八章.勇者の帰還


 騒然とした夜が開けてハイランドの木々を陽光が照らしている。街道を外れた湿地帯からまだそれほど離れていない森の中では老戦士が騎士団長ヒュンケルトの首を包んだ布を、少年が白銀に輝く槍を手に追跡の手を逃れるべく潜伏していた。強力な指揮官を失った騎士団や巡視隊の狼狽ぶりは彼らが期待していた以上のもので、ほとんどの兵が未だに沼地の落とし穴にある首から上がないヒュンケルトの骸を前に右往左往している有様だった。
 少年と老戦士は足跡を消すために幾度も小川を横切って時間を費やしていたが、追っ手すらいなければそれも取り越し苦労に思えてくる。兵士たちがようやく泥まみれの遺体を引き上げて、王都に火急の使いを送り、騒然とする皆を鎮めたころには不敵な加害者がどの方角に逃げたのかすらも見届けた者はいなかった。

 相手が鈍重だからとこちらも足を合わせる必要はなく、いつ正気を取り戻した騎士団が動き出さないとも限らない。少年と老戦士は血にまみれた首だけはいつまでもぶら下げて歩くわけにいかなかったから、一度、わき水のある沢で洗うといささか気分が悪くなったが血抜きをしてから塩を詰めた箱に押し込め、その後は二日間ほど休む暇も眠る暇も惜しんで森中を逃げ続けた。
 恨みがましい顔のままで息絶えた、銀の槍の騎士ヒュンケルトの首は彼らにすれば貴重な戦果である。ハイランドの騎士団長を手にかけた彼らはハイランドから追われる罪人になりおおせていたが、どのみち捕まれば命がない立場であることは大障壁をくぐり抜けたときから変わらない。彼らが激変させたこの状況の中で彼らはこれからどうすべきか、少年はとるべき行動を決めなければならないが次の変化は彼らが考えていたよりも早く向こうから訪れた。

「・・・何者だ!」

 森の中に老戦士の誰何の声が響く。生前のヒュンケルトが少年たちの追跡を自ら行わねばならなかったように、ハイランドで街道を外れた地域に立ち入る者はふつうおらず、特にさいはてのデミルーンに近い周辺は違法な旅人や闇商人も、それを取り締まる巡視隊も近づこうとすらしなかった。人がいなければ人が訪れる理由はないから定期的に掃討をすれば山賊すらここに近づく意味がなく、いるとすれば少年たちを探している者くらいだろう。相手の反応も予想通り、あるいは期待に叶うものだった。

「武器を下ろしてもらえないか。こちらは丸腰だ。君たちも予想しているだろうが、会ってもらいたい方がいる」

 そう言って両手を上げている男は旅装束らしい厚い布地の服の上から深い頭巾のついた深緑色の外套を羽織っていたが、目深に被りすぎて表情すら窺うことができない。不審な視線に気づくと、男はあわてたように頭巾を上げて意外に若い顔をさらしてから非礼を詫びた。やや肉づきが薄く、熱っぽい視線をした男の顔は初めて見るものだが相手は少年と老戦士のことをよく知って、というよりもよく調べているようだった。

「東の地から大障壁をくぐり抜けた者がいることは知っていたが、まさかそれが銀の槍の騎士ヒュンケルトを倒すとは思っていなかった。我々はデミルーンを訪れた君たちの足取りと、追跡を試みるヒュンケルトの動きを追ってそれを知ることができた。信じてもらえるかどうかわからないが、我々は君たちと志を等しくする者だと考えている。ぜひ我々の指導者に会っていただきたいのだ」

 男は再び頭巾を目深に被りなおすと、少年と老戦士の同意を得てから後をついてくるように促す。ダインの伝説では三十年前、勇者がデミルーンを旅立ったときにすべてが始まったが、少年と老戦士が島を訪れたときもまた世界が大きく変わることを意味していたのかもしれない。それがどの方角に向かうのかいまだわからないとしても。
 乾いた下ばえの地面を数刻ほど歩かされて、案内された先には毛布と毛皮を張り合わせて作られた大きな天幕が組まれていた。数頭繋がれている家畜の様子を見るに、移動できる潜伏場所として遊牧民に倣ったもののように見える。手慣れてはいたが天幕の張り方も補修の具合も、住居としての快適さよりも簡便さを優先しているように見えた。

 彼らが少年たちと同様ハイランドに追われる者であったとしても、それが友好的な理由にはならず少年も老戦士もまだ警戒を解こうとはしなかったが、それを和らげるのであれば客人を迎える側に責任があるだろう。天幕の入り口が控えめに開くと杖をついた一人の姿が、ひと目で亜人とわかる大鼠の姿が現れた。右手に杖を持って失われた足を支え、左の腕も失われて袖口が揺れている。この姿で立てることが少年には驚きだが、左半分が皮のマスクで覆われた傷跡だらけの顔に一つきりの眼光の強さがそれを納得させる。少年たちを案内していた若い男は鼠の姿に驚くと、おぼつかない足取りだがそれでも立っている彼らの指導者にあわてて駆けよった。

「テオドール様!そのお身体で外に出られるなど・・・」
「客人を呼んだのは俺たちだし、正体不明の輩に呼び出されて入れと言われても気がすすまないだろう。たまには俺にも外の空気くらい吸わせてくれや」

 その姿は三十年前と比べて著しく変わったとはいえ、伝説の戦いに携わった者であれば獣王遊撃隊長の名前を知らぬ者はいない。驚きの声を口にしたのは、今度は老戦士の方だった。

「テオドール・・・貴方が、あのテオ様でいらっしゃいますか」
「おお、もしかして偽勇者一行の戦士じゃないか?はは!お互い歳をとったもんだな」

 好意的な笑みで迎えられるが、当時まともに挨拶を交わした記憶もない相手を三十年が過ぎても覚えている鼠が人に慕われている理由が理解できる。天幕に招かれた少年と老戦士は丁重にもてなされると久しぶりに息をつき、酒ではなく、少しあたためた山羊のミルクを甘露に思いながらゆっくりと胃に流し込んだ。
 三十年前、獣王遊撃隊を率いていた大鼠のテオドールのことを少年は老戦士の口から聞いていたが、吟遊詩人の伝説では彼の名は完全に消されていて誰も語る者はいない。その事実を少年はささやかな疑問に思っていたが、最初にそのことを聞くとテオは面白そうな表情を見せた。

「まあ、理由はないでもない。ハイランドとしては反逆者である俺の名前を残したくないのもあったろうが、そいつは後からつけたものだ。だが実際にはクルトバーンのおっさんを唯一の例外にして大魔王を倒した勇者の一行に怪物が、それも貧相な鼠が混ざっていてはどうにも見栄えが悪い。誰がそう思ったわけでもないが誰かがそう思うかもしれないと考えちまう、人の偏見ってのはそういうもんさ。
 とはいえ俺に限らず伝説に名前を残さなかった連中は何人もいるし、そんなことに不満があるとは思わんね。俺たちが戦ったのは自分の手で世界を救うためと、勇者ダインを助けたいがためだった。真摯でまじめなだけの坊やだったが、あの時代に真摯でまじめな奴なんて一人もいやしなかった。ポールが最後まで逃げずに戦ったのも、クルトバーンやヒュンケルトが大魔王を裏切ったのも、エレオナ姫が俺たちを助けたのもすべてダインに惹かれたからだ。そのダインが死んじまって、誰が詩人の扱いなんぞ気にするというのかね」

 伝説のきっかけは祝宴の席で吟遊詩人が最初に奏でた解放と平和の詩にあった。そのときに絵にならないからとテオの名は挙げられなかった、以来三十年続く伝説に獣王遊撃隊長の名がない理由はそのていどのものでしかない。だが最後の戦いで命を落としたダインを讃える詩に自分の名前がないという理由で、不満にも残念にも思うような輩はその当時誰もいなかった。人はようやく訪れた平和と、それを見ることが叶わなかった命への哀惜とで心が満たされていたから、盃によけいな滴を垂らす必要など少しもなかった。

「戦いも終わったし、誰もが苦しい中でハイランドは勲章やささやかな褒賞まで出してくれた。めでたい祝いの席で、そこにいない少年に捧げる詩にけちをつける奴なんかいやしないさ。俺だってそんなくだらないことを思いもしなかったし、正直これでやっと休めると考えていたくらいだったな」

 テオは話しながら、かつての戦いを心に描いていた。大魔王ハンに率いられた怪物どもの軍勢に人間の軍隊はあまり役に立たなかったように思われているが、彼らは団結できなかったというだけで自分の国にこもって必死に抵抗したことに意味がなかったわけではない。それぞれの国が大軍を引き受けている間に少人数で大魔王を打倒するのが人間の作戦で、勇者ダインの一行やテオが率いた獣王遊撃隊はそうして挑んだいくつかの部隊の一つである。
 彼らのほとんどは失敗して名前も命も残すことはできなかったが、大陸に名だたる戦士や魔法使いがダインに惹かれて力を合わせた勇者の一行と、魔王軍に弓引く怪物たちが非力な大鼠に従う獣王遊撃隊だけは別だった。彼らはどこか似たところがあって、かの鋼鉄の王クルトバーンも魔王軍を見限った後はテオに従い遊撃隊の一員として働いたほどである。ダインは純粋なほどの正義感で人を惹きつけたが、テオはどのような怪物も平然と受け入れる度量の広さがあった。彼らは全知全能をかけて彼らのリーダーのために力を振るい、知恵を尽くして戦った。

「もっとも勇者ダインは俺と違ってたいした剣の使い手だったがね。まわりの連中が化け物じみて強かったが、それでも連中をまとめたのは間違いなくダインの正義感と、ポールがひねり出す起死回生の作戦だったな。俺はそのどちらも持っていなかったからダインのまじめさとポールのずる賢さを真似しようとしたもんさ。幸いクルトバーンのおっさんのような堅物の戦士が力を貸してもくれた。だから俺たちの働きなんぞ勇者のおまけで構わなかったし、俺たちの代表におっさんが選ばれてむしろ満足だった」

 テオにとってクルトバーンは特別な感情のある相手らしく、言いながらどこか懐かしげな表情に変わる。彼の腕や目を奪った鋼鉄の王は頑迷だが立派な武人であり、忠節を重んじすぎる欠点はあるが他人のために自分を平然と捨てることができる美徳も持っていた。泥中に宝を見つける、相手の欠点を知ってなお美点を正当に評価する質は当時も今もテオに人が従う理由である。
 団結することもできず個別に抵抗する諸国に向けて、大魔王ハンの軍団はこれも分かれて個別に襲いかかった。戦としては愚かな方法だがすべての軍団がどの国よりも強かったし、大魔王の軍勢も互いに協力することができなかったから諸国は圧倒されていくだけだった。ハイランドのエレオナ姫や賢者アーベルはこの状況を知ると大魔王を直接打倒するための部隊を送り込む策を選ぶ。これもまっとうではないが他に良策があるとも思えず、古い言葉で電撃を意味するライデイン作戦と名付けられた。

 作戦が成功した最大の理由は、魔王軍を率いていたヒュンケルトとクルトバーンが他の将軍と確執のあげくハイランド側に寝返ったことである。ヒュンケルトは賢者アーベルと弟子のマールが、クルトバーンは大魔導士ポールと鼠のテオが説得したが彼らが決断したのは勇者ダインの真摯な心に打たれたからだったのも間違いない。諸国の王も大魔王の軍勢も、誰もが自分のために立ち回っている世界でただ純粋に正しいもののために戦おうとしたのは少年ダインだけである。それが子供じみた幼さだというなら、この世界でダインだけがただ一人子供だった。
 ヒュンケルトとクルトバーンの離反により陣容に穴が開いた大魔王の軍勢はそこに兵力を割かざるを得ず、作戦名にふさわしく電撃的に戦場を突破したダインの一行が大魔王ハンを打ち倒すことに成功する。もしも死のハンと呼ばれた大魔王がダインを道連れにしなければ、物語はハッピーエンドで終わっていたことだろう。その後、勇者ダインの勲はハイランドの復興に利用されたがダインの功績を讃えないなどあり得なかった。

「俺たちが勝てたのはダインのおかげだったし、復興の旗印にダインの名前があるのは当然だった。だがそれで建てた土台が間違ったなら、そこに組み上がった建物を認めちゃあいけない。俺たちはせっかく訪れた平和と繁栄に弓引く者らしいが冗談じゃない、今は戦慄と繁栄の時代、戦乱の時代と何も変わらないものになっちまったのさ」

 テオは皮肉そうに肩をすくめてみせる。女王エレオナによる統治、王都エレンガルドと大障壁ダインブルグによって完成された世界で、人々は確かに繁栄を取り戻しつつあったが安寧は訪れていない。あるいは訪れたとして、それは偉大なる処女王エレオナが投げ与えてくれたエサを拾って食うだけのことである。何もせず何も考えずに勇者ダインと女王エレオナに助けてもらえるなら人間の世界など大魔王に征服されても構わなかったではないか。
 それを由としない少数の者は蟷螂の鎌を持ち、築き上げられた伝説に立ち向かわなければならない。伝説の一角たる銀の槍の騎士ヒュンケルトが倒れた今の状況は建てられた土台に亀裂が生じた一瞬であり、くさびを打ち込めば巨大な城を突き崩すことができるかもしれなかった。テオの思いは少年にも理解することができて、それは彼が抱いている理由と同じものではなかったがこれから何をしようとするかという点において彼らは手を結ぶことができた。

「メアリが言っていた。勇者が帰還すれば今の世界を正そうとするものかね?」

 テオの面白げな声に、少年は穏やかな表情のままうなずくがそれは同意したのではなく互いが同じことを考えていた、意思を確認するためである。誤って建てられた土台であれば崩さなければならない。彼らの望みや理想は異なっていたとしても、彼らの目的は共通だった。そして世界を救い出した女王エレオナに対抗できる大義名分といえば、勇者ダイン以外にあり得ない。もしも勇者の伝説が女王の功績に勝るのであれば人は天空を示す勇者の剣を振り上げ、統治への信頼が勝れば哀れな少年と鼠は刑場への道を歩くことになるだろう。

 世界を統べる者に戦いを挑む、そのときから少年はダインという名を得ることになった。

‡ ‡ ‡

 伝説の戦いで勇者ダインを助けた英雄の一人である、銀の槍の騎士ヒュンケルトの首のない身体が部下たちに見つけられたとき、彼らは優秀すぎる指揮官を突然失った衝撃から立ち直ることができずただ混乱するばかりで逃亡者の追跡など考えることもできなかった。ヒュンケルトの替わりを務めることができる者などハイランドのどこにも存在しない、それは事実だが彼らにすればヒュンケルトの骸を見つけたときにどうすればいいかなどという命令を受けていないから何もできずともやむを得なかった。
 恐慌をきたした兵士たちは首のないヒュンケルトを背に沼地から逃げ出すと、周囲が暗くなるまで闇雲に走ってようやく街道にたどり着く。不安と後悔の中で夜が更けてやがて日が昇ると、多少なりとも平静を取り戻した一部がおそるおそる沼地に戻り、死禽や動物が集まり始めていた騎士団長の遺骸を見つけると動物たちを追い払い、血と泥と涙に汚れながらヒュンケルトの身体を運び出した。首から上と愛用の槍は失われて、凶報だけがつけ加えられて王都エレンガルドに届けられる。

「ヒュンケルトが・・・討たれたと申すか!」

 美しく気高いハイランドの女王エレオナがそのような声をあげて立ち上がる姿は希有のものだったろう。銀の槍の騎士ヒュンケルトは単純な武人ではなく、武勇と知謀を備えた戦士としても指揮官としても第一等の人物であり彼を倒す者が存在するなど考えもつかない。未だ狼狽から立ち直れていない、たどたどしい兵士の言葉から事実を拾い上げていったエレオナは襲撃者が魔法を用いたことを聞き出すと驚きの表情を大きくした。

「姿写しを扱う者が未だ存在しようとは・・・まさかポールの術か、それとも」

 思索にふけろうとした女王の前に別の伝令が現れると、最高司祭長マールがヒュンケルトの凶報に取り乱して周囲の側近たちに手をかけているとの報が入ってきた。エレオナは露骨な舌打ちを一つすると、近衛団長クルトバーンに彼女をなだめさせて急ぎこの場に連れてくるように命じる。合わせて王都に戒厳令を布告し、ヒュンケルトの死を正式に報じるとともに国葬を行うまでのあいだ、すべての人民に二日のあいだ喪に服することと当面は夜間の外出を禁止する旨を伝える。
 噂は風よりも早く伝わるとは誰の言葉であったか、ただでさえメアリの件で動揺する王都にこの上よからぬ噂が広まることは好ましくない。戒厳令が多少の混乱を与えることは仕方ないが、皮肉なことに銀の槍の騎士ヒュンケルトの死であれば理由としては充分すぎるものだった。

 クルトバーンが大神殿に駆け込んだとき、金属めいた血の臭気が鋼鉄の王の鼻孔をくすぐる。奥にある礼拝堂から流れ来るうめき声に、腰に下げた大斧の柄に手を添えると周囲を窺いながらゆっくりと足を踏み入れた。祭壇の前には赤黒い巨大な血だまりが広がっていて、付近に生きて立つ者がない中で最高司祭長マールが全身を血と肉片で彩りながら呆然と立ち尽くしていた。彼女の足下には地下から引き出されたらしい背教者の数人と、法衣を着た神官たちの身体がいくつも横たわっておりそれらのすべては首から上がはねとばされている。
 高貴なる魂を鎮めるためには捧げる血の量と質の双方が必要である、たとえそうであったとしてもマールの所行は狂態と言うしかなくクルトバーンは内心で眉をしかめた。ヒュンケルトの死に悲嘆する彼女の心中は察するにあまりあるが、それで女王の宸襟を騒がせてよいという法はない。無骨な鋼鉄の王は放心しているか弱い女性を丁重に扱いながら、腰に下げた斧の柄からは手を離すことなくマールを連れ出した。部下たちには大神殿の封鎖と掃除を命じるとともに、遺骸はとりあえず地下に積み上げておくようにだけ伝えておく。戒厳令はすでに行き届いていて、広場にも通りにも人影はなく全身を朱に染めた最高司祭長の姿を見る者はいなかった。

 女王エレオナは王城に連れてこられたマールを立たせたまま、不幸な傷心の女性を刺激せぬよう充分に配慮して玉韻を投げかける。女王は不遇の死を遂げたヒュンケルトに対する心からの哀惜と語り尽くせぬ感謝の言葉を捧げ、三十年前の戦乱でともに戦った皆の連帯に思いを馳せ、勇者ダインとともにヒュンケルトやマール、クルトバーンたちが人々を助けて世界を守ってくれましたね、と当時の邂逅を引き出した。それらの言葉はマールを落ちつかせるためのものではあったが、何ひとつ嘘はなく女王の心からの思いである。
 英雄ヒュンケルトには改めて勇者ダインに次ぐハイランドの元帥としての位階を与える旨、合わせて生前に立ち返って彼に授けていた竜騎士勲章に加えて最高の権威である人民冠を与える旨、更に「国の守護者」の称号を与える旨を告げるとそれらの地位や称号にふさわしい盛大な国葬を行うための手配をマールに命じる。

「余は感謝をこのような形でしか表すことができません。ですが、たとえ世俗的なものであっても考えつく限りの感謝を彼に捧げなければ余の気持ちが治まらぬのです。マールの無念と哀しみは余が思うよりもはるかに大きく深いものでしょう。ですがあえてそなたに命じます。ヒュンケルトの国葬を立派に営み、英雄にふさわしい祭儀を設けるよう」

 続けて述べられた慰撫の言葉に多少の平静を取り戻したマールは女王の命を受け、更に騎士団長を守ることもできず逃亡者を捕らえることもあたわずにむざむざと帰還してきた巡視隊の引き渡しを了承されると感謝して謁見の間を辞した。銀の槍の騎士ヒュンケルトの御霊を弔うために少なからぬ供物が捧げられることになりそうだが、巡視隊の不手際を看過できぬのは事実であり巻き込まれた者たちの存在を隠すにも犠牲の羊は必要だろう。最高司祭長が退出するのを待ってから、女王は残された近衛隊長クルトバーンに続けての指示を下す。

「クルトバーン」
「はっ」

「ヒュンケルトの死でハイランドは少なからず動揺するでしょう。彼がつくりあげた哨戒網が機能する周辺地域や大障壁は当面安心できますが、問題はこの王都です。そなたには無論、近衛隊長として王都の安全を保つ責任と力量がありますが、戒厳令も早期に解除せねばならぬ故にそれまでの間に便乗して騒ぎを起こそうとする者どもを潰しておきなさい。多少強引な手法を用いてもこの際は構いませぬ」
「承知つかまつりました。直ちに近衛隊を動員して王都の警護にあたり、反乱の恐れがある者、動揺して不要な騒乱を起こそうとする者、また地下に潜行しての活動が疑われる者などを摘発して然るべく処置致します」

 女王の意図を正確に汲み取ると、鋼鉄の王クルトバーンは王都の治安維持のために部下に召集をかけるべく謁見の間を退出した。その才覚は銀の槍の騎士ヒュンケルトには遠く及ばないが、彼自身もそれを自覚して自らを過大評価することがなく揺るがぬ忠誠心は信頼に値した。平静さえ取り戻せばマールの厳格さも得がたいもので、両者にはヒュンケルトなき後の女王の両腕となってもらわねばならない。巨大な空隙は一朝一夕で埋まるものではないが、今は穴を埋めるよりも痛みを和らげ忘れさせることを考えるべきだろう。
 巡視隊の統率やその後の再編については頭の痛い話だが、幸いなことに三十年をかけてヒュンケルトがつくりあげたハイランドの管理システムは充分に機能を果たしており、有能な指揮官を欠いても現状の維持であれば問題なく可能だった。マールとクルトバーンの間にも対立はなく、むしろその点では魔王軍から転向した怪物という出自でありながら控えめで人の後ろに立つことができるクルトバーンの資質を女王は高く評価している。かつて彼が親しかったポールやテオからの影響を考えずにはいられないが、誰であっても正当に評価する目を持たなければ当時のエレオナ姫が少年ダインを見いだすことはなかった。

 美しく気高い女王エレオナが未来に続くべき航海の舵取りに思いを傾けている間、鋼鉄の王クルトバーンは早々に近衛隊を率いて王都の巡回に乗り出しており不穏な地域に突入しては暗がりに光と風を徹底的に吹き入れていた。戒厳令に隠れて酒を酌み交わしていた不埒な男たちや、英雄の喪であるにも関わらず物資を買い占めるべく暗躍していた商人、怪しげな談義に耽ろうとしていた者などをまとめて連れ出すと老若男女の区別なくまとめて処断してしまう。クルトバーンの粛清は強引で拙速ではあったが、ヒュンケルトの死に乗じて治安が乱される前に機先を制することはできた。鋼鉄の王はあくまでヒュンケルトに遠く及ばないというだけで、決して無為ではないことを彼を知る幾人かは理解していた。
 鋼鉄の粛清が王都を平らにならしている間、大神殿の地下にある改心者収容室ではむざむざと逃げ帰っていたヒュンケルトの旧部下たちが両の手足を壁に縫いつけられ、犯した罪にふさわしいだけの罰を最高司祭長マールじきじきの手によって与えられている。

「あの方の最期を見届けなかった目など不要でありましょう」

「あの方の救いの声を聞き逃した耳も不要でありましょう」

「あの方の危難に逃げ出した足など不要でありましょう」

「あの方を守るにあたわなかった騎士に、手綱を握る指など不要でありましょう」

 救われぬほどの重い罪を犯した罪人たちは、簡単に死なぬように身体の端から少しずつ少しずつ切り取られていき、自分たちの罪をよく自覚できるように半ばつぶれた足を生きたまま家畜に食わせて循環の法を体現させられたり、それらの様子を互いがよく見えるように向き合わせて縫いつけられていた。マールが敬愛するヒュンケルトを見殺しにするような愚かな者たちは彼女自身の手で厳しく裁かれなければならない。細かくちぎりながらこまめに癒しの奇跡を用いることで、かろうじて激情を慈悲が押さえつけていた。
 ヒュンケルトを討った悪逆な賊が魔法を用いたという話は愚かな大魔導士ポールの姿をマールに思い出させる。賢者アーベルの弟子として机を並べた間柄であり、汚らわしいメアリの妄言は別にして彼女が同門の徒に好意を抱いていたことは事実というより当然だった。気の弱いところはあったが、いざとなればあれほど頼りになる者はおらずダインやヒュンケルトですらポールの言葉に疑いを持たなかった。だが戦いが終わってダインもポールもいなくなった喪失感を埋めたのはヒュンケルトに他ならず、過去に逃げ込まず現在のために血を流した彼こそ愛されて然るべきである。

 伝説の戦いで大魔王ハンが倒されて勇者ダインが帰らなかったとき、世界の再建に臨む人々を追いてポールが王都を去ることを知って皆が止めようとしたが、ポールの傷心を知っていたマールやクルトバーンら幾人かは彼を送り出している。当時それに反対したのはエレオナ姫くらいのもので、ハイランドを去るにしても行き先を明らかにしていずれ戻るように強く求めたがポールはダインの故郷であるデミルーンに行った後は行方が知れなくなりそのまま三十年が過ぎていった。
 女王が何を恐れていたか、マールは今になって理解できる。ポールではなく彼の魔法を野放しにしてはいけない。もたらされた平和、打ち立てた正義と秩序を覆すことができるような力は厳格に見張られているべきなのだ。たとえポール個人を信頼し敬愛することができたとしても、ポールの魔法が心ない者の手に渡ればそれは人と世界を傷つける刃になり毒にもなる。現にそれはマールの三十年間の思いを汚し、現在の大切な人を奪い取ったではないか。

 マールは大魔導士ポールを憎まずとも彼の魔法を憎み、その魔法を最も邪悪なことに用いた賊に尽きることのない憎悪の火を向けることができる。その時だけは彼女の激情を慈悲が止めることはできなくなるだろう、それは神々に仕える者としてふさわしくない思いかもしれないが、強すぎる慈愛の心がなければ強すぎる憎悪の念も生まれることはない。そして愛すべきヒュンケルトを見殺しにして、憎むべき賊を見過ごした無能者どもは可能であればすりつぶされても生きながらえて自分たちが犯した罪を心から思い知るべきなのだ。
 人のいう煉獄にあって彼らは火に炙られることも拒絶され、上天に昇ることも奈落に落ちることも拒否されると肉体も魂も消えぬまま流れ出た血と絶叫だけが大神殿の地下に塗りたくられていった。


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