<98.9.15 K.Kotani>関西自主アニメサークル史 6 

環瀬戸内海アニメーション技術研究所(アニメ技研) 92-


 環瀬戸内海アニメーション技術研究所が創設されたのは95年だが、実質的な活動が始まったのは92年である。当時「生き物バンザイ」という越前屋俵太出演の番組が京都で制作・放送されており、そのプロデューサーの方と同じ大学であったという関係で、地球倶楽部の山元るりこさんが番組で使用するイラストを依頼されたりしていた。(ちなみに、そのイラストのギャラは未だにもらっていないそうです。「もういいけど」と本人は言っていました。)そして、越前屋俵太が新番組「モーレツ!科学教室」を作るに当たり、タイトルをアニメーションにしたいという事になり、再度山元さんの所に依頼がいったが、当時山元さんは長女の出産間際という事で、小谷佳津志にお鉢が回ってきた。数々の試行錯誤を経つつタイトルアニメーションは完成し、フィルム版は全国総会で上映されたりした。エンディングを実写+シネカリという話もあったが、これはさすがに無理だったようである。そして、まず、「ポンチ倶楽部」について語らなければならない。
「ポンチ倶楽部」は、92年の秋から冬にかけて、関西テレビの「モーレツ!科学教室」放送中に、番組のファンクラブの形をとって創設された。番組のタイトルで会員の名前が放送されるという事や、メンバーが「ポンチ倶楽部ミドリムシ隊」など、テレビに出演できるという魅力もあり、会員数はうなぎのぼりに増加し、全盛時には、700人以上になったと思われる。
 93年に番組終了後、「ポンチ倶楽部」は、越前屋俵太&平智之ファンクラブとして活動を継続し、越前屋電視社が主体として運営した。会員数は300名程度であったと思われる。この時の電視社社員以外の主なスタッフは、越前屋アカデミー創設時には、ほとんど姿を消す。
 93年秋には、サンテレビで低予算深夜番組「キューティクル・ハニー」の制作が越前屋電視社で始まり、オープニングアニメーション・番組内での人形アニメ・セルアニメなどを再び小谷佳津志が受注する。オープニングアニメーションはわずか二日で250枚のセルアニメを作ろうという無謀な計画で、不眠不休で制作したが結局当初の予定には間に合わなかった。また、途中からは予算不足を補うため、16ミリで撮影するのは止めにして8ミリビデオでコマ撮りしたものをビデオ編集するという暴挙に出、これがなんとか放送できたという事が、後に「GO!GO!ベジタン」の制作で苦労する原因になる。また、翌年4月には業界用プロモーションVTRのアニメも受注するという状況になり、「ポンチ倶楽部」会員、地球倶楽部会員を動員しての制作となった。
 さて、94年の広島国際アニメーションフェスティバルに出品された「モーレツ!科学教室」オープニングアニメーションは、選外佳作「パノラマ」に入り、本会場で上映された。
 そして、93・94年、さまざまなイベントを行った「ポンチ倶楽部」であるが、この年の暮れにはほぼ活動が限界に達していた。低予算番組「キュティクル・ハニー」の制作と「ポンチ倶楽部」の運営という業務を電視社とスタッフでまかなうという事に無理があり、また、同じ活動を繰り返し継続していくという事に越前屋俵太も不満をもち、新しい活動を模索していた。
 94年秋に各地の学園祭で講演を行う際に、越前屋俵太は、「あらゆる人にあらゆる出会いを」という「越前屋アカデミー構想」のチラシを配布するとともに、その構想を語り、また、桂小枝と共に創設する予定の「放送映像研究会」の構想についても語った。

 年末にかけて、越前屋電視社では、数次にわたって話し合いがもたれ、新組織のあるべき姿について検討がかさねられた。越前屋俵太の構想にはいくつものイメージがあり、あるいは既成の団体(越前屋電視社専務の小林氏の別会社「ベンゲット」の会員組織、近畿アニメーション協議会)の取り込み、団体の新設(「スノコクラブ」「段違い平行棒部」「放送映像研究会」「環瀬戸内海アニメーション技術研究所」など)「ポンチ倶楽部」はどうするか、あるいはそれらの団体に入らない会員はどうするか、運営はどうするか、責任はどうするか、についてさまざまなアイデアが出された。しかし、最大の問題は、「越前屋アカデミー」の目的は何かということで、結局この点は最後まであやふやであった。
 はっきりしていたのは、将来的に数千・数万人の会員を持つ大組織とし、会員の会費で維持されるしゃれた事務局と専従のスタッフをもち、相当の経済的収益をもたらす組織がイメージされていたという事である。残念ながら会員数はついに千人にも達する事なく、全盛時で500人程度であったと思われる。
 そして、「安く遊ぶ・工夫して遊ぶ」という点も強調され、月例イベントに集まれば安く遊べていろいろな人と出会えるというイメージもあったが、その月例イベントを誰が企画して誰が運営するのか、という点があいまいであり、「なんとかなるやろ」という事ですんでしまっていた。「ポンチ倶楽部」がその月例イベントを維持できなくなった所に「越前屋アカデミー」創設のいとつの動機があったのだが。
 また、組織の暴走とそれに伴う責任問題の回避にも相当の配慮がされ、会員は所定の手続きをすれば「越前屋アカデミー」内にクラブを設立する事ができるようになっていたが、その手続きがまた面倒であり、結局公認クラブとなったのは、インドア系スポーツクラブ「勘違い平行棒部」のみで、しかもクラブになっても補助金がでるとかのメリットもなく、責任問題への異常な過敏さが活動低迷の一因となったのではないかと思われる。
 結局外部組織の取り込みは取り止めとなり、旧ポンチ・学園祭でのチラシに反応した学生たちを主に集める事になった。
 名称についても、越前屋俵太の名前を出す事による責任関係の問題より、「Eネット」などの名称も検討されたが、結局平智之氏の「名前をださないと却って責任関係があやふやになり、問題が発生する可能性がある。」というアドバイスにより、当初チラシで発表した「越前屋アカデミー」に落ち着いた。
 95年1月15日、学園祭のチラシに反応した人々を集めて、説明会が開催され、百数十人の入会申込みがあった。このうちアニメ技研への入会者は十数人で、宝塚造形芸術大学の学園祭で俵太氏の呼びかけに応えた方々と、ポンチ倶楽部のメンバーが主であつた。
 翌日が阪神大震災で、スタッフはじめ会員にも被災者はあったが、幸い、人的被害はなかった。
 その後、「スノコクラブ」は立ち消えとなった。
 また、放送映像研究会は、「テレビに出れるのでは」「テレビ業界に入れるのでは」という期待を持った人間がいっぱい集まり、3月にはイベントも開催されたが、このイベントは桂小枝氏の関係もあり、公式には「越前屋アカデミー」とは無関係という事だった。その後、数回話題にはなったが、結局クラブとしては発足せず、立ち消えとなった。
 さて、3月には越前屋俵太が「探偵ナイトスクープ」を降りる事になり、本人の以降で、越前屋アカデミーは総がかりで「引退記念チャリティフェスティバル」を実施する事になった。越前屋電視社は準備でごった返し、多数の会員・スタッフが内外を走り回り、大いに盛り上がった。いまにして思えば、越前屋アカデミーの全盛時ではなかったかと思われる。金がかからない(忙しくて使う暇がない)いろんな人と出会える(会わないと仕事にならない)など、アカデミーの目標の一部も達成されていた。イベント自体も越前屋俵太がテレビで告知した事もあり、多数の来場者があり、運営面での課題は残しつつ、成功裏に終了した。アニメ技研では驚き盤を内蔵した「覗き箱」を制作し、一回10円で見せた。また、驚き盤の体験コーナーも作ったが、こちらはあまりはやらなかった様である。

 4月には、越前屋アカデミーの開校式があったが、参加者は70名ほどであつた。
 このころまでにクラブ制度、運営委員制度などが定まり、一応組織として動くようにはなりつつあった越前屋アカデミーであったが、すべてを理事長である越前屋俵太が決裁しないとなにも出来ないという組織的弱点があり、下部組織の充実と権限の委譲、管理システムの構築などが必要であったが、この時点になってもその作業は進んでいなかった。この組織を構築できないという点が越前屋アカデミーの最大の弱点になった。
 5月頃には、越前屋俵太は「釣り池」の話に熱中しだす。
 この頃アニメ技研では、越前屋電視社の一角をスペースとして確保していたが、作品の受注がないため、毎日事務所の掃除と片付けを手伝っており、「アニメ技研じゃなくて、おそうじ技研だ」といわれていた。アニメ技研のメンバーを釣堀の番人にするとか、立体造形の得意なメンバーの特技を生かしてプロモーション用の池の模型を作るとか、看板用の巨大なブラックバスを作るとか、いろいろな話も出てはいた。
 また、電視社の2Fを利用して越前屋俵太の作品を上映する「お座敷劇場」のスタッフとしてアルバイトしていたり、看板を作ったりしていたが、「お座敷劇場」は観客がほとんど来ず、入場料はバイト料にも足りないという状態で、早々に「お座敷劇場」は廃止となった。
 さて、結局釣池はやめた模様である。「模様である」というのは、ある時から越前屋俵太氏からばったり池の話がでなくなったが、「やめた」という話はそのころ知っている範囲では誰も聞いていないので、想像するしかしかたがないのである。
 さて、その後越前屋理事長は、数回にわたって「越前屋アカデミートーク」を企画する。これは、理事長みずからゲストを呼んで対談するというイベントだった。また、6月には、「越前屋アカデミー宣言」というイベントを開催している。これは、越前屋アカデミーの説明会を再度行うとともに、とんち博士・平智之氏に、越前屋アカデミーとは何か、説明してもらおうというよくわからないイベントだった。このイベント時、アニメ技研は徳島アニメ学校の見学ツアーに出かけており、裏切り者呼ばわりされていたが、本人たちはけろりとして飲めや歌えの大騒ぎをしていた。
 この間、「ポンチ倶楽部」は、越前屋アカデミーの姉妹団体という形で活動している。当初は従来のイベントは負担が大きいのでやめて、越前屋俵太・平智之のカセットテープマガジンを定期発行するという形で進めるはずだったが、「イベントがないのはいや」という会員の意見で、(事実会費の更新時の案内には、イベントをします、と書いてあったそうだ)越前屋俵太も「ほなやろか」という事でイベントもやる羽目になってしまい、結局もとのままになってしまった。以前とちがうのは、以前は越前屋電視社の社員が仕切っていたが、今回は無給のスタッフがやるという位である。今回のスタッフは前回のスタッフとほぼ完全に入れ替えとなった。(前回のスタッフがみんないなくなったので)蔦屋書店から越前屋俵太シリーズのビデオが出る事になり、そのビデオにポンチ倶楽部の募集を入れたので、「今度こそポンチ倶楽部は10000人になるぞ」と、ポンチ倶楽部の事務局には「10000人まで後9***人」というカウントが出たが、結局最終的にはいつもの300人前後という限界は超えられなかった。96年4月からは越前屋アカデミーのクラブとなった。カセットテープマガジンは取り止めとなり、ビデオマガジンにするという案もあったが、結局印刷媒体による会報を隔月に発行するようになった。その後、越前屋アカデミーが97年3月末で2年間の活動を終えると、スタッフは「もうやりません」と言ってアカデミーを去った。
 さて、当初電視社の5階にあった越前屋アカデミーの事務局は、同居していた日本アイランダージャパンの活動が凍結し、5階を解約した時点で2階に移動した。と、同じく、環瀬戸内海アニメーション技術研究所は2階から外部に移動し、定例の越前屋アカデミー運営委員会は5階から外の喫茶店に移動した。これらは、越前屋アカデミーが当初期待していた数千人の会員を集められなかったため、経済的にほとんど無力であった事、また、活動も理事長の期待していたレベルに達しなかった事にも原因があるだろう。
 7月の第2回チャリティフェスティバルは低調に終り、一部会員スタッフより「こんだけしんどい思いをしてこれだけしか寄付できないのなら、最初から金を出して寄付したほうがまし」という意見が見られた。その後1年8カ月の間、ついにフェスティバルは再度開催されることなく、アカデミーは終了した。
 95年秋、突如としてアニメ技研はNHKより「プチプチアニメ」の5分アニメを受注した。広島の国際フェス事務局からの紹介で、かつて「モーレツ!科学教室」オープニングアニメーションが佳作に入選した実績を買われての発注であった。かってない制作費と制作期間が見込まれ、また、スタッフとしてもアニメ技研のメンバーは学生も多く、環境は整っているように思われた。年内には絵コンテも一応仕上がり、実写と立体アニメ、2DCG、セルアニメ、キューティクルハニーで成功した実写とアニメの乗り変わりの組み合わせで制作するという作品のアウトラインも決定した。
 そして、実写部分で使用する着ぐるみも頭の部分が無事完成し、胴体の部分はキューティクルハニーの時に使用したものをそのまま使用するということになった。
 まず、2DCGの部分の試作、立体部分の試作、立体人形の試作などが進み、立体アニメの部分は数回にわたって撮り直しを行い、CG部分も動画のままラインテストをしたりするなど、豊富な制作期間を利用してのアニメ技研側の先行作業は一応順調に進んでいた。

 ところが、この時期監督である越前屋俵太が同じNHKのドラマに出演が決まってしまい、身動きがとれなくなってしまった。テスト撮影した部分の確認もできなければ内容の打ち合わせもろくに出来ず、当初予定していた実写部分の撮影は予定していた日に行われず、テープを受取にいくと越前屋電視社にはテープもなければスタッフも誰もおらず、撮影がしていないという連絡一本入れられないという状態であった。NHKとの交渉により納期は延ばされたが、再度予定されていた撮影は天候不順などで画が使用できず、再度撮影のやり直しとなり、当初一ヵ月予定されていた実写からの乗り変わり部分の作画期間はわずか一週間となつた。
 撮影スケジュールが大幅にずれこんだため、当初から予定されていたイベントと重なってしまった事もあり、肝心要の時期に人手が足りなくなるという一幕もあった。
 また、当初越前屋電視社が映像をNHKに見せて了解されていたはずの8ミリビデオでのコマ撮りであるが、特に実写部分でノイズが多発し、クレームがついて放送用機材での撮り直しとなった。発注元との確認不足による作業増加・コスト増加であった。また、作業が終わる頃になるまで、アニメ部分の予算が決まらないという制作サイドの不具合もあった。
 当初4月からの放送が予定されていたものが、遅れに遅れ、ようやく作品が完成したのは五月のゴールデンウィークが終わってからであった。内容も無駄な金をさんざん使った割にはもうひとつの出来となった。この作品がアニメ技研の現在の最後の作品である。
 96年4月、アカデミーは2年目の活動に入った。別活動だったポンチ倶楽部を傘下のクラブとしたが、会員数は200人余りと大幅に減少し、義務的に開催される月例イベントの参加者は目に見えて減り、時にはひとけたとなった。理事長がイベントに顔を出す事も少なくなった。かねてより案の出ていたニフティ・サーブ上のホームパーティもほとんど書き込みがなく、2カ月で閉鎖となった。地方の会員の参加を可能にしようと、会報上で企画された「通信制・どきどきビックリレース」も、第1回1名、第2回ゼロ、第3回1名の応募しかなく、活性化の役にはたたなかった。
 アカデミー開始当初より、理事長はインターネットへの進出をひとつの目標としてきたが、インターネットとはなにか、接続すらしていないのに、進出などできるわけはなく、1996年の夏にいたり、一スタッフが個人的に試作ページを作ってみせたが、話はそれ以上進まなかった。97年の春、アニメ技研のページがアカデミーとは無関係にようやくオープンした。
 97年1月、最後のアカデミープレスが、越前屋アカデミーのインターネットへの移行を予告し、3月に出る予定(まだ出ていない)の最終号で、詳細をお知らせすると告げた。3月にはプレスの最終号は出ず、代わりにアニメ技研より、イベントのお知らせとホームページ開設のお知らせがハガキで届いた。
 98年1月1日、突如「越前屋ワールド」として越前屋俵太のホームページがオープンしたが、3ケ月間一回も更新しないまま、4月上旬には早くも消え去った。

 さて、アカデミー・ポンチ倶楽部が事実上崩壊した後、アニメ技研のみは普通のアニメサークルとして活動を継続している。活動内容は、マニアックなビデオの鑑賞会「特濃」上映会、徳島アニメ学校見学ツァー、全国総会ツァー、ヨットレース出場などである。ポンチ倶楽部のメンバーを若干吸収したことにより、メンバーは逆に増加しており、アカデミーの運営の負担がなくなった分、かえって動きが自由になっている。

(文責小谷)
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