さて、YU-NOあたりで、並列世界論なるすごいもの を見せられて、実際に、リーフの「痕」をやったあたりから、そういうことを 考えていて、で、どうやらまとまったので、一つ、ページ作っちゃおうという ことで、始めてみます。文章だけのページです。
なお、YU-NOにおける並列世界論などを考慮する上で、参考になるページとして、 以下のものがあります。
まず、我々の住んでいる三次元空間というのは、一般に三つの互いに直行する 方向の軸、X軸、Y軸、Z軸というもので空間の位置が指定できるというわけで、 これが三次元空間の意味です。で、こいつに、時間軸というのを加えて、これ を、T軸とでもしましょうか、四次元時空を考えるというのが、一般的です。 さて、そうすると、実際にものごとというのは、時間的に発展するわけですか ら、歴史というのは、四次元時空の中に閉じ込められたものであるといえます。 これが一般的な「物語」というもの。始めがあって、終りがある。その間に一 直線に「物語」は進みます。なお、ここでは、面倒な相対性理論とかは考えな いことにします。
ところが、物語の中で、「もしここでこうしたら」とか、歴史において、「あ の時、あんなことをしなかったら」という「もしも、、」の世界というのがど うしても概念上想定できてしまう。そんなわけで、そういう「もしもの世界」 を多数用意して、物語の発展上のいろいろなところでの行動が、それぞれ別の 「もしもの世界」へ発展するような物語は作れないか、そんなことから、ビデ オゲームのある分野(なぜかこれがエロゲーとかエッチゲーで多い)でそうい うものがいくつか作られるようになりました。では、これは上で書いた四次元 時空の意味ではどういうことになるんだろうか、ってことを考えてみます。
一つ一つの物語というもの、あるいは歴史というものは、四次元時空そのもの ですから、「もしもの世界」を描くためには、もう一つか二つの軸を用意しな いといけません。そこで、YU-NOの親父さんの話をひっぱってくると、「因果 率を変えないような形で時間を遡ったりすることができる」ようなことなんで、 結局、この軸というものは、T軸(時間軸)とは適当な角度を保つ、「因果軸」 というもの、C軸(因果軸)というものを導入したらよいのではないかというこ とになります。実際に、YU-NOで考えられている物語の分岐、あるいは歴史の 分岐というものは、「因果率を壊さない」ということですし、また、親父さん のいっていることからすると、それらは、「過去や未来へのなんらかの移動に よって引き起こされる分岐」だということになります。で、親父さんは、この ときに、ケーキを食べようとして、食べられなかったので過去に遡ってケーキ を食べた場合について書いていますが、ここでは、「りんごを食べたかった人 が過去に遡ってりんごを食べる話」で考えようと思います。
C軸(因果軸)の方向は、原因方向と結果方向という向きがあるとします。原因 方向は因果関係の元に戻る方向で、結果方向とは因果関係の結果方向です。で、 結局C軸を加えて五次元時空因果でものごとを考えることになります。さて、 五次元時空因果では、T軸とC軸は直交してません。というのは、時間発展方向 もやはり因果の結果方向であるからです。たぶん、45度で交わりそれが五次元 時空因果をはしるなんらかの粒子速度のようなものなんではないかと思います
さて、Aさんは、昨日まで冷蔵庫にあったはずのりんごが弟によって食べられ てしまい、それが悔しいので、りんごがあったはずの過去まで戻って、りんご を食べようと思いました。そこで、彼は、タイムマシンを使って過去に戻った わけです。そして、まだ冷蔵庫にりんごがあること確認して、食べてしまいま した。
さてこの行為は、T軸上では過去に戻っているのですが、「因果率を壊さず、 過去に戻る」という広大親父の言葉からすると、「C軸上では結果方向に向かっ ている行為」になります。そこで、りんごを食べる行為によって別の未来が生 まれることになるわけですが、その未来は、そうでない未来よりも、やはりC 軸上の結果方向にある未来になります。
過去にもどった行為によって、「分岐する」という言葉を使うから、物語や歴 史である四次元時空を線で表し、線が分岐する、枝のような概念になってしま うのですが、これは間違いです。実際にC軸方向には、過去へ戻る行為がなく ても、四次元時空が連続的に存在しますから、T軸上過去でありC軸上結果方向 に戻ったAさんが見る世界は、自分が経験した過去とほとんど同じものになり ます。つまり、分岐というのは、線が分岐するのではなくて、五次元空間での C軸方向にひろがった四次元時空連続体がぺにゃあと分岐するので、線が分か れると考えるよりは、むしろ、紙のようなものが二股に切れるような感じにな ります。ちょっと分かりにくいかもしれませんが、、。
さて、そこで、YU-NOに登場するブリンダーの木という話になります。ブリン ダーの木の一番最初の根にあたる部分、まさに時空因果の生成された原因があ ります。ブリンダーの木は、C軸の結果方向に向かってどんどん枝(といっても ひらべったいもの)を生やして成長するわけです。C軸とT軸は45度で交わる ので、原因から考えると、このブリンダーの木は、C軸とT軸の間にどんどん延 びていくことになり、その範囲の外には出ません。
タイムマシンができたとしても、T軸方向で過去の方向へ遡ることはできます が、それがC軸に関して原因方向に遡ることは、因果率を壊すことになり、そ れは許されないのです。これは、四次元空間で特殊相対性理論的にみて、光速 を越えられないのとたぶん同じ理由です。
YU-NOでは、絵里子先生が、事象素子という粒子を考えていて、その粒子がC軸 方向に移動すると言っています(という私の解釈)。そこで、その事象素子の速 度(といっても、T軸とC軸それぞれとなす角度のようなもの)には限界があって、 それがまさにC軸の原因方向には戻れないということになるんじゃあないかと 思いますね。
これで大体、タイムマシンのようなものが、一般的に言われているパラドクス を回避できることがわかりました。あるB氏が過去に戻って、そこにいる過去 の自分自身を殺したとしても、因果関係を壊さず、過去にもどったB氏はなお 存在できることになります。なぜなら、B氏が自分自身を殺したといっても、 それは、自分が経験した過去の自分自身とはC軸上で違う位置の自分自身を殺 したことになるからです。
このような五次元時空因果を考えるのは、YU-NOに限りません。「それゆけ!宇宙戦艦ヤマモト・ヨーコ」では、これ に確率の概念を入れて、ヨーコたちの存在する20世紀と、ローソンたちの30世 紀では、T軸方向で現在過去の関係があるが、因果関係の上ではそうではない、、 という話になっています。これを相対過去、相対未来と呼んでいます。私は 「ヨーコ」を読んだときに、第五の軸をどうとればよいか分からなかったので すが、今回 YU-NOをやって、それが因果軸というもの、C軸であることが分か りました。
てなわけで、YU-NOでは、実に完全な理論で、並列世界論を展開し、それがゲー ムシステムのベースとして、さらにストーリー進行上のベースになっているこ とがわかるかと思います。
YU-NOでは、たくやが、リフレクターデバイスを使って自由に並列世界を動き 回っています。で、それが、A.D.M.S によって、並列世界の間の物語分岐がビ ジュアルに見えるようになっているわけです。さらに絵里子せんせいから、ブ リンダーの木なんて話を聞かされますから、A.D.M.S で登場する分岐の図が、 ブリンダーの木ではないかと思ってしまうのですが、たぶん、違うでしょう。
たくやは、並列世界をいろいろ移動しますが、その移動は、因果率を壊さない 移動なんです。だから、A.D.M.S 上で同じ座標の場所でも、移動するごとに、 C軸方向で結果方向に移動しているはずです。たとえば、神奈ちゃんが知念石 を失って、死にかけているところで、たくやが知念石を持っていないとしましょ う。で、そこで、たくやは、リフレクタデバイスで香織シナリオに移動して、 そこでジオ・テクニクス社に侵入して、知念石を得て、そのままリフレクタデ バイスで瀕死の神奈ちゃんのところに戻ったとします。しかし、このときの神 奈ちゃんはC軸方向で結果方向にいる神奈ちゃんであって、リフレクタデバイ スで移動する前の神奈ちゃんとは違うのです。移動前の神奈ちゃんはやっぱり 死んでしまったはずです。
つまり、A.D.M.S で見せている分岐は、T軸やC軸をきちんと考慮したものでは なくて、C軸方向を圧縮してしまった図なんですね。なのになぜ分岐している かというと、これはよくわかりませんが、、。もう一つ軸が必要かな、、。ま あ、そこんところは深く考えないことにしましょう。
ではリフレクタデバイスはなんなんでしょうか?YU-NOでは、たくやをアイテ ムごと移動させる装置だということになっていますが、これは何か変です。た とえば、三角山の社で、ストーリーが始まるわけですけれど、もし、そこに体 ごと、アイテムごとたくやが戻ってくるとすると、本来そこに存在したたくや はどうなるのでしょうか?そういうたくやもいるはずです。B氏は過去に遡っ て、自分自身を殺した、といいましたが、C軸上の結果方向にはT軸上の過去B 氏がずっと存在しているのですから、だからB氏はC軸上結果方向でT軸上過去 にいったときに、自分自身を殺すことができるのです。それでいて自分は存在 が抹消されることもない。それでいて、因果率を乱さない。
そうだとすると、YU-NOでは、たくやがリフレクタデバイスを使うたびに、そ こにもともといるたくやを抹殺してなり代わる必要が出てくる。これはストー リー上、とっても危険ですね。たくやはつねになり代わるために自分を殺す、 抹殺することをしているのです。
そこで、私はYU-NOの中の話とは違い、実際には、リフレクタデバイスは、物 体まるごと転送する装置ではなくて、一種の通信装置だろうと考えました。た んなる情報通信装置。それも、C軸の結果方向でT軸にそって過去や未来とも通 信できる装置です。で、通信されるのは、たくやの持っている思念、あるいは 記憶。リフレクタデバイス自体は、リフレクタデバイスとの間でのみ通信が可 能です。これをもっているたくやは、時空因果の中のいろいろな場所に連続的 に存在しているわけですが、それと通信が可能なんです。しかも、事象素子の 速度の許す範囲つまり、因果率を変えない範囲で、通信可能なんです。しかも、 YU-NOでは、その通信が不完全なようですね。ある時空因果の中でリフレクタ デバイスを作動させたら、その時のたくやの思念が、別の場所のたくやに転送 されるわけですね。物質的なたくやは移動しません。ただ思念だけが転送され る。この考えは、あの時空犯罪人の龍蔵寺の話とも関わります。かれは思念体 です。思念体である彼は、なんらかの時空因果通信装置があれば、その場所に 移動できて、そこで、そこにいる人の頭脳にとりついて、自分にしてしまうこ とができる。たぶん、そんなものなんでしょう。彼が境町にきたのは、もとも とそこにそういう通信装置があったからだろうということにもなるでしょうね。
さて、こういうことで考えると、たくやは、あるシナリオで未来までいったと ころを見た上で、その記憶と、そのときの意志をもったまま、過去の自分に乗 り移ることができます。で、実際、リフレクタデバイスそのものや宝玉などは、 知念石とたぶん、非常に近い物質でできているだろうから、まさに意志や思念 を通信する装置としてのリフレクタデバイスが想定できます。龍蔵寺が、知念 石を欲しがった理由は、それがリフレクタデバイスそのものの材料になること を知っていたからではないかと思います。
まあ、この解釈での問題は、たくやがアイテムをもったまま移動できないこと で、そりゃあゲームの根幹に関わる大変な話なんで、この解釈がYU-NOのゲー ムの解釈としては許されないことは分かっていますが、別の意味で面白いゲー ムを作るベースにはなるような気がしますね。もっとも、その通信が不完全な 通信であることは、たくやが過去にもどったとき、プレイヤー以上に未来で見 たことを忘れているってあたりで、結構説明できそうです。
「痕」は、やはりサスペンス系のゲームで、主人公の耕一が父の実家であるイ トコ姉妹の住む家に父の四十九日もかねて滞在する中でいろいろな事件に巻き 込まれ、その犯人が自分自身ではないかという認識をしながら事件解決してい く話ですよね。で、「痕」のストーリーは、やはりいろいろと分岐しまして、 それぞれが「もしもの世界」を描いているわけですが、YU-NOと同じでプレイ ヤーが事件の全貌を知るには、複数のシナリオを全部見ないといけないように なっています。
YU-NOとの決定的な違いは、主人公が時間や空間を飛び越えることは決してな
く、ただ、ゲームのプレイヤーがいろいろなストーリーを読むことになってい
る点です。主人公耕一は、ある種のテレパシーの能力や、変身する能力もあり
ますが、時間を飛び越えたりする能力はないらしい。したがって、YU-NOのた
くやがアイテムをひっさげて時間空間を移動してしまうようなことはなく、ま
た、危機が迫ったからという理由で逃げ出すこともできません。ゲームが始まっ
たら、なんらかのエンディングまで、進めるしかないのです。
#もちろん、途中でセーブして始めからやることも出来ますけれど。
ところが、「痕」にも、因果関係に基づく軸、C軸に相当する概念はちょっと 違う形で組み込まれており、それは、プレイヤーが特定のエンディングに到達 すると、それに対応する分岐が次のプレイで現れるという方式です。これによ り、マルチシナリオでありながら、実際には、シナリオを読む順番は、かなり 制約されており、プレイヤーはまず、四姉妹の長女、千鶴のシナリオで何らか のエンディングを迎える必要があり、次に、次女梓か三女楓のシナリオ、そし て、主人公耕一と精神感応状態にある事件の犯人のシナリオでのエンディング を見て、最後に四女の初音のシナリオに入れる仕組みです。もちろん、それぞ れにグッドエンドやバッドエンドがあるし、一本道のシナリオもあるので、エ ンディングの数は十数種類になります。別に最初に千鶴のシナリオの全エンディ ングを見なくても、梓や楓のシナリオに入ることもできるわけで、
「痕」ですごいのは、はやりそのシナリオ間の因果関係の完全性です。どのシ ナリオも互いに矛盾なく補完しあっているわけです。たとえば、かおりちゃん が誘拐される事件は、千鶴シナリオと梓シナリオでしかありません。で、楓シ ナリオではなぜあの事件が起こらないかというと、耕一とかおりちゃんの接点 がほとんどなく、耕一と犯人との精神感応状態で、犯人がかおりちゃんを襲お うと思う状態にならないからなんです。つまり回りの人々それぞれの時間発展 と、主人公の行動との因果関係が完璧にできあがっているんですね。この矛盾 のないマルチシナリオでありながら、それぞれのシナリオを面白い話にすると いうのは、かなり至難の技だといえます。
まず、YU-NO では、主人公たくやの行動を関知してないはずの人の行動も、シ ナリオごとに違っている場合が多く、たとえば、亜由美さんシナリオでは、会 社前のブリーフィングでたくやが助けるわけです。それでも、亜由美さんはショッ クでかくて、結局テレビでの収録のあとで、ショックをまぎらわすために、酒 飲んで帰ってきます。ところが、澪シナリオでは、同じようにブリーフィング やったらしいけれど、そこでたくやは助けにいってません。そうすると、彼女 はもっともっと辛い立場だったはず。にも関わらず、この場合彼女は結構冷静 で、酒も飲まずに、しかも会社と彼女の関係はそんなに違わないはずなのに、 彼女はクビにもなりません。
そもそも、澪シナリオにおいても、豊富は、亜由美さんを襲っているかもしれ ないのに、結構平気。そこいらあたりで、どーもストーリーが自然ではありま せん。その点で、やっぱり「痕」はすごい整合性があって感動します。
YU-NOでの、豊富の行動は、たくやの行動と関係なしに、亜由美さんからやく ざを使って書類を奪おうとしているわけだし、それがたくやが澪の家で外泊し ようが、神奈ちゃんの家で外泊しようが、その行動をしなくなる理由がほとん どないわけです。
つまり、YU-NOでは、そういう各人の行動の意志とかそういうものを無視して、 それぞれのシナリオに入ってしまうと、それぞれのシナリオの面白いように、 周囲の人間たちのストーリーも進んでしまう。その周囲の人間たちそれぞれの ドラマが、主人公たくやの意志によって翻弄されているような感じです。たく やがどこに移動しようが、それを関知できない他の人間の行動は、たくやの移 動によって違う行動をとるようになる可能性はほとんどないわけだし、、、。
その一方で、他のシナリオへの橋渡しとして、たとえば、亜由美シナリオでも、
澪の洞窟探検は実行されます。澪の洞窟探検を急いだのは、澪シナリオでは、
澪と澪の父のスキャンダルの問題が表面化する中で、結城がそれを生徒たちに
ばらしたことが結構大きなきっかけのはずですが、その事件が起こらなかった
亜由美シナリオでも、澪の洞窟探検は同じ時間に実行にうつされるわけです。
#でもって、三角山の地底のどこかで、朽ち果てているのかな、かわいそうに、、。
あと、神奈ちゃんの存在、あるいはアマンダが現世界にいることも、大きな謎 です。因果軸上で、アマンダが現世界に存在できるのは、たくやがデラ・グラ ントへいった後であるはずなのに、実際には、その前からアマンダは現世界に やってきて、そして、どうやらたくやの子供らしい神奈ちゃんを生み落してい るのです。つまり、これを解釈するには、たくやが因果軸上原因方向にもう一 人いて、それがリフレクターデバイスと関係なく、過去へいっていたことにな ります。神奈ちゃんは、プロローグでも登場するわけですから、かなり前って ことになりますよね。
つまり、こういう部分の矛盾点というか、そういうのは、いろいろやっている
うちに結構目についてしまって、完全性という点では、「痕」に遥かに及ばな
いと結論しました。同じリーフのToHeartについては、YU-NOほどではありませ
んが、問題が結構あって、やっぱり「痕」ほどの感動はゲームとしてありませ
んでした。
#でもマルチには萌え萌え。
もっとも、こじつければ、YU-NOのそれぞれのシナリオ間の矛盾というのも、 矛盾ではなくなります。可能性として、あのようなシナリオ群になることがぜ んぜんないわけではないし、世界の発展系としては可能なシナリオなんですか らね。
まあ、「痕」と「YU-NO」では、ゲームとして全然違うタイプのものであるこ とは事実なのですが、でも、いろいろ考えてみると、単にマルチシナリオのゲー ムである「痕」のほうが、それぞれのシナリオの間の完全な整合性を考える必 要がなく、逆に YU-NO のほうが、本来シナリオ間の整合性を考慮すべきだっ たのではないかと思われます。YU-NOの根底にある「並列世界論」と、たくや のもつリフレクタデバイスのことを考えると、YU-NOでの、現実世界でのマル チシナリオの部分については、時間空間を飛び越えて、移動可能なのは、おそ らくたくやだけです。他の人は、それぞれの並列世界でそれぞれ活動している のであって、因果関係からすれば、シナリオの分岐を制御しているのは時間空 間をとびこえるたくやだけであるはずです。他の人たちの行動は、たくやの時 間空間移動を原因としてのみ、行動を変化させ、分岐するわけです。ですから、 たくやの行動を関知してない人は、もちろん、連鎖反応的にたくやの行動が反 映されることはあっても、本質的にはたくやと無関係で、C軸に対して不変の 行動をとる必要があるわけです。実際、一日目の午前中あたりまではそういう 感じがしますけれど
さて、両方のゲームともに、プレイヤーに対しては、全てのシナリオを進める ことをある程度要請しているゲームです。YU-NO では、A.D.M.S 上に散らばっ た全ての宝玉を発見し、かつ知念石をアイテムとして獲得しないかぎり、デラ・ グラントにはいけません。そして、デラ・グラントにいかない限り、ゲームの 最終的なエンディングには至れないのです。痕では、千鶴シナリオをクリアし ただけでは、事件の全貌はつかめず、楓シナリオや初音シナリオ、犯人側のシ ナリオを読まないと、真相はわからないようになっています。したがって、両 者ともに、シナリオを書く側としては、シナリオ間の矛盾はさておいて、シナ リオごとに設定上の矛盾があっては困ります。
しかし、このようなゲームの中で非常に古典的なものであるスーパーファミコ ンのゲーム「弟切草」では、そうではありませんでした。シナリオごとに設定 がかなり違っている場合があるのです。「痕」でいえば、シナリオによって、 犯人が長瀬刑事だったり、柳川刑事だったりするとか、そういうことだし、 YU-NOでいえば、シナリオによって、澪がたくやの娘だったり、神奈がそうだっ たりするようなものです。こういう設定の違いがあると、シナリオを全て進め るタイプのゲームでは、なにがなんだか分からなくなるでしょう。実際、「弟 切草」は、分岐が非常に複雑で、その数は数百といわれているほどで、特定の シナリオ経路にそってだけ、整合性のある話になっているといえます。分岐の 数が非常に多いことから、プレイヤーに対して、すべてのシナリオを読むこと を要請していないのです。ま、このあたりは結局のところゲームを作る側のポ リシーの問題になってくると思います。かなり昔の話ですが、小説で、ストー リー上矛盾の多いものがありました。ゲームにせよ、小説にせよ、結局は架空 の物語なのですから、それを作家が作る場合、いろいろな点でかなり注意して ないと、矛盾点はたくさん出てくるでしょう。
ではまあ、ちょっと表にしてまとめてみます。
ゲーム名 | シナリオ間整合性 | 設定整合性 |
---|---|---|
痕 | ||
YU-NO | ||
弟切草 |
まあ、もっとも、「設定とはなんぞ」という話もあるわけです。設定と呼ばれ るものが、シナリオの進行にそって出来上がるような場合には、シナリオ間に 矛盾がなくても、設定上矛盾が生じるエンディングに至ることはあっても良い わけで、具体的にいえば、C軸上原因方向に遡った物語の出発点において決まっ ている設定が、以降変更されなければ、問題はないといえます。もちろん、可 能性として、異なる過去から同一の現在が導かれる可能性もないわけではあり ません。しかし、一般的にC軸の結果方向への移動は、T軸での時間発展と同じ く、エントロピーの増大方向ですから、違う原因から同じ結果が導き出される ことは、局所的にはいろいろあっても、大局的には、「可能性として起こりに くい」といえます。
まず、登場人物を有限の数にしましょう。たとえば、5人とか6人とか少ないほ うが簡単でしょう。また、彼らの移動する場所をある程度限定する必要があり ます。やっぱりこれも、5箇所とか6箇所くらいでしょうね。もちろんとりあえ ずということです。さらに、時間という要素もあります。人間の行動は朝、昼、 夜などそれぞれで違うわけで、もちろん、最近はだいぶルーズになってきたけ れど、基本的に朝起きて、昼は行動し、夜は家に帰るというパターンがあるわ けで、そういう時間的制約も考慮しましょう。基本的には、時間をある程度分 割しておきます。一時間ごととか、二時間ごととか。そして、もう一つ、どの シナリオでも共通して起こる事象というのも考える必要があります。
次に、登場人物は、情報を複数持っているとします。情報というのは、たとえ ば、「人物Aは犯人だ」とか「人物Bと人物Cは恋愛関係にある」とかいう情 報です。ここで、情報の内部構造はとくに考えません。つまり、情報は一つ一 つ個別で、中に変数があったりするものではないのです。つまり、だれだかわ からないXについて「Xは犯人だ」というような情報はないのです。さて、情 報は、情報を生み出します。Aという情報と、Bという情報とCという情報か ら、Dという情報が、演繹されるということです。この演繹ということについ ては、論理学的な演繹ほど厳密なものではないとしましょう。「AとBとCか ら、常識的に判断すると、Dである」というようなものも含まれます。場合に よっては、非常に飛躍した演繹も考えられるでしょう。直感的とか、霊感とか いうものもこの際含んでしまって、「AとBとCなら、直感的に絶対Dだと思 う」みたいな演繹も許されることにします。こういうところで、適当な演繹な どを許すようにしないと、モデル化の段階で、膨大な「常識」とかそういうも のを持ち込まないといけなくなるんですよね。
次に、条件というのを考えてみます。条件としては、ある人物と一緒にいると か(つまり同じ時間に同じ場所にいる)、ある場所にいるとか、ある時間であ る(昼であるとか夜であるとか、朝食の時間である)とかそういうことです。 もちろん、そのとき考えているのが誰かというのもあります。さらに、外的要 因としての、どのシナリオでも共通に起こるとか、事件が起こったとか、その 場にいたとかいうのも条件になります。
えっと、アドベンチャーゲーム一般では、アイテムなんていうのも結構重要で すけれど、それについては、情報と同じ扱いで良いでしょう。アイテムは特定 の時間の特定の場所で、ある条件でゲットできて、それを持っていることで、 行動の選択が代わってくるわけですから、情報とほとんど同じものと考えてよ い。ただ、情報は、その性質上、人に対して情報を与える行動で失われません が、アイテムは使うと失われたりしますから、そういうのも考えてモデル化す ることができます。
さて、以上のようなことから、今度は、人間の行動を考えてみます。「人間と いうものは、特定の情報をいくつか持って、特定の条件があると、特定の行動 をとる可能性がある」ということにしましょう。行動とは、たとえば、サスペ ンスものなら、「人を殺す」なんていう物騒なものもあるし、単純に、「場所 を移動する」とか、「人と情報をやりとりする」なんていうのもあるでしょう。 さて、ここでも、持っている情報とそのときの条件から、行動が論理的に演繹 されるというだけでなくて、一種の衝動のようなものも含みます。だから、論 理的に、「この情報とこの情報とこの条件ではこの行動にならないだろう」と いう場合でも、行動に走ってしまうことがあり得るわけです。それも人物の性 格とかに依存しますから、条件によるということになりますね。
さーて、ここまでできると、基本的には、だいたいモデル化ができたことにな るでしょう。マルチシナリオのゲームを作る上では、まず、情報と情報との演 繹関係などを定義しておきます。それから、情報と条件と行動との間の関係を 定義しておきます。そうすると、人物というのはまさに将棋の駒のようになり ます。最初の状態があって、次に、それぞれの人物がとり得る行動が演繹され ます。そのうちどの行動をとるか、は、任意に選べることになります。任意に 選んだ結果が次の状態を作りだし、さらに次の状態を作りだしという、世界が モデル化されたことになります。また、このモデルに従って人物が行動を選ぶ ようにしている限りにおいては、互いに無矛盾なシナリオが多数生成されます。
この中で、YU-NOのたくやみたいに、リフレクターデバイスを持っているよう な人物がいたなら、その人は、時間空間を移動できます。それも行動の一つで す。そして、移動したときに、条件に応じて、「情報を持ったまま移動」とか 「情報をほどほど忘れて移動」とかも制御できることになります。もちろん、 アイテムを抜きにして移動なんていうことも定義できます。それら全ては、行 動の定義によるわけです。
ところで、少し話は脱線します。「ときメモ」とかのシミュレーションゲーム は、基本的にストーリーというものがあんまりなくて、ゲームしている間のイ ベントを楽しみ、最後にゲームプレイの軌跡に基づいてエンディングが選ばれ るようなものですが、これって、たぶん、これまでのモデル化してきた中で、 情報とか条件とかいってきたものが、パラメータ化されているような場合でしょ うね。主人公の行動やそれ以外の人の行動が、演繹されたりするのではなくて、 パラメータの大小によって発火するという仕組みですね。まあ、いままでやっ てきたモデル化がどっちかっていうと、論理型プログラミングみたいだったの に対して、パラメータを使ったシミュレーションゲームは、ニューラルネット みたいなゲームだと言えます。RPGなんかでの経験値なんかもそうですね。
結局、そういう目で見ると、キャラクターゲームというものが、それぞれの人 物を内部状態を持つオブジェクトとして表現して、そのオブジェクト間の相互 作用で、内部状態が変わり、その相互作用自体が内部状態に依存するような形 でモデル化できると思うし、実際、ちゃんと考えて作ったゲームはそういう形 式でプログラムされていると思います。やっつけ仕事で作ったゲームは違うん でしょうけれど。まあ、オブジェクト指向言語の最初のものの一つとして Simula という言語があったけれど、これ、実際にはシミュレーションとかゲー ムなどのための言語でした。結構この辺、オブジェクト指向とゲームプログラ ミングはとってもからみあっていると思うのでした。
物理学で、量子力学が誕生する前は、決定論というものが支配的でした。ニュー トン力学によって、「現在の状態が全て観測可能なら、未来は完全に決定され ている」というわけです。もちろん、この話は逆にもいえて、「現在の状態が 全て観測可能なら、過去もまた全て知ることができる」ということにもなりま す。そして、近代物理の発展により唯物論が盛んであったわけですから、当然、 人間というものも、物質でできていて、その物質の活動の結果として、精神が 存在するわけだから、未来は完全に決定されていて、人間の意志とかそういう ものも、たんに、一直線に未来に向かって進んでいく中での物質的運動が反映 したにすぎないという解釈が出てきます。まさに、決定論。それでも、現在の 状態を無限の正確さで知ることはこれまた不可能ということで、現実的な話と しては、未来予測を完全に行なうことはできないという結論にはなったのです が、とはいえ、「全知全能の神は知ることができる」という話にはなる。もち ろん、この場合の神とは、まさに「物理学」だったりするのかもしれません。
ところが、量子力学が始まると、「特定の現象についてさえ、現在の状態を全 て観測することは原理的に不可能だ」ということになってしまいました。ある 粒子の運動について、その粒子の位置と速度(正確には運動量だけれど)を任 意の正確さで観測できれば、その後その粒子がどのような運動をするかが任意 の精度で予測できるはずですが、実際には、位置と速度の観測の正確さのかけ 算した量が、プランク定数より小さいことはないというのが量子力学の原理な のです。つまり、位置の計測を正確にすれば、速度の計測が不正確になり、逆 もまた真ということです。ここにきて、決定論というのが、すこし影を潜める 結果になりました。
でもって、こうなると、人間の意志とかいうものも、またすこし自由な意志と いうものを考える余地が出てきたことになります。唯物論的に考えて、人間は たしかに、物質の複合体であって、その精神もまた物質からなるシステムにや どるものであるが、その物質の運動自体が、非決定的に振舞っているなら、や はり精神もまた、非決定的に振舞う、、ってことになりますね。
そんでさらに、今度は、カオスとかそういう話から、完全に決定論的に運動し ているものでも、複雑なシステムの挙動は、結果として予測不可能だというよ うな話も出てきます。ましてや、人間の脳のような複雑なもので、しかも、そ の脳をとりまく身体、そして身体を取り巻く環境が非常に複雑な場合、脳がど のような決定をその都度下すか、というのは、まさに非決定的であり、わけわ からないことになります。まあ、一般論として、多数の人間がつくり出す社会 を考慮した場合には、その社会の中の個々人の行動は、適当に分布することも たしかなので、そういう方面から、社会全体の大局的挙動を記述しようという 試みもないことはないですけれど、で、実際株取り引きなどの場面ではそうい うことを導入していろいろ予測なんかもやっていますけれど、それでも、厳然 として個人の意志の自由さは残るわけです。
それが、近代物理的な唯物論的な決定論の崩壊(つまり量子力学の誕生)から きたものなのか、あるいは、現代数学的なカオス的なものから来たものなのか 別にして、人間の意志というものは、再び自由なものになったといえます。
で、ここからは、一種のトンデモ科学的にはなるんですが、私の考えているの は、こういう非決定的に振舞う複雑なシステム、とくに、そのシステムの根底 に、量子力学的な不確定性にもとづく揺らぎのようなものがある場合は、シス テムが総体として、なんらかの意志とか意識をもつのではないか、ということ なんです。非常にトンデモな話になりますが、つまり、システムが総体として 持った意識が、システムのベースとなる個々の要素とか個々の現象そのものの 揺らぎなどをなんらかの方法で制御して、意識とか意志そのものがシステムを 運用してしまうようなことがあるだろうと思ってしまったわけです。
マルチシナリオ的なゲームをモデル化したかったのも、上記のようなことを考 慮した上での話。意志とか意識、そして認識ということを、マルチシナリオの ゲームを通じて、具体的に考えてみたいと思ったわけでした。
このような作業の多くは、たぶん、条件と情報から行動を決定する段階で、な んとかなるような気もしてるんですが、まだまだ完全にモデル化できていませ ん。たぶん、なんらかの形で、それぞれの人物の「行動方針」を定義し、それ に基づいて、個々の条件と情報から、とりうる行動が自動的に選択される仕組 みを作らないといけないのですけれどね。
逆にいうと、この辺でそれぞれの人の「意志」みたいなものを定義できるんじゃ あないかと思ったりもします。たとえば、YU-NOにおける澪の行動は、「とに かく、三角山の謎を解明したい」という根底の意志があって、彼女の行動は基 本的にはこの意志からいろいろと演繹されていると見ることができますよね。 そんなわけで、こういうところをちゃんとモデル化できたら、モデル化された ゲームの世界の中で、それぞれの人物が、それぞれ意志をもっていて、ただし、 主人公の意志だけは、プレイヤーにまかされるっていうゲームができるんだと 思います。どうしましょうね。まあ、ここで、Prolog 言語みたいな発想をい れれば、意志というものを最上位の Goal とすることができて、その Goal を 得るための欠けた情報や状況を作る行動を探索する下位の Goal ができて、っ てことで、それぞれのおかれた状況でとり得る行動のうち、Goal と合致する ものを選択して行動するような方法になるのかもしれません。ここんところは、 もう少し考えてみます。 まあ、難しいところはここではおいといて、こういう形でモデル化された世界 では、主人公の行動は、可能な行動複数の中からいろいろ選んで主体的に行動 できるわけで、ここんところ、「かなりそれらしく作り込む」ことができれば、 結構エクサイティングなゲームができるんじゃあないかと思っています。
多くのアドベンチャーゲームでは、マップ移動によって、イベントが発生する ものが多いのですが、一般にうまく作ってあるゲームでないと、イベント発生 させる場所の探索そのものになってしまって、プレイヤーの主体的な行動選択 が難しい場合が多いのです。上で紹介した「痕」ですら、選択肢の選び方に対 する結果が意図していたものでないことが多く、結果として、探索問題になっ ている部分がたくさんあります。まあ、現実世界でも、ある行動に対して必ず しも意図した結果が得られるわけではありませんが、そのヒット率のようなも のがあまりに低いと、マルチシナリオのゲームも、たんなる宝探しのための探 索そのものになってしまいます。で、たんなる探索だと、せっかくのマルチシ ナリオであっても、プレイヤーごとに違う結果にならず、同じような経路で同 じようなエンディングに至り、うける印象も同じようなものになってしまう、 つまり、主体的なプレイができないことになってしまうわけですね。
そんなわけで、できるだけ、プレイヤーの主体的な意志を尊重するためにも、 これまでやってきたモデル化によって、自然なイベント発生がおこるようにし たいというのも、このモデル化の一つの目的でもあります。
こういう目で過去の歴史というものを眺めると、厳然と岩のように硬い過去の 歴史というものも、実際には、現在残っている資料や遺跡から「推定された過 去」に過ぎないことが見えてきます。量子力学の不確定性理論によれば、未来 予測の不可能性だけでなく、過去もまた推定不可能であることを教えてくれま す。ただ、エントロピー的な意味で、過去における特定の歴史的事件が現在ま で残した痕跡というものから、「非常に高い確率的で、特定の事件が起こった ことを示唆している」ということは言えますが、本当にその事件が起こったの か、ということを決定することはできないのです。実際、歴史は過去になれば なるほど、ぼやけてくるものです。実際、日本の古代史は、いまだに霧の中で す。さらに言えば、自分の記憶というものもそれほど確実なものではないこと に気がつきます。昔の記憶は都合のよいところだけ、あるいは印象に残ったこ とだけが強く記憶されていて、他のことは忘れ去ることはないにしても、普段 の自分の行動そのものを決定するのに大きな影響を及ぼしているわけではあり ません。
そんなこんなが、重なることで、今後、歴史にせよ、未来にせよ、あらゆると ころで、だれもが不信状態になることが、予想されます。情報化社会とは、だ れもが同じ情報を持っている社会ではなくて、それぞれの人がそれぞれの好み にあった情報を獲得し、それに基づいて、好みにあった行動をする時代なのだ ろうと思われるわけです。学校で教えられることも、なにもかもが「疑ってか かるべきもの」になってしまう。だれもが同じストーリーの小説をよむのでは なく、意志をもって主体的にストーリーを発掘するマルチシナリオのゲームが 一般化すれば、同じ作品からひとそれぞれが違うものを見るようになるわけで、 だれにとっても同じ作品というものが存在しなくなる。まさに情報の多様化そ のものであり、一人一人の人間は、いままで以上に主体的に情報の取捨選択を し、そして、今まで以上に主体的に行動することを趣向するようになると同時 に、それが要請されるようになるでしょう。このような中で、たぶん、常識も 個別化してくることになり、やがて常識そのものが粉砕される。たぶん、20世 紀をピークにして築かれた科学技術そのものも、やがて多くの人に疑いの目で 見られるものになり、過去の歴史も、なにもかもが、それぞれ個人の意志によ り、あるものは疑われ、あるものは信じられ、そうして、きれぎれ、ちりぢり になっていくことが分かります。
まあ、そんなわけで、「風が吹くと桶屋が儲かる」に近い話ではありますが、 マルチシナリオのゲーム。いやもっとビデオゲーム一般というものが、これか らの時代を大きく変化させるための土壌を作っているんだろうなあという気が してなりません。
でもって、なんだかわからないけれど、これからの時代、つまり、常識がなく なって、それぞれの人が主体的に情報収集したり、主体的に行動する時代に、 脈略もなく、ぐだぐだ収集された博物学的な情報や物のコレクションみたいな ものが、やがて新しい時代の科学を生み出すんだろうと思います。科学じゃあ ないかもしれないけれど。だって、古代帝国の時代が終ったときに、地域間の 情報網や流通網がかなりなくなって、地域それぞれが個別の文化や風習をもち、 過去の帝国の領域全体に跨る常識とか文化が損なわれた中世において、いろん な人がいろんな形であつめた知識、情報、技術というものが、中世の後半での 産業革命を引き起こしたし、結局そこで得られたいろいろなものが、近代科学 の発達のもとになったわけでしょ。近代、現代っていうのは、みんながみんな 同じ知識をもって同じ情報を得て、同じように行動する時代だったわけで、っ ていうか、そういう方向を趣向していた時代だったんで、そういう画一的な状 況では、新しい科学の芽なんてものの探索もとっても画一的だから、みんな同 じ問題にぶつかったりする。そういう意味では、一旦常識とかそういうものが 失われて、いろいろな観点でいろいろな探索、研究、思索が行なわれたほうが きっと新しい時代の芽をうむには都合がよいと思いますよ。それが「世界を革 命する力だ」と思うんですよね。でもって、そういう状況をつくり出すのに、 マルチシナリオのゲームはとっても重要。まさに、研究対象とするべきもので あるということを、ここでは述べたかったのでした。
まだ書き直すとは思うけど。