縄文についての ツイート集
ツイッターでの呟きを、備忘録として まとめてみました。
2014年1月26日(日)
今日、『 縄文遺跡群 世界遺産登録推進フォーラム 』という長い題名の講演を聞きに行った。
縄文への関心は、身近な存在だから。
近くの善福寺川や神田川流域には縄文遺跡がゴロゴロしていて、子供のころ土器の破片などを拾って遊んでいた。
今でも、石斧と黒曜石の矢じりを持っている。 というわけで、興味を引いたことを メモる。
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長く続いた旧石器時代に、1万5千年前に 「縄文革命」 が生じた。
人類史は、移動生活の第一段階から、定住生活への第二段階に入った。
縄文時代は 1万年以上続いた。
日本の歴史の大半は縄文時代で、それが現在の日本人の感性を規定している。
A
人類史上最古の土器の製作は、津軽半島の大平山元遺跡で、約1万6500年前の土器が出土している。
土器づくりは片手間では出来ない。
しっかりした定住生活が前提になっている。
うるしも 赤漆、黒漆など用いられている。 むろん世界最古。
B
定住生活は これまでの定説では 農耕が前提と云われていた。
が、縄文は 農耕を前提にしない狩猟・漁猟・栽培採取のムラで定住生活を送った。
これは世界一豊かな自然の恵みのためで、また 自然環境に適応した生活を送ったから。
食べ物の情報が蓄積され、四季折々の食べられる物を食していた。
三内丸山のムラは2千年近く続いた。
C
定住生活の革命は、
移動生活では老人が落伍していたのが、ムラの生活では 家族と共に生活できるようになり、
その老人の情報・知恵が孫に伝達できるようになったこと。
若夫婦が出かけた後に、老人が子供の面倒を見て、情報を伝達蓄積する仕組みが出来た、と。
D
小林達雄氏は、縄文は文明でなく文化と語っている。
法とかで維持されるのでなく、列島の自然と密接に結びついた社会と。
E
縄文社会では第2の道具が発達したと。
第1の道具は、釣針、矢じりなどの世界共通のもので、腹を満たすための道具。
第2の道具は、土偶・石棒・石剣など、心を満たすための道具と思われるが、用途はわかっていない。
これは 大陸や、半島や、沿海州 には無いもの、と。
火焔土器の突起や土偶などは、必要なものとして長い期間作られている。
F
多岐にわたる内容だったが、印象に残ったのは 縄文の豊かな精神文化だった。
最近、赤ちゃんの手型・足型を押し付けた粘土板が多く出土してると。
穴があけられてるので、吊り下げられて使われたのかもと。
母子愛というか、縄文社会は母性的文化だったようだ。
縄文土偶 赤ちゃんの手型・足型を押し付けた粘土板 from「芸術新潮 特集 縄文の歩き方」(2012.11) |
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G
自然と共生・共鳴した縄文人のスピリッツは、日本語を通して現在に受け継がれている。
自然の様子を表す擬音語、擬声語などに。
小川はサラサラ、上流はチョロチョロ、雪解け水はポタポタ。
下流ではザブンザブン。
漢詩では○○のように流れる、と形容詞を用いるが、日本語では川がつぶやく。
H
小林達雄氏は、自然と共生していた縄文人の縄文語から引継がれた日本語の特色として、新古今和歌集や俳句をあげていた。
『 山も庭も 動き入るるや 夏座敷 』 芭蕉 なんてそう思う。
山や森が動き出すのは、西欧では マクベスのそれだから。
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土器の製作は日本だけでなく、ヨーロッパやアジア、アフリカ、アメリカ大陸でも出土している。
しかし1万年以上遡るものはない。
それが日本では1万3,4千年前のが、青森から鹿児島、種子島に至るまで あちこちで出土している。
土器自体が世界最古であるだけでなく、それを生活の中に取込んだ時期も 地球上の他の地域より群を抜いて早かった。
ユーラシア大陸東端の島国に過ぎない日本列島で、世界に先駆け、これだけの土器文化が栄えた理由はまだはっきりとわかっていない。
縄文メモ: 土器作りは世界の3か所が発生地。
・約9千年前の西アジア。
・約7千5百年前のアマゾン川流域。
・約1万5千年前の日本列島。
日本にやや遅れて シベリア、中国東北部、朝鮮半島で、さらに遅れて 長江下流域、東南アジアで。
ヨーロッパでは 約8千5百年前から。
2015年5月6日
新宿に縄文人が現れたので会いに行った。
市谷加賀町2丁目の高台で、今から4000〜5000年前(縄文中期〜後期)の42軒+19軒の大規模集落から16体の人骨が出土したのだ。
12号人骨は、頭蓋骨から顔が復元された。 この作業経過のビデオも興味深かった。
この人物は BC3310〜3026年に死亡し、161cm、40歳台。
頸推症で手のしびれに悩み、コラーゲン分析で食生活、DNA分析で母系の祖先が判明している。
イルカの腰飾りを付けていた。
3〜4`先の東京湾も含めて、高台の集落の情景は細かに描かれていた。 交易に来た人も。 長野等の黒曜石。新潟の翡翠。秋田の天然アスファルトなどが流通していただろう。 グルメな食べ物も当然。 |
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2016年1月24日(日)
有楽町マリオンで、「北海道・北東北の縄文遺跡群」世界遺産登録推進フォーラム、という長い名称のセミナーに行って来た。
最新の縄文の情報がゲット出来たのが嬉しい!
今回、毛色の変わった二人の講演者の話は魅力だった。
一人は日本の先史時代が専門の英国人サイモン・ケイナーで、海外から見た縄文文化。
もう一人は民俗学専門の赤坂憲雄で、基層文化としての縄文文化だった。
(日本語、英語チャネルのトランシーバーが配布された)
国際的視点からのサイモン・ケイナーは、世界最古の土器出現の日本列島。
次いで(北海道の海向う・樺太の隣の)ロシア・アムール川下流域の土器、
中国南部の土器といった世界最古の土器のエリアが、
ユーラシアを横切って中東・ヨーロッパに波及した、との西欧の若い学者の最新の仮説を紹介した。
サイモン・ケイナーが驚いたのは、先史時代に1万年の長きに渡って、自然と共生した縄文文化が継続したこと、と。
普通、文化は2〜3千年で変容する、と。
彼は、世界最古の縄文の土器、世界最古の縄文の集落(のデザイン)に魅力を感じていた。
普通、文化は2〜3千年で変容するものなのに、縄文文化は1万年の長きに渡って継続した、という事を私は重要します。 世界一豊かな自然と共存し、縄文人どうしが平和に交流して生活していて、変容する必要が無かった。 まさに西洋人が憧れるエデンの園です。 私は、縄文社会が1万年継続したことを解く概念が、「ホメオスタシス作用」と考えています。 身体の恒常性維持の概念で、体内の機能が働きすぎることを制御したり、機能が低下した時には改善させたりするなど、 ヒトの身体が常に一定の生理作用の中で動くようにバランスをとる作用です。 つまり The Power of Keeping Normal 。 これを集団に適用すると、変容を避け、社会を一定に維持する力で、それがノーマルな社会の状態。 民族間の戦争などの異常事態が生じれば変容するが、それがない縄文社会は 安定した正常なホメオスタシス作用で継続したと。 変容しなかったのは悪い事では無く、生命・種の生存原理で、エデンの園だから。 他民族の襲来などで生存が脅かされ、戦争技術が進歩した集団は、どんどん変容していった、ということでしょう。 これは別に進歩ではないです。 2023年10月01日: 追記 |
赤坂憲雄の話は面白かった。
民俗学からの常識を覆す話題ばかしだった。
布は昔はー中国から織機が入ってから列島で普及した、が定説だった。
しかし 今は 縄文の遺物から布が沢山出て、布はムシロ織で出来て、織機機は必要ないと。
そのため 毛皮をまとった縄文人のイメージは無くなり、布を身にまとった縄文人の姿になった。
赤坂憲雄は、ラオスの焼畑で10数種の稲を育てていた見聞を基に、縄文でも陸稲の焼畑農耕が行われていただろう、と。
焼畑は考古学的な痕跡を残さないので、証明は難しいが、と。
赤坂憲雄の、世界最古のウルシと現在の会津のウルシ伝統の話や、
赤ちゃんの手形などなどからの縄文人の死生観、とか、
岡本太郎が縄文の精神を気付かせてくれた先人、など 多様な話は 実に興味深かった。
赤坂憲雄は東北をフィールドに25年歩いてきた。彼は民俗学から考古学へのアプローチは無いと。それが過去から継続してる、を担保出来ないから。
しかし八戸・是川遺跡(3千年前)の大量の木製品にカンジキがあり、これは現在のカンジキに繋がってる、と。
何故なら カンジキは、スキー型が世界の一般だから、と。
青森・二ツ森貝塚(6千年前)からは丁重に埋葬されたイヌが見つかっており、
現在のマタギが、年老いて狩りに行けなくなった犬でも面倒を見て、犬を大切に葬うのと同じ、と。
当時の動物との共生の社会を示している。
縄文の集落のデザインが分かってきたことを両講師は重視した。
三内丸山(6千年前)は、花粉分析で人工的な大規模なクリ林に囲まれている。
集落の木は、ウルシ用とかカンジキ用とか、全て用途、意味があるものだろう、と。
今の里山が実はそうなんだ、と。
土偶は Doguと英語になっている。
赤坂憲雄は、土偶・信仰についてネリー・ナウマンの月信仰の説を紹介した。
サイモン・ケイナーは、ストーンヘンジの最新や、
世界最古の町の遺跡ートルコ「チャタル ホユック」9500〜7700年前や、
スコットランドで発掘中のムラ、その他をスライドで紹介した。
石組み遺跡で、自然との共生の文化とは異質の感想を抱いた。
縄文集落のイメージ図
2016.1.24 世界遺産登録推進フォーラム資料 | ||
2022年05月13日(金)
DNA解析で顔を初復元(国立科学博物館 2018.3)
縄文女性は美人と思っている。
国立科学博物館などの研究チームは、北海道礼文島・船泊遺跡の縄文人(約3800年前)の骨から採取したDNAのゲノム(全遺伝情報)を解析し、
顔つきに関係する遺伝子に基づいて、初めて復元した顔の像を公表した。
船泊縄文人は、40〜50歳代の女性。肌はしみができやすい性質で色が濃く、毛髪は細く縮れタイプ。鼻の高さは中程度で、瞳は茶色。
アルコール分解遺伝子を持ち、酒に強い。
で、若い時分はどんな顔かな?、 と、復元顔を若返りアプリで試すと..なんと美人だ。
日本語は人類史上で最も古い語順を持っている、という 仮説も 発表されている。
私には、スンダランドの原アジア人の一派である、縄文人の言語がルーツだから、という傍証に思える。
2012年2月9日 朝日新聞 朝刊・科学面 |
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縄文人が、稲作文化を受け入れる際の心理的な葛藤 についての論考
『人類の移動誌』 印東道子 編 臨川書店 2013.4.30発行 |
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第3章 日本へ
・縄文と弥生―日本列島を縦断する移動と交流 (小林青樹)
弥生文化の伝播には 縄文の壁があちこちにあり それを越えるのに時間がかかっている。
弥生時代前期を象徴する 北九州の板付文化の壺の文様の起源は 亀ヶ岡式土器であることが判明。
文様だけでなく壺もそうであり、朝鮮半島のデザイン・製法という 従来の考えが覆された。
これは、当時の最先端文化であった亀ケ岡の技術を導入した結果、と。
同じく亀ヶ岡で見られる漆塗り製品が北九州では出てきている。
壺の扱われ方からみて、祭祀用の壺が亀ヶ岡式で作られ、それが一時 北九州一帯に広まった、と。
小林氏は、
『亀ヶ岡式の土器が国内で最も優れた精緻な工芸品であり、また、以前から西日本で儀礼用の交換材として機能していたことが影響していよう。
当時の工芸品製作の技術レベルは大陸のものとは比較にならない高度なものであり、それらを結集したとも言える。』
小林氏は、、
異文化流入で混乱が生じ、保守的な姿勢も加味ー つまり伝統文化である縄文文化をベースに変革を進めた。
亀ヶ岡系文様の移殖は重要な象徴、と。
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縄文人が、稲作の弥生文化を受け入れる際には 大きな心理的な葛藤があった。
江戸人が、西洋文化を受入れる際の葛藤では、和魂洋才 として妥協した。
同じように、稲作受入れ先進地・北九州板付文化では、東北の亀ヶ岡式土器の
精神と文様を使用した。
福岡・板付遺跡より古いとされる、最古の水田 佐賀・菜畑遺跡 は、
湿地に直接種籾を播いた粗放な技術ではなく、用・排水の水路と区画された水田 を設けて栽培されていた。
しかも、多くの畑作物もあり、イネ栽培は縄文時代の食糧選択の幅を広げることから始まっていた。
本文→ 産経ニュース 2014.11.21 「歴史のささやき」 最終日、執念が掘り当てた最古の水田 佐賀
← 菜畑遺跡 グルメな縄文人は、ワン・オブ食材としてイネを栽培していた。 私は、”コメの酒はたまらなく美味いぞ。” ”そうか じゃ俺も造ろう”、 と 稲作が広がっていったと思う! (^^) 縄文最初のコメは、祭祀・神事 用の酒のためだったかも! |
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弥生時代早期〜前期の 新町支石墓群は、縄文人が弥生文化を受容した 移行期の遺跡。
(2017年3月29日 読売朝刊 文化欄)
糸島の縄文人は、半島南部(倭人のクニ)と交易を行っていた。 渡来人とは、半島南部の倭人に頼んで渡海して来た 難民や、 ボートピープルが中心だろう。 船団を整えて集団でやって来る渡来人のイメージは、 縄文人なら航海にたけており、半島に交易に出かけたり 移住したりしているが、 その逆の、半島人が航海にたけて渡海してくる、という仮説は成り難い。 彼らは海洋性の民では無く、縄文〜弥生〜古墳時代〜現代まで変わりない。 |
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この本は、日本語の起源を 弥生時代とする説を検証・排し、縄文時代から継続していることを検証した。
大量の渡来人が列島に来て、弥生文化を広め、縄文人を駆逐した、という事実は無く、縄文人が稲作文化を受け入れ 弥生期に至った、と。
『 縄文語の発見 』 小泉保 青土社 2013年6月10日 (新装版) |
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現代日本人が縄文人の直系、という確信は、言語学者・小泉保の「縄文語の発見」青土社 による。
この本で、日本語は縄文文化と共に始まり、1万年以上にわたる伝統を有しているが、これは列島という立地に負うことが大と。
縄文から弥生でも言語上の断絶は認められず継続している、と。
内容のメモと感想など
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3万年以上前に南シナ海の中心 スンダランドに住んでいた原アジア人の一派は、マンモスを追って北上し、バイカル湖周辺で酷寒に適合した体質を得る。
その後 南下して モンゴル、沿海州、中国へと移動した (北方モンゴロイド)。
他方の一派は、スンダランドから陸伝いに (魚介類を追って ?) 北上して 日本列島に移住した。(南方モンゴロイド)
A
小泉保は比較言語学の手法により日本語の祖語をアジア中から求めた。
彼は 朝鮮語、モンゴル語、ツングース語、アルタイ語、ウラル語 と比較検討したが
いずれも日本語との規則的な音声対応は認められなかった。
皆 日本語の兄弟語では無かった。
B
次に、インド先端部のタミル語を調査した。 類似はしてるが 同系性には欠けると結論づけた。
チベット語、ビルマ語も同じ。
結論は、日本語と琉球語の間以外には 日本語と周辺言語との規則的な音声対応は成立しなかった。
渡来人により縄文語から弥生語に変化した と仮定する際の 弥生語の祖語は何処にも無かった。
C
そこで、島国になった列島に 縄文文化が醸成され、異質の複数言語が競合しながら統一されて 原日本語が定立された、と列島内部での成立を想定した。
そして縄文期の「原日本語」を探求する。
D
小泉は、東北方言の子音が縄文後期の音形を保持している、と考えた。
また、稲作技術を携えた大量の弥生人が 東北に移住したという記録もないので、
東北弁は弥生語に制圧されたとは考えられず、縄文語の子孫として今に伝えらている、と考えた。
E
縄文晩期には、縄文語は、裏日本縄文語、表日本縄文語、九州縄文語、琉球縄文語 という4つの方言に分かれていた。
そして、弥生語と云われるのは、渡来人によって 「九州縄文語が訛ったもの」、というのが結論。
F
弥生当初の渡来人は少数で、九州に来て縄文語を習得し、三世代以降になると
縄文語を日常的に話すようになった。
その際、彼らの母語のアクセントを 無アクセントの縄文語にかぶせて発音した。
山東省経由の中国的四声を備えた言語を母語とした人達、と小泉は想定してる。
この弥生語のアクセントが、現在の大阪弁のルーツと。
G
裏日本縄文語は、津軽〜出雲 の広い地域で話されていた。
一方 稲作技術などで文化的優位にたった弥生弁は 北九州で広まった。
後に弥生弁を話す集団が大和に入り、裏日本縄文語圏は分断され、出雲だけが孤立した。
現在の出雲のズーズー弁と東北のズーズー弁は同じ縄文起源のもの。
H
日本語は人類史上で最も古い語順を持っている、という仮説も発表されている。
私には、スンダランドの原アジア人の一派である、縄文人の言語がルーツだから、という傍証に思える。
(2012/2/9 朝日朝刊・科学面)
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「縄文語の発見」を呟いてきたが、私は日本人とは、列島に住み日本語を話す人、とアバウトに考えている。
国籍や人種は関係ない。
在日の半島人であれ、モンゴル、イラン、アイルランド..人であれ、と。
DNAは関係なく 列島の風土と文化で結ばれていればいい。
日本の歴史は、1万数千年前から始まる縄文時代がそのほとんどを占める。
この長い時代の自然に向き合う感性が 無意識にせよ 我々の感性のルーツになっていると思っている。
旬の食材 とか俳句 とかも..そんな訳でこれからも縄文に関心を持ち続けたい。
< 備 忘 メ モ >
「縄文語の発見」 のメモ
「ツイッター」 の基となった 読後メモは より詳しいので 自分の備忘として下記に収録する。
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かねがね抱いていた古代史の疑問に次のようなことがある。
『縄文人と弥生人は別で、現代人の祖先は渡来した弥生人で、縄文人は弥生人に取って代わられた。』
ところで、最近読んだ言語学からの仮設では そんなことはなく、
『日本語は列島以外に同系の祖先を見つけることは出来ず、
従って、日本語は縄文時代から今に至るまで、変化しながら列島内で話されていたと考えるのが妥当。
現代人の祖先は縄文人で、弥生人とは(中国語的アクセントを持った)縄文語の方言を話す縄文人のことで、
その弥生方言がヤマトに入り、影響力のある支配的言語になって広まっていった。
縄文語は、1万年にわたる期間で列島内でいくつかの方言に分かれていた。』
ということだった。
人は、新しい文化を受け入れ、生活様式を変えてしまうと、その環境に適応して体格や骨相までも変化していく。
言葉も新しい単語が流入するが、言語の「体系」は変化しない。
縄文晩期は文化は進んでいた。
無いのは「 米と鉄だけ 」と云われていた。
これは、江戸末期の西洋文明が流入する前夜の爛熟した社会に似ている。
後世の歴史家が、江戸末期の日本社会と、その200年後の現在の社会を比較して、
列島全土に西洋文明による道路網・鉄道網が敷設され、住居も変化し、平均的身長も異なり、体格骨相も変化している。
これは、夥しい数の西洋人が列島に移住して、「 江戸人は西欧人に取って代わられた
」、といったら笑うだろうか?
(※ 両者の身長差は、縄文→弥生 より 江戸→平成 の方は大きい)
西欧化には、夥しい数の西洋人が入ってくる必要があるのだろうか?
弥生化には夥しい渡来人が入ってくる必要があるのだろうか?
新しい技術・文化を携えた夥しい数の人々が移り住まなければ、そのような変化は生じない、と考えるのが誤りなのは明白。
土着の文化が爛熟しているのなら、多数の人の移住は不必要。
江戸末期も縄文末期も 同じような変化が生じた。
言語学から見た弥生人渡来説の結論は、
大陸が戦乱で混乱していた時期に、中国語系の発音を持つ人々が、難民として、断続的に九州北部・山口に渡来した。
それらの人々は、現地の縄文語を学習し話すようになったが、アクセントが異なるというナマリがあり、
それが縄文語の弥生方言になった。
そして、後にその方言が大和で話されるようになり、近畿地域で話されるようになり普及した。
現在の関西弁がこの縄文語の弥生方言の末裔。
裏日本で話されていた縄文語は、出雲と東北のずーずー弁として縄文以来話され、現在に至っている。
九州縄文語から分かれた琉球縄文語は、渡来人の移住といった影響を受けず、そのまま現在も現地の縄文人に話されている。
多賀城から北の地方は、歴史書にも大量の移住による開拓といった記述がないので、それ以前の縄文時代のまま現在に至っている、と。
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言語学から解明した縄文語について書かれたのは、「縄文語の発見」小泉保 青土社
著者は言語学者で、今から20年程前に 日本語の起源に関する白熱した論議があった時に、
日本語の系統に関する諸説を論評してくれ と依頼された。
当時著者は日本語の来歴についての自説はなく、客観的に批評できると引き受けたが、調べるうちに独自の見解に辿り着いた。
彼は、言語は民族のもっとも有力な証拠であり、肉体上の特徴ではなく、言語の中に日本人の本質が隠されている、と。
そして、日本語の祖語についての言語系統説をチェックし始める。
二つの言語の間に「規則的な音声の対応」が見出せれば 両者は親族関係にあることが認定される。
例えば、インド・ヨーロッパ基語が同祖となっているという判定がある。
日本語について、北回りで、琉球、朝鮮、モンゴル、ツングース、アルタイ語が親族関係にあるかをチェックする。
・琉球語は日本語との規則的音声対応が見出せる唯一の言葉
・朝鮮語は、規則的音声対応がなく、ヨーロッパ語圏で一番遠いい関係の言語間より更に遠いい関係で親族関係はない。
・モンゴル語 も親族関係にない
・ツングース語、ウラル語、アルタイ語 らも親族関係にない
次に、南回りでチェックする。
・太平洋、インド洋にかけて散在する島々で話される言語には互いに音声対応が認められている
インドネシア系のマライ語、メラネシア系のフィジー語、ポリネシア系のサモア語、
ミクロネシア系のトラック諸島語は、同族関係下にある。
→著者が調べた各説では、日本語のなかから、これら南東諸島が起源と思われる日本語を色々と挙げているが、
類似語彙を挙げても 音声対応の規則性が証明されていない。従って 親族関係にはない。
・タミル語 インド亜大陸の先頭部をドラビダ族が占拠しているが、その中のタミル語が日本語と類似していると云われている。
・藤原明「日本語はどこから来たか」で、ドラビダ族が東進して中国江南の地に至り、
紀元前473年に稲作技術を携えて北九州に上陸し、原住民に同化した。
紀元前473年は呉越の戦いで越が呉を滅ぼしている。
このとき越の重臣ハンレイは財産をまとめて一族郎党とともに海に出た。 →しかし、越人がドラビダ人という記録は無い。
・大野晋「日本語とタミル語」は、原タミル語を話す民族が縄文中期にヒエ・アワの雑穀文化を列島に持ち込んだ、
としている。
→タミル語については、複合対応の説明が弱く、文法の違いの説明が弱く、同系と認定は出来ない。
・チベット・ビルマ語 親族関係にない
⇒ 著者は、以上 同祖論を見てきたが、何処の言語も規則的な音声変化で日本語と同系とは証明されないい
次に重層説を検討する。
A 二重層説
以前から列島で話されていたXが基層で、後から異種のYがら来入して上層となった。
南方語の上に北方語が重なった
北方語の上に南方語が重なった
B 多重説
古極東語、インドネシア・カンボジア語、ビルマ系語、中国語が合わさった
【 結論 】 琉球語と日本語の間以外は、規則的な音声対応が成立する言語は発見されなかった。
琉球語以外の言語は、どこか似ているだけで 同系ではなかった。
C 国内形成論
従って、列島外に日本語の祖語を探す試みは失敗した。
もともと、縄文時代の1万年を越える長い年月で日本語は成立したのでは、と、日本語の方言から祖語を探す試みを行った。
小泉保は、
「九州北部に上陸した渡来人の言語がわずか数百年にして、北は津軽の岬から南は八重山群島の先まで波及し、
先住の縄文人の言語に入れ替わったという憶説は信じがたい。
しかも、渡来人の数はそれほど多くないという。
彼らの原郷も定かでなく、その故郷で語られていたはずの同系言語の姿は、大陸のいずこにも残されていない。
もし跡形もなく消え去ったとしても二千年前のことである。
〜略〜
その人たちの言語が、二千年ほど前に外来者によって突如一変させられたとは到底考えられない。
今もなお北の果や南の端で語られている言葉が 縄文時代から言い伝えられたものであると思うのが、
自然の理に適っているのではないだろうか。」
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次に 日本人の形質についての説の紹介
・埴原和郎氏のシナリオ
「原アジア人は三万年以上前からスンダランド(タイとインドネシア間の地表に出ていた現在の大陸棚)に住んでいたが、
人口が増加するにつれて移動し始めた。
彼らはまず陸伝いに、北へのルートをとり、氷河期が終わる頃(約1万2000年前)には揚子江の北にまで進出しただろう。
このような移動の波は日本列島にも及び、彼らの子孫が縄文人となり、ひいては現代の日本人の土台を作ったのだろう」 アジア原人の北上説
「スンダランドから二万年以上前に中国大陸へ渡った集団はマンモスを追いながら北上し、バイカル湖付近での酷寒を耐え抜いてこれに適合した体質を獲得した。
この集団は北方モンゴロイドと呼ばれている。ツングース、蒙古、中国、朝鮮と南下してきたと考えられている。
一方、スンダランドに停留していたか、そこから直接北へ向かった集団を南方モンゴロイドと呼ばれている。
インド、ビルマ、中国江南と。
日本列島に早期に移り住んだ集団は南方モンゴロイドで、渡来系集団は北方モンゴロイド出身と考えられる。
→縄文人は スンダランドにいた原アジア人が、列島に辿り着き そのまま2万年以上現在に至るまで
激しい民族の来襲を経験せず、比較的平穏に住み続けた稀有な民族ではないか? が私の感想。
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「縄文語の発見」を読んでの まとめ
読む前→
・現代人は渡来系弥生人の子孫であり、縄文人は弥生人に同化して消えた。
・現代の日本語は、渡来人が話していた言葉であり、縄文人の話していた言葉ではない。
・日本書紀・古事記に登場する人々は、弥生人であり、縄文人には関係ない。
・倭人とは弥生人のことである。
これが このようになる。→
・現代人は縄文人の子孫であり、渡来人は少数(難民)であり 縄文人に同化して消えた。
・渡来人は、縄文語を習得して、なまりのある縄文方言(弥生方言)を話していた。
そして、その渡来人の縄文語(弥生方言)が、縄文語に大きな影響を与えた。
現在も縄文語が使われている。
・日本書紀・古事記に登場する人々は、出雲の縄文人と 大和に入った渡来なまりの縄文人が中心。
縄文文化 と 弥生文化 との違いはわかる。
しかし、その担い手を 縄文人、弥生人と区別すると、違う民族のようになってしまう。
従来の骨の分析に加えて、言語による分析は新鮮なアプローチである。
2014年10月10日 追加 10月13日