グレン・セント・メアリの王
庭仕事用のエプロンを被ったまま、炉辺荘のテラスに据えられているテーブルでなにやら書き付けている夫人の姿がブライス医師の目にとまる。往診に携えていたバッグを担ぎなおした医師は結婚した当時から変わらない夫人の姿をしばらく満足げに眺めると、ペン先が止まるのを待ってから何を書いているのだい、と控えめに声をかけた。妻がペンを滑らせているあいだ、決してそれを妨げないことは結婚する以前からの彼のひそやかな決まりごとだった。
鼻歌で奏でていた春庭の曲を遮られて、夫の帰宅にようやく気がついた妻は視線を上げると嬉しそうな慌てたような顔になる。白木のテーブルにペンを置くと、ノートを開いたままインク壷の蓋を閉めるのも忘れて椅子から立ち上がった。
「おおギルバート、お帰りなさい。ごめんなさいね。私ったらすっかり夢中になっていたらしいわ」
「構わないさ。君が庭仕事よりも夢中になれることなんて、せいぜい両手の指の数くらいしかないのだからね」
冗談めかして言う医師に、ブライス夫人は気を悪くしたふりをしてみせる。庭を抜ける風が肌に心地よく、わざとらしく頬をふくらませてもう一度白木の椅子に腰を下ろした夫人は、インク壺の蓋をことさらていねいにしめると灰色の瞳を悪戯気に光らせた。その日、夫人が予定をしていたゼラニウムの植え替えはとうに終わっていたし、移植ごてや桶も納戸にしまい終わっていたから、あとはエプロンを着かえて夫のお茶の用意をするよりも夢中になれることなんてそれこそ両手の指の数よりも多くあるに違いない。夫人の言葉にブライス医師は笑いながら両手を広げると、夫の降伏を受け入れた夫人は身軽に立ち上がって二人分のお茶を炒れるべく炉辺荘の戸口に消えていく。その後ろ姿をしばらく目で追ってから、ブライス医師は手近な椅子の上に荷物を置くと開いたままの書き付けに目を移した。
なめらかな字で綴られていたのは、ブライス家の子供たちが軽やかな足取りで庭先を歩きながら口ずさんでいたらしい、歌声を書きとめた言葉だった。小さな断片はまだ詩でもなく物語にもなっていない、ありのままの言葉で描かれていてブライス医師は彼の子供たちの姿や表情まで思い浮かべることができる。それは愛情による産物で、どんな知識も文才も及ばない描写であることを彼は知っていた。快い声がブライス医師の耳に届く。
「神は天にいまし。すべて世はこともないようよ、ギルバート」
てきぱきとエプロンを着替えて、鮮やかな青い唐製のポットを運んできたブライス夫人は夫の様子を見て顔を和らげる。子供たちの姿を浮かべているのであろう、書き付けに残されている言葉への夫の評価が好意的なものであることはその楽しげな表情を見るだけで充分に理解できた。炉辺荘の子供が詩人の魂を持っていることを夫人と医師は知っていて、ブライス家に仕えているスーザンであれば子供というものは詩や物語にうつつをぬかすよりももっと立派なことを考えなければいけないというだろうが、立派なことは大人とスーザン・ベーカーが考えればそれでよいことなのだ。カップから立ちのぼる芳香を鼻先にくすぐらせると、ブライス医師は顔を上げる。
「薔薇の香りだね。ノーマン・ダグラスが牧師館のフェイスをレッド・ローズに例えたことは知っているかな」
「ええ、ノーマンは『ヨセフを知る一族』ですもの。それにウォルターに言わせれば、フェイス・メレディスにはグレンの夏草に誇らしく咲く薔薇の王座こそふさわしいそうよ」
書き付けに視線を落として、ウォルター・ブライスの言葉の一片に医師と夫人は感心してみせる。
「王の野心は葬列が迎えたが、女王の魂には生命が満ちている、か。ウォルターは本当にいくつもの言葉を持っているね」
「私が幼いころに書いた詩や物語はどれも恥ずかしくて見せられたものではないわ。でも、ウォルターの言葉は何世代の時を経ても人の心を振るわせることができる作品になるのでしょうね」
グレン・セント・メアリ村の柔らかい日差しが早咲きの花弁を照らしている。それは子供の才能を親が過大に評価しているのかもしれないし、自分の文才を悲嘆したぼやきが入っているのかもしれない。夫人の嘆きを聞いたブライス医師は彼の記憶から失われたことがない、若い当時からの妻の作品を脳裏に描くともっともらしく腕を組んでから論評してみせた。
「僕に言わせれば、君の作品も充分に人の心を振るわせることができるものだよ。そう、十篇に一つくらいはね」
夫の正直な評価に、夫人は大げさに息をついてみせる。
「では、あとの九つは心を振るわせるに足る作品ではないということね」
「そうではない。あとの九つはあまり愛情にあふれていて、僕以外の者に見せるなんてもったいないのだ」
‡ ‡ ‡
ウォルターの黒い瞳が彼の目の前にある虹の谷ではなく、遠く海のはるかに差し込んでいる金色の天蓋を映していることをフェイス・メレディスは知っていた。ウォルター・ブライスはグレン・セント・メアリ村でも風変りな少年だと思われていて、彼の灰色の瞳だけが見ることのできる世界にいつも惹きつけられている。
「見たまえ、黄金の冠が僕らを照らしているよ。あすこの下にはかつて王が眠っていたが、今は金色の翼をもつ天使がおわして皆を導いている。その昔、神様が訪れる以前の世界では誇り高い王が兵士に迎えられたけれど、今では人々が祈りを捧げるようになった。時を経て人や国は変わったかもしれない。だがあの輝きが変わることは決してなかったのだ。何千年も、何千年もね」
谷を渡る風が銀の鈴の音をちりりと鳴らすと、語られる言葉の後ろから楽隊の音が聞こえてくるかのように思える。ウォルターはいつでも詩や物語にばかり心をとらわれていて、グレン村の子供たちは彼を臆病な弱虫だと考えていたが、彼の血と魂が誰よりも熱く勇敢であることもフェイスは知っていた。少なくともウォルターは彼が知らないものや見えないものを語っているのではなく、勇壮な兵士と軍団の姿はともにウォルター・ブライスの中にあるものなのだ。フェイスは牧師館の娘だったし争いのすべてを認めてはいないけれど、彼が捧げる祈りは誰よりも敬虔で、軍団の詩は誰よりも勇ましいと思っている。なんてロマンチックなのかしらと、翼と剣を持つ黒髪の少年を浮かべたフェイスの脳裏に無粋な声ががなり立てられた。
「あんまり王様とか兵士とか言うもんじゃないよ。そんなだからスーザン・ベーカーがあんたに肝油を飲ませようとするんだよ」
メアリ・ヴァンスの言葉に黒髪の天使が苦笑して唇を閉ざしてしまうと、フェイスは心から腹立たしい気分になる。メアリもウォルターの話は好きだったが、軍隊とか兵士とか、彼がときどき披露する恐ろしい話は大嫌いだった。だが嫌いだからといってメアリなんかがフェイスの気分を害してよい理由はない。
「メアリこそ人の邪魔をするものではないわ。そんなではミス・コーネリアがあんたのドーナッツを取り上げちまうわよ」
フェイスに言われて、メアリは不機嫌な顔になるとエリオットのおばさんがそんなことをするもんかねと言ってから、あたいだってウォルターのお話は大好きだけど、軍団とか兵隊の話を聞くとなんだかあたいの大切なものがみんな持っていかれちまいそうで怖いんだよと正直に告白する。遠慮のないメアリは虹の谷や牧師館の子供たちに嫌われることも多かったが、この時はナンやユナといった女の子たちもメアリの意見を支持していた。もちろん誰が賛同しても反対しても、それでフェイス・メレディスの頬から赤い薔薇のような火が消えるはずもない。
風に乗って虹の谷を抜けて行く、フェイスの声は透明な水を泳ぐヒメマスのように鮮やかで耳に快い。ウォルターのお話はどれも間違いなくすてきなもので、確かに教会で聞いた教えとはほんの少しだけ違う言葉を使うことがあるかもしれないが、彼だって毎週教会に通っているし子供たちの誰よりも美しい祈りを捧げることができるのだ。エリオット夫人に教理問答のテクストを教わっているメアリだって、ウォルターよりうまい祈りを捧げることはできないではないか。フェイスが信じるものを守ろうとするとき、彼女はオルレアンの乙女のように真摯で勇敢な姿を見せる。
「お祈りだって心から捧げられたときにはすばらしい祈りになるのだから、怖いからといってすてきなお話が否定されるべきではないわ」
「あら、あたしたちはいつだって心からお祈りを捧げないといけないのよ」
妹のユナにたしなめられるが、もちろんフェイスだってお祈りは心から捧げられるべきだと思っている。以前、祈祷会の日に墓地で開いた音楽会は楽しかったし、ポリー・ウォリー・ドゥードゥルを大声で歌ったのは痛快だったがきっとそれは心からの楽しさとは違うものなのだ。娘たちの話を聞いていた、年長のジェム・ブライスが重々しく口を開く。
「いや、君たちはどちらも正しい。祈りや歌が心を生み出すのではなく、心から捧げられた言葉が本当の祈りや歌になる、まったくその通りなのだ」
ジェムの言葉は娘たちをとりなそうとしたものではなく、嘘がなかったからフェイスもメアリもうなずいてしまう。だがフェイスの意見が正しくてもメアリは怖い話を聞きたくなかったし、メアリが嫌がってもフェイスは勇敢な話を聞きたいとは思ったから、ならば今度は僕が歌を披露しようではないかとジェムが言うと控えめだが力強い声が虹の谷を流れ抜けた。
おお、おお、僕らは来た!
火と水と雪の島から来た! 夜に日が昇る土地から来た。
おお、おお、ハンマーを握れ!
歌い、泣き、戦うために! 僕らの船を進ませよう。
おお、おお、オールを磨け!
祈り、漕ぎ、進むために! 西の岸辺を漕ぎ目指そう。
ジェムが披露したのは生活手帳を執筆したオーエン・フォードがジム船長から聞いた船唄で、彼が物心ついたときから何度も口ずさんでいた歌はグレン村の誰もがそれを聞いただけでジェム・ブライスだと分かる。ジェイムズ・ボイド船長がジェムの魂を借りて奏でている歌にはただ心を傾けるしかないと、ウォルターも目を閉じると勇敢なヴァイキングを乗せた船乗りたちの航海に思いを馳せることにした。ロングシップの甲板に座り、勇ましい歌声に合わせて櫂を握る戦士たち。いつか、ジェムやウォルターも船を漕ぎ進ませながら、彼らが残していく者たちを置いて新しい大陸を目指すことになるのだろう。
メアリはこの歌も遠くへ行く友人たちを見送らなければならないようでどこか寂しく思えたが、ウォルターの詩ほど怖くはないからぶつぶつ言いながら素直に耳を傾けることにした。ナンやダイはいかにもジェムらしいと言葉を交わしていたが、フェイスは他の娘たちとは違って自分もジェムやジム船長のようにこのような歌を歌ってみたいと思っている。
「本当に勇ましい歌ね。こんな歌を聞けば誰だって船を漕ぎ出したくなるのではないかしら」
「どうだろうね、あたいはそうは思わないよ」
メアリがまぜかえすがフェイスは気にしない。彼女はウォルターやジェムが歌う勇敢な歌に耳を傾けたいのではなく、彼らのような勇敢な歌を彼女も歌ってみたいのだ。フェイス・メレディスには歩いて紅海を渡る奇跡は起こせないが、大海原でロングシップの舳先に足をかけて水面を割って進むのはさぞかし痛快なことだろう!
‡ ‡ ‡
その日、牧師館の軒先でカナリアの奏でる歌を聞いていたフェイスの目に、いっぱいの籠やら荷物やらを担いだメアリの姿が入ってくる。
「ディットーばかりで気の毒なメレディス家の食卓に差し入れだよ」
開口一番、そういったメアリは軒先にマーサおばさんの姿が見えないことを確かめてから、どうせあんたらはまともなもんを食べてないだろうから、あたいとエリオットのおばさんでいろいろこさえてきたよと担いできた荷を下ろす。籠の中には大きな干し鱈のパイやたっぷりのバターが練り込まれたパンが包まれていて、リラを追いかけまわしたときよりももっと大きな干し鱈が手に入ったんで、あたいもエリオットのおばさんもつい作りすぎちまったのさとメアリは笑ってみせた。牧師館を切り盛りしているマーサおばさんは目が不自由な上にけちだったから、焼いたパンですら固くて呑み込むのに苦労するほどだった。これでしばらくは冷えたディットーとパンだけの食事をしないですむと、感謝したフェイスは友人の手をとって大げさに目を輝かせる。
「おおメアリ・ヴァンス!今日はあんたが天使に見えるわ」
これも牧師館の娘が言うには問題のある発言かもしれないが、よほど天使みたいな外見をしたフェイスに言われて悪い気はしないから顔を赤らめたメアリも口うるさくは言わなかった。メアリは自分がみっともない娘だと思っていたし、それ以上にフェイスを美しい娘だと思っていたがそんなことを口にするわけにはいかないものだ。
軒下の籠でさえずっている金色の小鳥を見上げる。フェイスが大事にしていた雄鶏のアダムがペリー牧師にふるまわれるために首を切られてしまい、あまり悲しんでいた彼女にローズマリー・ウエストが贈ったものだ。誇り高く美しい声に、フェイスもメアリも軒下の籠に目を向ける。ローズマリー・ウエストは親切で話が分かる女性だったから、マーサおばさんではなくあの人が牧師館で暮らせばよいのにとフェイスがいうとメアリもそれはいい考えだと腕を組んでみせた。
「ユナはあの人を怖がっているみたいだけど、とても理解できないわ」
「どうしてだろうね、あたいもあの人には何べんか会ったことがあるよ。ウエストさんは牧師先生とも話が合いそうだし、もしも継母になってくれたらあんたらの靴下を穴があいたままにすることも、あのディットーをテーブルに並べることもしないだろうにさ」
ユナがローズマリー・ウエストを怖がっている理由は、あんな親切な人でも継母になったら変わっちまうもんだよとメアリにおどかされたせいなのだが当人はそのことをすっかり忘れているらしい。裏表がないのはいいが思ったことを口にしすぎる、とはメアリが彼女を引き取ったエリオット夫人にたびたび説教されていることだった。頭の上から高い鳴き声が聞こえると、自分の話に賛同してもらえたような気になったメアリは、アダムは気の毒だったがこの子は本当に立派な声で鳴くねとフェイスに向き直る。
「あら。この子は確かにいい声で鳴くけど、アダムも決して劣ってはいなかったわ」
「確かにアダムはちっとばかし尻尾が短かったけど、雄鶏なんて気が強いのをよく飼いならしていたもんだね」
「私とアダムは固い友情で結ばれていたのよ。飼いならしてなんかいないわ」
余計なひとことが多いのはメアリの欠点だが、彼女が前に牧師館を訪れたときはまだアダムがいて、ひとつかみの燕麦を手のひらから食べたこともあったし、今も指先に乗せた麦粒を籠の中のカナリアに差し出していた。実際、畑仕事にも家畜にも慣れていたメアリはアダムにつつかれれるようなへまはしなかったし、ダイやナンはあんなにおそるおそる手を伸ばすからつつかれるんだよという言葉にはフェイスも同感だったがそれとアダムとの友情は別である。ひよこの頃からアダムは幼いフェイスの友人で、彼女が呼べば喜んで飛んできたしいつでも後をついてこようとしたから日曜日の礼拝に紛れ込んで騒ぎになったこともある。
「そうだね、鶏があれだけなつくのは家族と同じ相手にだけだからね」
「メアリ・ヴァンス、あんたはときどきそうやって正しいことを言ってくれるわ。ジェムだってアダムにつつかれた手をさすりながら、犬のマンディが自分に忠誠を誓っているようにアダムがあたしに忠誠を誓っていることを認めてくれたもの」
ときどきは余計だよと今度はメアリが抗議しながら、確かにジェムは道理をよくわかっている奴だと認めてくれる。自分が好きなものを他人に認めてもらえることはフェイスにとって何よりも誇らしいことだった。軒下にかかる影を見て、思い出したようにメアリが口を大きく開ける。
「いけない、ちっと長話をしちまったよ」
メアリはフェイスの目の前で大げさに手のひらを合わせると、牧師館まで担いできた籠を下ろしてからあたいの代わりにこいつを炉辺荘まで持って行ってくれないかと頭を下げた。牧師館から炉辺荘までそれほど離れてはいないのだし、虹の谷の近くを通るのだから自分で行けばいいのにとフェイスは思う。メアリは少しだけ声を落として、内緒にしといて欲しいんだけどというと今月は彼女を引き取ってくれたエリオット夫人の誕生月なんでこっそり港まで何か買いに行きたいんだと懇願する。港向こうで毎日ぶたれるような暮らしをしてきたメアリには、小遣いをもらったのさえ生まれてはじめてだから何としてもおばさんのために使いたかった。メアリはおせっかいで口が悪くて面倒なところもたくさんあるが、正直だったからフェイスも正直に彼女を評価していた。
「分かったわ。それじゃあ籠ごと渡してくるから、返してもらうのは自分でお願いするわね」
「本当に感謝するよ!お礼にあたいがこさえたとっておきのパイをあげようかね」
心からありがたいという顔になると、そのために用意していたらしい小さな包みをフェイスに手渡す。少しだけ開くといかにも甘ずっぱいにおいがして、思わずごくりとのどを鳴らしてしまった。
「ブライス夫人にもらったコケモモのジャムをたっぷり使ったパイさ、こんなに使ったことが知れたらおばさんに叱られること間違いなしの逸品だよ。なにしろあたいの野望はスーザン・ベーカーよりもメアリ・ヴァンスのパイがうまいって皆に言わせることなのさ!」
‡ ‡ ‡
メアリ・ヴァンスに預かった籠を携えて、牧師館から炉辺荘に向かう坂道でジェム・ブライスを見かけたフェイスは思わず息を弾ませた。パイの包みやジャムの瓶が入った籠は決して重くはなかったが、なにしろかさばったからこれを抱えたままでは友人に手を振ることもできそうにない。メアリはよくも器用に担いでいたものだと感心しながら、偶然と幸運に感謝しつつジェムに救いの手を求める。
「おおジェム・ブライス。グレン・セント・メアリに紳士がいたことは世の幸いよ」
「それは光栄です、お嬢様」
笑いを堪えながら、大きな籠を受け取ったジェムはわざとらしく頭を低くして手のひらを差し出してみせる。ジェムの冗談に気がついたフェイスも差し出された手をとって、道脇にある柵まで歩くと服の裾をつまんでみせた。坂道をすべりおりてくる風が少しだけ汗ばんだ肌に心地よい。
「でも本当に有難う。これで炉辺荘まで歩いていたらけっこうたいへんだったわ」
冗談は冗談として、感謝すれば頭を下げるのがいかにもフェイスらしい。背の高いジェムはメアリの籠を担いでも邪魔になる素振りもなく、そのまま柵にもたれかかるとフェイスも半身を翻した。メアリ・ヴァンスとエリオット夫人からの差し入れを、炉辺荘に持っていくところだったのよと視線を上げる。
「まるで王様みたいに大きな鱈だったのですって。パイにされる前に、是非泳いでいるところを見たかったものだわ」
大げさな言葉と身振りで説明するフェイスの姿に笑ったジェムは、王様といえば魚の王様の話を知っているかねと指を立てる。メレディス家が牧師館に来る少し前、赤く長い衣をまとう魚の王様がフォア・ウィンズの港に打ち上げられたことがある。フェイスはその話を聞いたときに、どうして自分はもうひと月早くグレン・セント・メアリを訪れなかったのかと心から後悔したものだ。
「お目にかかれずに残念ね。でも王様がフォア・ウィンズを訪れたとはなんてすばらしいのでしょう」
「ああ、だけど魚の王には悲しい話もあるのだよ」
その魚はいくつもの海で見つかったことがあるが、生きている王を見た者はひとりもいない。おそらく海の深くにある魚たちの王国に彼らは暮らしていて、傷つき追放された王が流れ着いてくるのだろう。ジェムの言葉はジェイムズ・ボイド船長の生活手帳に記されていたものだが、それを読んだジェムは足しげく島の記録やうわさを訪れると彼の日記に書き足していた。ジム船長はジェムが生まれる前に亡くなったが、父と母以外で僕が心から尊敬している人なのだと自分のことのように誇らしく話す。ジェムの背中から差し込んでくるやわらかい日差しに、少しだけフェイスは目を細めた。
ジェム・ブライスは本当にものをよく知っているだけではなく、その気になればカナダ中を歩きまわっても自分の目で確かめようとする行動力を持っていた。フェイスは牧師館の子供なのに自分は聖書を知っているどころか諳んじることもできないと赤面するが、ジェムに言わせれば自分も生活手帳を一言一句すべて覚えてはいない、たいせつなことは学んで正しく振る舞うことなのだと笑ってみせる。
「ウォルターなら言葉で人を導くことができる。僕はそれができないなら、せめて彼よりも行動すべきだと思うのだ」
過日、悪たれのダン・リーズにフェイスが侮辱されたとき、あのウォルター・ブライスが擁護してくれたばかりか彼女の名誉のためにダンをこらしめてくれたことがある。フェイスは牧師館の長女とは思えないくらい奔放で、口の悪い男の子からは鶏娘とか豚っ子とか呼ばれたが、それ自体は腹立たしいだけで気にもしていなかった。実際に鶏のアダムは彼女のかけがえない友人だったし、豚にまたがってグレン村を駆けたのは面白かったのだ。鶏にも好かれず豚にも乗れないダン・リーズよりよほどましというものではないか。
例えばジェムがダンと喧嘩をしたとすれば、彼はダンをこらしめてくれるだろうしそれを怖いとも思わないだろう。ジェムだって殴られるのは嫌だが彼もダンを殴るならおあいこだからだ。だがウォルターは殴られることも人を殴ることも痛いと思っていて、ならば彼にとって喧嘩とはひたすら殴られるのと同じくらい痛いことになる。
「悪たれのダンをウォルターがこらしめた話は聞いたよ。たぶん本当の彼は誰よりも勇敢だが、僕はせめて普段は彼よりも勇敢でいないといけないだろうね」
「うまく言えないけれど、ウォルターが戦ったことはすばらしく勇敢だと思うわ。でも私はジェムもウォルターも勇敢だと思っているし、だからといってジェムがウォルターのようになったり、私がジェムやウォルターのようになるつもりもないのよ。彼は血のことを考えるだけで逃げたくなると言っていたけれど、私は血を流している人がいれば助けなければいけないと思うもの」
フェイスの言葉にジェムは感心してうなずいてみせる。まったくその通りだが、思ったことを心から口にしないではいられない、フェイスの正直さこそ尊敬に値するものではないだろうか。戦うことは勇敢な振る舞いには違いないが、人を助けることはもっと勇敢な振る舞いであるはずなのだ。
「いけない、忘れていたわ」
唐突に思い出して、フェイスはメアリにもらった包みを取り出すと半分に割ってみせる。コケモモのパイは籠を運ぶ礼にもらったものだからフェイスが独り占めしてよいものではないが、坂道の半分は彼女が運んだのだからこれが正しいのだと思う。差し出されたパイを手にしたジェムは多少の照れを隠しながら、その日はグレン村の向こうまでずいぶん歩いていたからとても空腹でいたことを思い出す。コケモモのジャムをふんだんに使ったメアリ・ヴァンスの逸品らしい。
「メアリといえば港のほうに歩いていくのを見たよ。ずいぶん急いでいたけれど、用事でもあったのかな」
「さあ、そうじゃないのかしら」
本当のことはいえないからてきとうに話を変える。メアリと話していたアダムの件でフェイスはいろいろな人に笑われたが、もちろんジェムたち虹の谷の皆は誰も笑わなかった。ひよこのときから家族として育ててきたアダムが、ペリー牧師を迎えるためにマーサおばさんに調理されたのを見たとき彼女は一瞬であれ信仰を忘れそうになったのだ。
「これはジェムにだけ言うけれど、あのときは豚も牧師様も反芻をしない貪欲な生き物だって思ったのよ」
「それは、さすがに他の人には言わないほうがよいだろうね」
だが怒りは恥ずかしいことでも悲しみは愛情のためなのだから恥ずかしがることはない。ジェムと同じことをローズマリー・ウエストも言っていたが、何も知らなかった牧師様を恨むのは正しくないが、でもあの牧師様は偉そうで好きではないわねとフェイスに正直に告白してくれたものである。それも自分が聞いたことは黙っていたほうがよさそうだとジェムは笑ったが、どうやらフェイスにはフェイスなりの分別があるらしく、ジェムに話すというのはそれだけ彼を信用しているのだろう。
雄鶏のアダムのかわりにローズマリーがフェイスに贈ったのは金色の羽色をしたカナリアで、牧師館を訪れる人のたいていはフェイスの新しい友人を気むずかしいアダムよりも好んだが、フェイスにとって重要なのはアダムがかけがえのない友人であり、カナリアはかけがえのない新しい友人であるということだ。
「アダムも立派だったが、カナリアにも王の風格があるね」
言いながら、ジェムは生活手帳の一節を思い出している。
「大航海時代、ヒスパニア人が見つけたその島はいつでも暖かく、かつて噴火口であったくぼ地は緑の蔦と真っ赤な花びらで彩られて、そこらには橙や黄色をした果物がたわわに実っていた。船べりをまたいだ僕を出迎えた黄金の鳥は木のかげに隠れるでもなく親しげに寄ってくるでもなく、まるで昔からこの国の王であるかのように堂々とした姿をさらして荘厳な楽を奏でている。ヒスパニアの船員はこの島を理由も分からず犬の島と呼んでいたが、僕ならばここを小さき王の城と呼んだであろう。そして彼らは今でも荘厳な楽を奏でると、牧師館の軒下を訪れる人々を寛大に出迎えているのだ」
ジェム・ブライスは思う。鳥の王や魚の王がいるように、人の中にも王のように気高い魂を持つ者がいるらしい。フェイスの活気や機知、楽しさにかなう娘などグレン村のどこにもいないだろう。パイのお礼をしようと、その日、彼だけしか行かない丘の向こうで手に入れたりんごの実をフェイスの手のひらにそっと置く。グレン村の気高い娘はすっぱい香りがする実を手に取って礼を言いながら、でもどうせなら自分も連れて行ってくれたらよかったのに、あたしだったらグレン村の向こうまで、そのもっと向こうまでだって歩いても構わないわと言うのだ。
「では約束しよう。りんごの木がある場所は僕しか知らない、来年も君がその気でいてくれたらぜひ誘わせてもらうことにするよ」
「もしも誘ってくれなければ、私は一人でりんごの木を探しに行ってしまうわよ」
少しだけ、ジェムの頬が赤らんだことにフェイスは気がつかなかった。フェイス・メレディスはグレン村のたいていの娘たちと違い、奔放で破天荒な言動がなにかとうわさになることが多いがもしかしたら彼女だけが正しくて皆が間違えていることだってあるのかもしれない、いささか大げさにジェムはそう考えてしまう。
虹の谷でウォルターの言葉に答えたように、いつかジェムは世界中をぐるぐる、どこまでも遠くへ行きたいと願っている。暖炉には火が燃えていて忠実な犬がいる、虹の谷には歌声が通り抜けて子供たちがマスを焼いている、そんな世界のためにジェムは勇ましくありたいと思っているが、フェイスにはフェイスが奏でている歌があってそれは誰でもない彼女自身を導いていた。もしかしたら、ジェムが守ろうとする火は炉辺荘ではなく彼が旅立つ世界の傍らにあるのかもしれない。
そしてジェムと二人、グレン村に差し込んでくる日差しの向こうを眺めながらフェイス・メレディスも思う。いつか世界中をぐるぐる、どこまでも遠くへ行きたいと願うジェムと同じように、彼女もまた行きたいと思うところへどこまでも行きたいと思う。もしもそこに彼女の望む人たちがいれば、それはきっとすばらしいことに違いない。だけどそこに誰もいなかったとしても、それでも彼女は行かないわけにはいられないだろう。
グレン・セント・メアリの遠くから流れてきた風が彼女のわきを抜けて豊かな金髪を泳がせると、吹き抜けていった尾に視線を向ける。そのとき、フェイスは初めて笛吹きの音を聞いたように思えた。だがフェイスは嬉しいのだ。彼女が行く先に彼女が望むすべての人がいるはずはない。だけど、何人かが進む道は必ず彼女と並び、そして交わっている。たぶん、彼女が信じているものは彼らとそれほど違ってはいないのだから。
「大丈夫よ」
「何がだい?」
「うん、わからないけれど、吹き抜けた風はきっと、もう一度この島に帰ってくるのですもの」
>他の本を見る