三章.滅びた世界


 白く輝く大理石で舗装されて、水路や街樹までが機能と景観の双方を考えて慎重に配置されている王都エレンガルドの中心部には、光輝の城と呼ばれる王城がその威容を誇っている。そして処女王エレオノール、エレオナの玉座がある王城に匹敵する建物といえば王都では唯一、大神殿があるのみだったろう。
 大魔王ハンによって荒廃し、竜殺しの英雄の子孫ダインと仲間たちの手で救われた世界において、神々への信仰がかつての輝きを失って久しい。人々は大魔王を打倒できなかった神様ではなく、これを打ち倒した勇者と仲間たちを崇拝したから彼らが信じている教えだけが英雄の信仰としてかろうじて生き残ることが許されていた。神の槌と呼ばれる最高司祭長マールが建立した大神殿はステンドグラスから差し込む荘厳な光ではなく、鐘突き堂の尖塔に響く壮麗な音色でもなく厳格な英雄の導きによって人々を律している。三十年前に戦場を往来したマールの正義は時を経ても衰えることがなく、女王が新しいハイランドの秩序を彼女にゆだねたことに疑問を持つ者はいなかった。

 女王エレオナが治めるハイランドはクルトバーンの近衛兵団が王都を、ヒュンケルトの白銀の騎士団が周辺を守りながら司法警察権を有し犯罪を取り締まっていたが、捕らえた罪人を裁く役割は大神殿にいるマールに任されている。世界はようやく滅亡の淵から救い出されたばかりであり、充分な法整備など夢だったが人が集まればいざこざも起きたし罪を犯す者もいる。彼らを裁く戒律は信仰に求めざるを得ず、マールと大神殿の厳格さがハイランドには必要だった。
 彼女の信仰はもともと正義と秩序を信奉する教えであり、罪を犯した者に相応する罰を与えることが大神殿における司祭たちの役目となっている。法文こそなくとも彼らの戒律は厳格で、むしろ厳格すぎて寛恕を請う声が上がることもままあったが人々は多少の恐怖と多大な畏敬の念で大神殿を崇めていた。

 それでもほとんどの人々が知らぬところで、あまりに悪辣で邪悪な罪人がいなかったわけではない。彼らは大神殿の地下にある改心者収容室に連れて行かれると厳しい懺悔と悔恨が求められた。光と正義に属する者は真の邪悪に染まった者人に対してさえ寛大な心で慈悲の手を差し伸べたが、残念ながら彼らが改心して光ある世界に回帰する例は決して多くはなく司祭たちは弱き人の愚かさを嘆かずにはいられない。魂までも闇に堕ちた者でもはや救済する術もなければ、終末の象徴である浄化の火によって不浄な汚れを消し去る以外に手だてがなかった。
 光ある王都の地上にそびえ立つ大神殿の威容と、地下で行われる不断の闘争が礎となってハイランドの正義と秩序は守られている。それは寛容でもなければ慈愛に満ちてもいないかもしれないが、目を背けず自ら戦う行動が世界を救うことを勇者を助けた英雄たちは知っていた。

 伝説の戦いから三十年を経て、最高司祭長マールは既に半世紀の人生を閲していたが、心身の内からわき出す生命力と力強さにあふれる容姿が実際の年齢よりもはるかに若々しい印象を人に与えている。マールは最高位の司祭として人を癒す数多くの奇跡を起こすだけではなく、彼女の異称である神の槌の名に示される通り武器を手に邪悪を討つ闘士でもあった。人を救う力と、人を裁く力の双方が彼女の正義と秩序だった。
 鋼鉄の王クルトバーンが率いる近衛兵団に捕らえられた、鼠のテオドールの部下たちは大神殿の地下に連れてこられると薄汚れた反逆者にふさわしい刑をその身に受けていた。だが厳格な人間は時として度を超すことも多く、その時も裁きの鞭を打ち据えていた審問官の手に込められている力はいささかやり過ぎではないかと思われるほど強いものだった。薄汚れた反逆者を裁くこと、邪悪な輩を懲罰することは光に属する者にとって当然の責務にはちがいないが、気高く美しいエレオナの賢明な統治の下では苛烈なまでの潔癖さだけではなく、寛容さと慈悲深さも求められるべきであり大神殿の厳格さをたしなめる声があったことは事実である。

 テオの部下は王都の地下にひそみ陰謀を画策する一味の者であり、改心者収容室で鎖に繋がれた虜囚を打つ審問官の鞭が強すぎたこともやむを得ない。彼は確かに厳格な正義の使徒だったが、討ち滅ぼすべきは邪悪であって邪悪な人間ではないことを忘れればそれは罰ではなくただの暴力になり下がるだろう。そして光と正義に基づく裁きが行き過ぎであったとすれば、それをただす役目もまた光と正義を統べる側に求められるべきだった。

「打つ手を止めなさい」

 たよりない灯りに照らされた石壁によくとおる声が響き、階段を下りる規則正しい足音が続くと純白の法衣に身を包んだ最高司祭長マールの姿が現れる。長い法衣の端を頭巾のように頭に巻き付け、背筋を伸ばして立つ姿には穏やかに見えて侵しがたい強さがあり、陽光の射さぬ地下でさえも彼女自身が光の源泉であるかのような存在感を人に感じさせている。マールの言葉に審問官は手を止めると、身体ごと向き直ってから深く頭を垂れた。その背後には石壁に繋がれた罪人が力なくうなだれており、あまり苛烈な刑罰のせいで息絶える寸前にも見える。かつて壮健であったろう肉体は飢えと苦痛に衰弱し、激しく打たれた皮膚は破れて肉は裂け、ところどころに白い骨すら露わになっていた。
 マールは眉根を寄せると明らかに行き過ぎた審問官を厳重にたしなめ、如何な罪人であっても無原則に傷つけ死なせてもよいという法は存在しないこと、罪人を真に反省させるには痛みが染みとおるように同じ箇所をゆっくりとたたく必要があることを説いた。最高司祭長は命の灯火が尽きかけている、薄汚れた罪人に白い手をかざすと寛大な祈りを捧げる。

「HOIME」

 神々に仕える使徒の祈りは癒しの奇跡を起こし、罪人を照らすマールの小さな光は傷をすべて癒すには及ばなかったが、消えかけた命を救うには充分な力があった。神々の意思である光と正義とは、善なるものだけではなく邪な罪人にさえ手を差し伸べて救いを与える。
 審問官は偉大なる最高司祭長マールの奇跡に深々と礼をほどこすと、再び鞭を振り上げて罪人への刑罰を再開した。教えられたとおり単に痛めつけるのではなく、よりゆっくりと、罪の重さを教えこむように強すぎぬ力で打ちすえる。罪人を改心させるためにより長い時間をかけるには皮膚を切らずに血管を何度もたたいてつぶすことによって、濁った血がたまってどす黒く変色したところをさらにゆっくりとたたくほうが効果があった。マールは満足してうなずくと、きびすを返して彼女がいた地上の世界へと戻る。壮麗なステンドグラスから差し込む光が最高司祭長を照らすと同時に、はるか頭上にある尖塔の鐘が鳴り響き荘厳な音が大神殿とエレンガルドを満たす。彼女の異称である神の槌を思わせる、邪悪を打ち据える正義の響きである。

 最高司祭長マールが上階にある彼女の私室に戻ったとき、すでに日は傾き大理石の建物に差し込む西日が室内に幻想的な絵を描いていた。日の色は生命の象徴である血と炎を示す赤であり、影の色は闇と邪悪を象徴する黒であり、両者に分かたれた部屋を目にするときマールは自分が正義と邪悪、光と闇のはざまに立ち一方を守るために他方と戦う聖なる闘士であることを今さらのように認識することができた。
 大魔王ハンを打倒して勇者が帰らなかった後、戦いに荒廃した世界を復興して人々を救う道を選んだ当時の小国ハイランドのエレオナ姫を、勇者に従った英雄らが助けるようになってから三十年が過ぎている。長い戦乱の中で人々は忘れて久しくなった平和への戸惑いと、勇者を失った喪失感に支配されていたがそれは勝利して友人を失った英雄たちも同じだった。皆が無気力と絶望に支配される前に、いち早く立ち上がったエレオナの決断は讃えられて然るべきでありマール自身も女王の即断やヒュンケルトの行動がなければすぐに立ち直ることができた自信はない。

 西日が色を失っていく大神殿の私室では、光と闇の対立はやがて闇に軍配が上がりそれは闇に堕した者どもの蠢動をマールに思い起こさせずにはいられない。彼女の脳裏をかつてともに旅をした幾人かの姿がよぎり、そこには勇者ダインはもちろん大魔導士ポールや獣王遊撃隊長テオの親しげな笑顔も混じっていた。あの当時は彼らも確かにマールと同じ光の使徒であり、魔王軍に属しながら志を変えたヒュンケルトやクルトバーンも合わせた仲間たちは強大な敵に絶望も悲観もせず勇気と友情が勝利をもたらすことを信じて失わなかった。
 戦いが終わり、哀しみと衝撃の故に志を変えたポールやテオの変節をマールは決して許すことができないが、ダインとの友情を知っている彼女にはその悲嘆も理解できたから心からの哀れみは感じている。唯一、真に憎むべき者がいるとすれば彼らをかどわかしてマールたちのもとを去るようにそそのかしたあの女、名を口にするのも汚らわしい異民族の占い師メアリくらいだったろう。勇者ダインの声望につられた利益至上主義者は勇者の死と同時にその醜い本性を現したのみならず、まだ若かったマールから友人をも奪いとった。彼女の理解者であり特別な存在であるヒュンケルトがいなければ、マールの悲嘆は堪え難いものとなっていたに違いない。

 ヒュンケルトの手で大魔導士ポールが処断された、その報はマールには複雑だがそれは改心の機会が与えられなかった友人への哀れみだろう。クルトバーンの斧にテオが傷つきながら逃げおおせたという知らせも、残念に思う中にわずかな安堵の心があることは認めざるを得ない。だがあの占い師の女がいまだ行方が知れず、女王も騎士団もポールやテオほど積極的に追う様子がないことはマールには不満だった。あの下衆な女がとるに足りぬ存在であることは承知しているが、ポールやテオをたぶらかした淫猥な罪を思えば八つ裂きにしたとて足りぬではないか。
 騎士団を連れたヒュンケルトは王都の外を、近衛兵団を率いるクルトバーンは王都の家々をさらっているが、闇商人のような小悪は見つけ出しているもののテオやあの女の足取りは依然として掴めていない。最高司祭長マールがすべきことは大神殿に送られた罪人を裁き改心させることであり、迂遠でも地道に正義を育んでいくことによって邪悪が生きる場所をいずれ無くすることができるはずだった。

 不断の闘争こそが逃亡者の身の置き場を奪い、世界の隅々を光が照らせば薄暗い影はその姿を消していく。陽光は日没とともも消えてしまうが、処女王エレオナや白銀の騎士ヒュンケルトら英雄たちの光は沈むどころか翳ることすらなく世界を照らし続けていた。西に建つ王都エレンガルドと東にそびえる大障壁ダインブルグ、それらを結ぶ街道は三十年をかけて彼らが積み上げた結実なのだ。
 ポールやテオを見つけるのに三十年を必要としたのではない。三十年をかけて彼らのような逃亡者が隠れ潜む場所のほとんどが失われたからこそ、ポールやテオを見つけ出すことができるようになった。最高司祭長マールが大神殿の地下に赴く機会は増えるだろうが、いずれ光が完全に世界を満たせば改心者収容室に送られるべき人間そのものがいなくなるだろう。

‡ ‡ ‡

 老戦士とともに大障壁をくぐり抜けた少年は、暗い月にかかっている雲が切れるまでの間にすばやく門から離れると道を外れた林の中に身を隠してから短い眠りについた。伝えによれば壁の向こうは魔王軍の残党が跋扈する土地であり、わずかに残された邪悪の残滓からハイランドを守る最前線のはずである。ダインブルグの楼上を行き来する衛士に見つかる危険だけではなく、これからは無法な者どもに襲われる危険からも身を守らなければならない、そのときまでは少年も老戦士もそう思っていた。
 落ちつかない夜がやがて白みはじめて曙光の一閃が大陸に届くころ、少年と老戦士は木々の傍らで目を覚ますとあたりの様子を慎重に窺う。そこは大障壁の西にある深い森とは異なり、木々の並びは広く日が差し込んで風も抜ける、森というよりも林に近い場所だった。奇妙に思ったのは木々が茂るというよりも植えられて整備されているかに見えることで、あるいは自然の森ではなく大障壁を守るために設けられた防風林かもしれない。木々の合間には風が抜けて日が差し込んでおり、少年と老戦士は慎重に足を踏み出すと歩みを東へと向けた。

 わずか半刻ほど進むと唐突に林が終わり、木々が開けた向こうから朝日が差し込むと正面から二人をとらえる。思わず目を細めた少年がゆっくりと目を開くと、視線の先には彼らが想像もしていなかった光景が広がっていた。あわてて傍らに目を向けると少年と同じ表情をした老戦士が乾いた唇からつぶやきを漏らしている。メアリの村を離れてから、老戦士が呆然とする声を聞いたのは初めてだった。

「いったい・・・これは・・・」

 彼らの目の前で林は突然姿を消し、その先にある逆茂木の植えられた浅い壕を越えるとあとは地平線まで広がる荒れ地とそこを貫く一本の街道が伸びている。近くには人や家畜や建物はおろか一木一草も見当たらず、大地はひび割れて枯れ草すら生えていない。更に遠く遠くへ視線を向けると散在する小屋らしきものが見えて、人が暮らしているのかもしれないがあまり広く不毛の地が続いているせいで視界の果てまで幾日かかるか見当をつけることもできなかった。
 そこは大魔王ハンや魔王軍の残党が支配する土地ではなく、戦乱が終結して復興に励む場所でもなく、かといって人が立ち入らぬ自然の大地でもなかった。本来は灌漑用であったのか、街道に沿うように伸びている水路はほとんど干上がっており、地面はやせた土壌が風に飛ばされて大地が削り取られたかのように見える。少年が先生から教わった知識に照らしてみると、このような土地をつくるには土壌を休ませずに連続した農作物の収奪で枯れた場所を放棄しつつ、東へ東へと強引な開墾を続けなければならなかった。大地を滅ぼすのは人が立ち入ることではなく人が立ち入らぬことでもなく、いったん人が手を加えてから放棄することだと先生は言っていた。水利をよくした土は砂になり、風に飛ばされると固い石と岩だけが残る。日の照りつける石はもはや何の植物も動物も生かさない、大地の無残な屍だった。

 一面の荒野を前にして少年と老戦士はしばらく立ち尽くしていたが、大障壁にも近いこの場所にいつまでも留まっていることはできない。だが身を隠す場所とてない荒野に何も考えず踏み出すわけにもいかず、姿を消す魔法もいつまでも保つわけではなかった。よい思案が浮かばないまま少年は焦慮していたが、実際には干上がった水路に隠れて東を目指す以外の方策はないことにも気がついている。問題は危険を少しでも避けて水路を進む方法と、水路を進んだ先でどうすべきかを今から考えておくことだった。少年と老戦士は夜を待つことにしたが、その間、東から来たらしい車を曵いた兵士の一団が闇商人たちを積み込むと街道を引き返していく。
 日が落ちて周囲が暗闇に支配されたところで、少年と老戦士は身を隠していた林を静かに抜け出した。夜とはいえ遮るものがなければ月の光、星の灯りが人影を照らしてしまう。少年は再び先生の魔法を唱え、姿をかき消すと干上がった水路まで慎重に進んでから身体を滑り込ませた。足を下ろした底にある固い地面はひび割れており、かつて水路だったころの面影はわずかしか残っていない。固く、軽いものを踏み割った感触が厚皮の靴裏に伝わり、足下に目を凝らした少年は思わず声を上げそうになる。その声にかがみ込んで破片を手に取ったのは老戦士だった。

「骨だな・・・人の骨だ」

 水路には無数に思える人骨が放り捨てられており、それはこの滅びた世界に訪れた惨劇を思わせる。月明かりに照らした骨はずいぶんと古く、焼け焦げた後や重く固い道具で割られたり砕かれたりした様子が見てとれた。荒れ果てた農場の水路跡に人間の骨がばらまかれている理由を今の彼らに知るすべはなく、少年と老戦士は打ち捨てられた墓場を後にして重い足取りで東に向かい始める。干上がった水路は決して歩きやすいとはいえないが、弱々しい月明かりに助けられながら、なるべく影になる場所を足跡を残さないようにして遅々とした歩みを進める。荒野を貫く墓場の道は、ひとかけらの希望も存在しない滅びた世界への道を思わせた。
 左右を低い土手に挟まれている水路は底まで水が涸れて地面は固く草も茂ってはおらず、ところどころに古い骨がうずたかく積まれているだけだったが、夜通し歩き続けて日が昇るころには骨の山は見当たらなくなってくる。踏み荒らすことよりも音が響き足跡が残らないかを気にかけたことに罪悪感を覚えたが、細かく砕かれた古い骨はそれがかつて人間であったことを奇妙に忘れさせた。陽光が頭上に現れて水路を照らすようになると、少年と老戦士は街道から影になる場所に身体をへばりつけるようにかがみ込んで無理矢理眠りをとった。

 翌日以降も、少年と老戦士は昼はわずかな物陰で身を休めて日が沈むのを待ってから水路を歩む日々を続ける。少しずつ東に進むにつれて足下にはわずかな下草が現れて、ぬかるんだ地面に汚らしい水たまりが混じるようになる。柔らかい地面で足跡が残らないよう、少しでも固い土や石の上を選びながら、水音を立てないよう気を使わなければならなかった。時折周囲を警戒しながら地表に顔を出して、様子を窺ったが四方を見渡しても一面の荒野が広がっているだけで遥か東まで続いている水路は果てがないように見える。
 日が幾度のぼり月が幾度巡ったか、少年と老人はそれで時間を知ることができたが、歩きにくい水路をどの程度進むことができたのかはまるでわからない。のどを潤すために水たまりの水をすすり、土壁に生えていた豆や芋の蔦をたぐってわずかな食料を補充する。水路での生活がいつまで続くかしれず、折り返すこともできなければ貴重な保存食にはなるべく手をつけたくなかった。

 更に遅々とした歩みを数日ほど続けると、丈の高い下草や小さな水の流れも現れるようになり、身を隠しやすくなる一方で更に歩きづらくもなってくる。一日、ひび割れた地面が深い裂け目になっている場所を見つけた二人は、日が昇る前に身を潜めるとそこで次の夜を待つことにする。いっときの安息地を得た少年と老戦士は、身を横たえる乾いた場所を探すが一番奥のあたりに彼らの先客である小柄な死体が転がっているのを見て息を呑んだ。
 幸いというべきか、死体は乾いて木乃伊と化しており病の心配はないように見える。そう考えたことに少年は再び罪悪感を覚えたが、彼らとて人や死んだ人の心配をできる身分ではなくいずれ目の間の死体と同じ姿になるかもしれなかった。少年と老戦士は目を交わしてどちらともなくうなずくと、地面を掘り死体を横たえて土をかぶせる。不躾な訪問のせめてもの謝罪のつもりだが、横たえたとき指にはめられている大きな指輪が目にとまった。よほど大切なものだったのかもしれず、胸の上に組ませて一緒に埋葬する。仮にそれが値打ちのある品だとしても、今の彼らに金銭は意味がなかった。

 頭上にある、地上にある街道をゆけばおそらく彼らの道のりは半分もかからなかったろう。東に行くにつれて足下の水たまりは浅い水のよどみになりやがてささやかな水路になるが、水と泥に足を取られて足取りが更に遅くなる。だが水と泥がなくとも彼らはいつまでも水路で暮らしているわけにはいかず、いずれ危険を承知で外に出なければならなかった。彼らはハイランドから逃れるためではなく知るために大障壁を越えた。ハイランドは何から国を守ろうとしており、何が国に必要で何を必要としていないのか、少年の村が灼かれて先生が殺された理由を知るために彼らはここにいるのだから。
 神経と体力をすり減らす長い日々が過ぎて、時折地上を窺う彼らの視線の先に遂に荒野の終わりが目に入るようになってくる。集落らしき建物が点在し、放棄された荒れ地にもつい近年まで用いられていた痕跡があって遠目には人影も認められるようになった。だがばかばかしいほど広大な荒野と放棄された車や道具、散在する簡素な小屋を見ているうちに少年は確信する。彼らは農地を耕すというごく当たり前のことを知らず、先生の教えにあったとおり作物を収穫してただ東へ進んでいるだけなのだ。放棄された道具には斧も鎌も家畜に曵かせる荷車も脱穀棒すらもあるのに、梳や鍬といったごく当たり前の農具が見当たらない。もしも少年の観察が正しければ、この地の人々は狩猟と採集はしても農業をしていない。森を拓き、作物を植えて二度や三度は収穫ができても耕さなければ土地はいずれ枯れる。それを放棄して東に進めば後には荒野しか残らなかった。

「ここの連中は頭がおかしいのか?なぜこんなことをしている?」

 老戦士が呆れたように呟いた、それは少年とまったく同じ感想だがあまりの不自然さに釈然としないものを感じる。不自然なことが実際に起こっているならば、それは誰かが意図的にそうなるようにしたのではないか。東の果て、視界の向こうには点在する集落とまだ作物を植えることができているらしい農地、そこで働いているらしい人々の影が見えるがそのさらに向こうに大きな城か砦のような建造物が見える。あの建物の中にこそ、少年が大障壁をくぐり抜けてまで求める答えがあるのだろうか。
 大障壁を越えてから三度目になる新月の夜、少年と老戦士は地上に登ると久々の固い地面を踏みしめる。散在する小屋には人の気配がなく、東に見える灯りの漏れた集落に人々が集まっているのであろう様子が見てとれた。早足で数刻歩き、ひときわ大きな灯りが漏れている集会場めいた建物に向かう。扉の向こうにある危険は承知しているが、もとより安逸な選択を捨てて大障壁をくぐり抜けた彼らにはどこかで一歩を踏み出す決断が必要だった。この時刻にこの場所に人が集まっている、そこは支配する者ではなく支配される者たちの場所だろう。少年が先生から教わった言葉の一つには、国を現すのは国でもっとも貧しい者の姿だというものがあった。

「蛇の巣か、犬の群れか、それとも山羊が角を立てているか」

 少年と老戦士は武器も構えず、身を隠すでもなく、堂々というよりもごく泰然をよそおって軒戸をくぐる。大障壁をくぐり抜けたように、それが事実と真実に近づく一歩であることは疑いなかった。

‡ ‡ ‡

 デミルーンという島がある。王都エレンガルドからも、大障壁ダインブルグからも遠く洋上に浮かんでいる孤島であり、伝説の戦いを終えた後にハイランドの領土の一部とされているが人が訪れることはない。島の周辺を行き来する船もなく天気がよい日でも本土から島を見ることはできないが、対岸も深い森に覆われるばかりで近くには村も町も存在しなかった。かつてこの島は怪物が君臨する場所として人々の噂に上り、後には勇者ダインの生地として伝えられたこともあるが辺地にあるデミルーンの場所はほとんどの人に知られることはなく、三十年を過ぎると誰も耳にしたことすらなくなっている。
 島のあちこちには小さな集落が廃墟となって埋もれており、朽ちかけた小屋や原始的な洞穴の住居は生きるものの姿もなく放置されている。木々は蔓草の生い茂る密生した森に、狭い草原は丈の高い頑丈な葦の立ち並ぶ茂みに覆われていた。わき水の流れる池はよどんだ沼となり、泥の上には足跡のひとつもなく、デミルーンに人や怪物や魔物はもちろん、訪れる鳥を除けばほとんどの生き物が暮らしていないことを示していた。

 だが下生えの草木の下、あるいはよどんだ泥の底にかつてデミルーンに暮らしていた生き物たちの骸や骨が横たわっていることを知る者はいない。それらの死骸には剣や槍先で貫かれた傷跡が深く刻まれ、槌で割られ、火で焼かれた跡がありデミルーンの住人が滅びたのではなく、滅ぼされたことを無言のままに語っている。ハイランドはデミルーンを滅びた島、呪われた島であるとして今も立ち入りを禁止していたが、王都エレンガルドからも大障壁ダインブルグからも遠い辺境の孤島の存在を知る者は数えるほどもいない。
 ねじくれた幹が交叉した木々を利用して建てられた一軒の小さな小屋は、朽ちて崩れつつある木や土の壁に、天井が落ちて屋根に葺いていた枯れ枝の残骸が残っている程度だった。粗末な家具や調度品も三十年の歳月にさらされ崩れかけており、乾いた孤島の風がそれらを土に変えていこうとしている。

 その小屋を離れて、島の中央に近い崖の斜面には崩れかけた洞穴の小さな裂け目が開いていた。木々や岩の具合で周囲からはちょうど隠れており、入り口は曲がりくねって奥には光も差し込まず、よどんだ空気が沈むだけの狭く陰鬱な場所となっている。闇の底は乾いた砂地になっていて、そこには古びた木製の棚や、がらくためいた道具が転がっていて中にひとまわり大きな木箱が置かれている。
 三十年前に打ち捨てられ、生きるものの足跡が記されなくなって久しいさいはてのデミルーンには海風が始終吹きつけているにも関わらず、奇妙に重くよどんだ雰囲気を消し去ることができずにいた。この滅びた島の存在を知る者は世界にも数人しかおらず、そのほとんどが島を滅ぼした者たちである。


を読む
の最初に戻る