニメーションワークショップ神戸は後継者不足で動けず、事務局がカバーする結果となったし、アニメ塾、グループSHADOもメンバーの大半が参加できずじまいとなった。HAGの運営した関西地区公募作品上映は新作が多く、きんめまつりのなかでは例外的成功を納めたが、結局、近メ協が中核となるイベントを用意出来なかったために、求心性を欠いたイベントとなってしまった。


この後、国際アニメーションフェスティバルへの5作品の出品によって、近メ協の活動は一つの頂点に達した。16ミリ撮影のノウハウを獲得し、数年後には予選突破という目標をもってスタートした国際アニメフェスへの参加であったが、初参加にして予選突破、デビュー賞受賞という結果となった。この賞金の半額を作者の篠塚勉氏が快く近メ協に提供していただいたため、近メ協の財政はずいぶん助かっている。
しかし、きんめまつりの準備から国際アニメフェスへの出品まで、とにかく対外的に形をつけていくという作業に追われたため、近メ協の内部がほったらかしになっており、その間の作業の穴埋めを進めなければならなかった。きんめまつりの後始末を含め、近メ協がもとのペースに戻るまでは、数ヶ月かかった。この時点で、第2回きんめまつり、関西自主アニメ年鑑第3号、近メ協編自主制作マニュアルなどの企画がうまれていた。
ここで突然出てきたのは「国際交流」の企画である。国際アニメフェスの場で海外のアニメ作家との話合いがまとまり、お互いの作品を交換しようという事になった。近メ協事務局では、海外交流のための作品募集(結局応募してきた人はなかったが。)を行ない、とりあえず、国際アニメフェスに出品した作品を中心に、16ミリフィルム数本をまとめて仲介にたった方に渡した。事務局としても来年に予定していたきんめまつり2の目玉となるイベントとして、海外の自主制作フィルム上映は非常に魅力のあるものだったし、このためきんめまつり2を「Zきんめまつり」と改称して国際交流を大々的に打ちだした。仲介に立った方の話では、翌年5月には海外の作品が来るという話だった。前回のきんめまつりで、来るという話で来ないとパニックになるのにこりていた事務局では、フィルムが来てから全体のイベントの進行を進めようとしていた。そして心配通り海外の作品は来なかった。ついでに渡した作品が一時行方不明になるおまけまでついた。(まもなく出てきた。しかし出てきたという連絡もなく、再三の催促のあと、海外交流を近メ協として降りるという最後通告を突き付けて、初めて作品が出てきたという事を連絡してきた。)
来なかったのは良いとして、きんめまつりの真中にぽっかり穴が空いてしまい、きんめまつりの準備も遅れに遅れ、とうとう86年9月に予定していたZきんめまつりは中止、87年4月に第2回きんめまつりとして細々と開催する事となった。さて、国際交流がどうなるか行方のわからない状況の5月、突然ハンガリーアニメ上映の話が起こった。近メ協としては、海外のアニメの上映は普通のサークルにまかせて、自主作品上映に専念すべきであったが、どうしてもやってほしいというスタッフの要望で、やってみる事にした。これが結局東京側と大阪側の連絡不足で、大阪の後援団体が降りてしまい、一時中止となった。近メ協事務局としても骨折り損のくたびれもうけという結果に終わり、このあと東京側スタッフより近メ協独自でやらないかという話があったが、近メ協として自主アニメに関係ないイベントにそれ以上労力を使うつもりはなく、きっぱりとお断わりした。この後、近メ協の1サークルより、うちの主催でやるので、情宣に協力して欲しいという申し出があり、近メ像に掲載した。直後やっぱり中止になったので、中止の連絡を回して欲しいという連絡がそのサークルから入った。好い加減にして欲しいものだが、すぐにハガキで連絡を回した。当然ハガキ代くらいはそのサークルで持ってもらえるものと思っていたが、いまだにその件について何の話もない。(その後判明したところでは、そのサークルは近メ協の名前を事務局に無断で使用してフィルムを借り出しそうとしたが、近メ像の記事を見たハンガリーアニメ関係者がどうもおかしいということでばれたらしい。)
このハンガリーアニメ事件では多くの関西のアニメ関係者に迷惑をかける結果となってしまい、結局その償いもできずじまいで、申し訳なく感じている。
国際交流、ハンガリーアニメが何の成果も上げえず、ぶっつぶれたあと、アニメ塾解散、京都産業大学アニメ研解散と近メ協にとってさみしいニュースが続いた。
86年5月にスタートした、関西学生アニメーション連合会は、近メ協にとってタイアップして行きたい団体であったが、協力関係は深まることなく今日に至っている。もうひとつの上映団体AAPAは、年2回の上映ペースが年1回となった。 関西地区の自主制作団体の連合体としての近メ協は、主要構成団体の衰えと、国際交流・ハンガリーアニメの失敗による活動の停滞により、86年10月頃には事実上消滅した。近メ協は、近メ協事務局、ハンガリーアニメの上映を試みたサークル、関西地区の中で近メ協を上部団体的なものとして支持してくれていた各サークルからなっていたが、ハンガリーアニメの上映を試みたサークルがトラブルがもとで近メ協を離れ、各サークルは国際交流・ハンガリーアニメで事務局がもたもたしている間に離れ、近メ協事務局だけが残って、関西自主アニメ年鑑、近メ像の発行を細々と続けることとなった。
きんめまつり2へ応募してきた自主作品の上映のため、第2回きんめまつりが87年4月細々と開催されたが、前回の面影はすでになく、国際アニメーションフェスティバルへの応募どころの問題ではなかった。


近メ協は事実上消滅したが、これには、近メ協の創立に関わった人々それぞれの思惑がちぐはぐで、それぞれは近メ協ができれば自分の思った企画が実現できると考えていた。つまり、近メ協ができれば、自分の企画にみんなが協力してくれると考えていた。しかし、近メ協ができると、結局自分のやりたいことしかみんなやらなかったので、自分の企画に他のメンバーは協力してくれず、各自が勝手に頑張るという形になってしまった。結局近メ協があってもなくても同じという事になってしまった。
87年12月、最後の近メ協の総会が開催され、近メ協の、「関西地区の自主アニメ団体の連合体」という看板を降ろすことが決定した。
今回まで、5回にわたって掲載された、関西アニメ戦争史は今回で終了します。長いあいだありがとうございました。アニメーションにまつわるクレーム、トラブルは、関係者のほんの小さな行き違い、連絡ミス、思い違いから発生するものです。また、「アニメーション」というものをめぐってひとつの世界のようなものがありますが、アニメーションにかかわっているひとりひとりがアニメーションに対して持っている思い、期待はひとりひとり違っています。「同じアニメーションの仲間だから」という甘えは、時に貴重な友人を失うもとになります。皆様もこの連載を教訓に、よく気をつけてください。
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