※焼きもの のことを沖縄では 「やちむん」 といいます。
沖縄は焼きものの盛んな土地です。
特に、読谷村には多くの陶工が窯を構えています。
ここ、「やちむんの里」では、人里離れた緑の自然の中に、赤瓦の作業所がここかしこにあり、共同の登り窯もあり、多くの陶工が働いてます。
この地に足を踏み入れると、時間の流れがゆったりしていることに気付かされます。
やちむんの里を入っていくと、開けた場所に出ます。そこで九室連房の登り窯「共同窯」に出会います。
あけっぴろげな場所に、どか〜んと建っているので、なんか嬉しくなります。
この窯で焼いたのが「読谷山焼」です。
赤瓦の登り窯を下から |
下に見える小屋は薪小屋、そのすぐ後ろの三角屋根は売店 |
この登り窯は中堅の陶芸家4人が共同使用しています。大嶺寶清、山田真萬、玉元輝政、金城明光さん達です。
玉元さんの作品は造形がしっかりしていて使いよいです。
平成11年春に、二枚貝をイメージした花器の個展を開いたので見に行きました。
もみ殻で表面の燃焼を調節し、グラデーションを出した。と話してくれました。
山田真萬さんはお宅の居間でお話を伺ったことがあります。
若いとき益子に修行に行ったそうですが冬の寒さにはまいったそうです。
鮮やかな赤絵は、沖縄の強烈な太陽のもとの色彩で、独特のものです。(タイトル写真の左端の七寸絵皿)
皆、それぞれ独立した大きな工房をもっています。
↑(上)各人の工房 ←(下左)売店 共同窯で焼かれた作品はこの売店で購入出来ます。 誕生した場所で求めると愛着が増します |
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沖縄で一番有名で親しまれている陶芸家は金城次郎さんです。沖縄初の人間国宝です。
次郎さんは若いときから名人といわれていました。
でも、この名人というのは、同じ作業時間内に人より沢山陶器が作れて、不揃いがなく、陶土を無駄にしない、ということでした。
そのため、独立する前には、新垣栄三郎さんの工房から 沖縄の陶芸は美術品や茶道具ではなく、日常使う器が主体でした。 ← 八寸重ね皿の中心の魚は笑っている |
次郎さんは平成10年に窯を閉じてしまったため、作品は急に高騰し、退蔵され少なくなってしまいました。
(※注1)
今では壷屋よりも、国際通りの蔡温橋のたもとの小さなお店に多くあります。
(※注2)
眺めているだけで眼福、眼福です。
私は海老魚紋と笑う魚の紋様が大好きです。まさに、沖縄。です。
やちむんの里には、「次郎窯」を中心に、次郎さん一門の製陶所もいくつかあります。
敏男さんの工房 |
長男の金城敏男、次男の金城敏昭、 長女の宮城須美子・息子の宮城三成、 甥の金城敏幸さん達です。 一門の作品は、次郎さん譲りでありながら各人独特の 工夫をこらした魚の紋様が特徴です。 敏昭さんの作品→ |
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さて、共同窯から下ったところに 北窯 があります。 読谷山焼北窯 です。
若い陶工4人が共同でやっており、私の好きな窯です。
作業場もL字型の長屋になっています。
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宮城正享、與那原正守さんに、松田米司、松田共司の双子の兄弟達の窯場です。
ここの13か14室連房の巨大な登り窯には目を見はらせられます。
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平成12年6月20日。 この日は2ヶ月に一度の北窯の「窯出し」の日でした。
壷屋の新垣製陶所の新垣紀美江さんからこの日を教わり行ってきました。
房入口のレンガが取り崩されて、焼きものが取出されていました。
松田米司さんの作業場には次々に作品が運び込まれ、 並べられていました。
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やちむんの里の出入り口近くの国道58号には、読谷村全体の陶器 の読谷村共同販売センターがあります。
作家別に焼きものが陳列されています。 |
※注1: 金城次郎さんは2004年12月に亡くなられました。92歳でした。
※注2: 蔡温橋のたもとにあった平良さんのお店は、橋の改修工事により2005年6月に訪れた時にはなくなってました。
次郎さんの作品がいっぱいあったお店にはよく通い、おばあとのんびり雑談をしたものでした。
前年2004年9月に訪れたときに、移転しないで閉店すると聞き、 |
ホームページに戻る 2001.2.3了/ 宇田川 東