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関西自主アニメサークル史 4HEAD>
地球倶楽部 86-?
アニメーション作家・相原信洋氏が中心となって、80年11月より、東京で始めたのが「地球クラブ」である。毎週曜日を定めて、みんなで集まり、作画をしたり撮影をしたりするという場所で、相原氏も指導をされたりしていた。この頃活動の低迷が始まっていたアニメ塾でも、同じスタイルを取り入れて、京都と大阪のスタッフの部屋に集まって、作品制作をしたりしていた。83年には、両サークル合同で、「地球塾アニメーションワールド」という上映会を森ノ宮の青少年会館で開催したりもしている。しかし、アニメ塾もその後活動は止まってしまった。86年11月に、山元・小谷は地球クラブに移籍し、地球クラブ京都支部となった。
86年、京都の京都芸術短期大学の講師として招かれていた相原信洋氏は、87年10月頃、ひょんなことからジャマイカ料理屋ショットバー「ナッティ・ドレッド」を開店する事になった。そしてその2階が空いていた事から、そこに京都の地球クラブを作ろうという事になった。名称は東京の地球クラブと区別するために、「地球倶楽部」と決定した。音の割に利かないクーラー、消しゴムをかけると大地震を起こす作画台などに悩まされつつ、88年5月に地球倶楽部は始まった。
当初からのメンバーとしては、アニメ塾出身の山元るりこさん・小谷佳津志、アニメーションワークショップを受講していた波田悦子さんなどがいた。また、山元るりこさんが京都芸短の非常勤講師になったというような地理的・人的環境から、京都芸短の学生さんが入れ替わり立ち替わり参加した。11月には東京の地球クラブとの合同上映会を開催した。その後も含め、作品を上映会で発表したメンバーとしては、藤本昌孝さん、山本パンキー芳史さん、平田斉子さん、高原さん、前川里美さん、荒木明子さん、梅原美奈子さんなどがいた。そのころ、実験的自主アニメの上映の場として、「アニメーションニューウェーブ」という上映会が東京と京都で開催されており、メンバーはここでも作品を発表している。また、山元るりこさんはヴォワイヤン・シネマテークのメンバーもかねており、そちらの上映会へも出品、そして、女性作家の上映会「雛祭アニメーション上映会」へも出品している。
当時、四条大宮の飲食店ビルの4Fに「自然堂」という上映スペースがあり、ヴォワイヤン・シネマテークが実験映画などの上映に盛んに使用していた。その後、このスペースは諸事情あって、「スペース・ベンゲット」になった。ここでは地球倶楽部も自然堂時代も含め、数回新作展を開催している。そして、東京へ進出して地球クラブとの合同上映会を開催したりもした。(90年5月)
さて、諸事情あってその後相原信洋氏のショットバー「ナッティ・ドレッド」は閉店した。しばらくは大家さんの好意でそのまま2階を使用することができたが、最終的には移転する事になった。89年1月より、地球倶楽部は近くのマンション風アパートに移転した。10月には再び地球クラブとの合同上映会を開催した。
また、地球倶楽部では、カナダアニメの上映会を開催したりもした。その年の12月だった。また、山元るりこさんは90年10月には個展を開催した。
91年10月には、再び新作展を行ったが、この頃から東京地球クラブの作品が目だって少なくなった。
92年11月、再び東京での新作展が行われた。そして、その作品をもって93年2月、京都で新作展が行われた。この新作展には、名古屋の楽描倶楽部の作品も招いて上映された。東京京都名古屋の3サークルを併せ、旧作を含めてようやく上映会ができるという状態になってきた。また、観客もかってのようには集まらず、上映会の会場費を入場料で稼ぐという事が難しくなってきた。
そして、地球倶楽部も会員がへり、会費で制作スペースを維持するという事がしだいに困難になってきた。その打開策として、制作スペースでの小上映会「アニメパーティ」が企画された。93年10月より、94年2月まで隔月で3回の「アニメパーティ」が行われたが、入場者は少なく、結局経済的理由から、制作スペースは4年間の活動ののち閉鎖、山元さんの自宅の一室において、月一のミーティングをするという形に移行した。
4月には越前屋俵太氏のファンクラブ「ポンチ倶楽部」のイベントの一環として、第4回の「アニメパーティ」が行われ、これが地球倶楽部の最後の公式イベントとなった。
95年1月に越前屋アカデミーが発足し、環瀬戸内海アニメーション技術研究所が発足すると、小谷佳津志は主任研究員として、山元るりこさんは顧問として参加した。
(文責小谷)
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