金印についてのメモ




2018年1月
『シンポジウム「漢委奴国王」金印を語る 〜真贋論争公開討論〜 』(福岡市博物館主催)  が行われてニュースになった。


 
金印には、江戸時代に作られたニセモノ説がある。
私には、「本物か、または 本物のコピーか?」 という論争にしか思えず、重要視していない。

つまり、江戸時代に細石神社にあった本物の金印を、誰かが盗み出してコピーし、そのコピーを志賀島に埋めた可能性がある。
そして本物は今 誰かが所有している。 ということだ。


(※金印の真贋については、 『「漢委奴国王」金印・誕生時空論 』 (鈴木勉) が技術観点から検証していて興味深かった。)



金印は、次の三つが よく比較検討される。
@AD57年の 漢委奴国王 (1784年出土: 後漢の初代皇帝・光武帝が下賜)  
AAD58年の 廣陵王爾 (1981年江蘇省出土: 光武帝が9子に下賜) 
BBC109年の滇王(テン王)之印 (1956年雲南省出土: 前漢・武帝が征服し属国にして下賜)


@漢委奴国王印と、A廣陵王爾印は、同時代で(皇帝が所有する)同じ工房でつくられた、という説がある。

 @漢委奴国王           A廣陵王爾        B滇王(テン王)之印




漢時代は、皇帝が諸侯に与えるものが「金印」で、周辺異民族の王には「銅印」が多かった。
後漢が匈奴王に下賜した 「漢匈奴悪適尸逐王」 印は、銅印だった。(つまみは駱駝の形)

例外が、@AD57年の「漢委奴国王」と、BBC109年 雲南の「滇王之印」の二つの金印。
倭の奴国王は、何故か 諸侯並みに遇されている。
他方、滇王(テン王)印は、紀元前109年に前漢の武帝の時に属国になり、下賜されたもの。


金印のつまみ(鈕)には動物の形が用いられる。

皇帝は、の鈕(の玉璽)で、臣下はの鈕。 亀は、亀卜(きぼく)に象徴される霊力のあるものと考えられていた。
A廣陵王爾は、亀のつまみ。

周辺民族は、北方系・西方系にはラクダ、馬、羊、南方系には、と云われている。
確かに雲南省の「滇王之印」金印、海南省「朱廬執刲」銀印、海南島対岸の「労邑執刲」琥珀印は 蛇鈕。
一方 東方の「漢委奴国王」のつまみは、とぐろを巻いて上を見てる蛇の形だ。何故、蛇なのだろう?

蛇は水田稲作民族のシンボル説もあるが、蛇は世界中にシンボル化の例がある。
縄文人は、月とその使者の蛇を、死と再生のシンボルとして祀っていた、というネリー・ナウマンの説が興味深い。
1万年にも及ぶ縄文列島のシンボルの伝承・情報が大陸にもたらされていたのだろうか?

現代、蛇をシンボルとして有名なのは「WHO(世界保健機構)」だろう。

ギリシャのアスクレピオスの杖を使っている。



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その後、魏の時代になると金印は周辺諸国にも与えられるようになる。
 
 チベット系の氐族(テイ族)首領に下賜された「魏帰義氐侯」 の金印(駱駝鈕)が出土してる。

西晋(魏晉)朝(265年 - 316年)では、
ベトナムのタインホア省で1936年に 「晉帰義叟王」 の金印 が発見されている。
蛇鈕でなく、駱駝鈕だ。


しかし、「親魏〇〇王」の呼称では、AD239年の卑弥呼「親魏倭王」の称号・金印紫綬 と、AD229年に西域の「親魏大月氏王」だけ。
周辺異民族の王のなかで、倭王は何故か厚遇されている。

卑弥呼の「親魏倭王」金印のときは、使節大使・難升米は「魏率善中郎将」の銀印。 使節次使・都市牛利は「魏率善校尉」の銀印を受けている。
(難升米は中臣氏の梨迹臣。 都市牛利は海部氏の武諸隅、と「古代史の復元」は推定している。)

古代の東アジアでは、列島は漢・魏により 中国の両サイドにある辺境の大国の一つに位置付けられている。
倭国は、何故 このように特別に厚遇されたのだろうか?

その時々の政治情勢が大きいのは当然だが、辺境の国ながら、そこからの朝貢が吉兆・瑞兆とみなされる背景があった、と考える。
東方海上の「扶桑樹と蓬莱山」の国、そこに住まう人々は長命 − 徐福(BC219年出航)、始皇帝(BC210年没)が信じたイメージと合わさっていたのかも。
しかも、女王が統治していたなら 尚更特別だったかもしれない。

列島は単なる辺境では無く、(縄文人の大陸交易で)古くから存在が知られていた 好印象の知名度のある辺境だからであろう。


<卑弥呼が賜った「親魏倭王」の金印は、今 何処にあるのだろう?>
 卑弥呼没後、纏向の宮殿は解体された。 金印は、箸墓古墳(249年築造)に卑弥呼と共に眠っている可能性が高い。
 台与が西晋貢献(266年)時に金印を返上した、との説もあるが、金印は既に墓の中なのであり得ない。






時代は下り、遣隋使(607年)が皇帝煬帝に宛てた国書では、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」と書き出してる。
煬帝は吃驚したハズだ。 「天子」は、中国解釈では世界に自分一人しか居ないのだから。
倭国は、独立国で冊封外なので堂々と天子を使用したのだろう。

中国からの返事の国書では、自国は「皇帝」で、倭国は「倭皇」と書いている。
それに対する返書では「東の天皇が敬いて西の皇帝に」と書いて、自国は「天皇」で相手国は「皇帝」となってる。


唐時代、中国の冊封体制下の統一新羅は、天子・皇帝はおらず、単なる「王」で、天を祀る天壇の造営も禁じられていた。
時代は下り現在は、天皇の呼称は英語圏では「エンペラー」。中国・台湾の漢字圏は「天皇」。
唯一韓国のマスメディアだけは「天皇」でなく「日王」を使っていて、この国の歴史に対する異様さを表しており、
しょせん 蟹は己の甲羅に似せてしか穴を掘れない、という諺を想起してしまう。


                                     (2018年2月1日)



※※ 参 考 ※※  金印を受けた「倭の奴国」は通説とは異なり、九州南部の日向である

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