地下室

五章.アヴァロンの戦い

 落ちた男爵アプローズ、蛮人ウーサー、そしてルッケンバイン二世。彼らが放棄されたアヴァロンで互いに出会った理由は単なる偶然によるものですが、彼らがその島に集まった理由は偶然によるものではありません。ゼノビア王国によって制圧された後、放棄されたアヴァロン島には官憲や軍団の目が向けられることがなく、王国に反感を持つ者が非公然に集まるには都合がよい場所となっていました。
 アヴァロンが放置された、その理由はいくつか存在します。最大の理由は権威と権力を一身に集めたゼノビア王トリスタン自身が島の存在を軽視したことですが、島で唯一の価値があった神殿が破壊されて住民はほぼ全員が逃亡するか拘留されてしまい、あとは遺棄された死体だけが残された地を重視する理由は王ならずともないでしょう。仮に見捨てられた地に不穏な連中が集まったとしても、改めて制圧すればよいだけで隠れる場所とてない島は討伐するにもよほど楽というものでした。

 騒乱の末ではありましたが、民衆と軍団と信仰を統べることになったトリスタンは新しい本山を王都に置くと神殿を建て替え、自ら祭儀を執り行いながら民衆には恩赦を与えて軍団兵には退役と再編成を進めます。伝説の戦いが終わってもなお続いていた混迷や騒乱がようやく収束して、退役した人材が地方の行政や市井に関わるようになればいずれ統治の助けにもなるでしょう。こうした施策のほとんどはトリスタンを助ける尖塔の賢者、ウォーレンの助言によるもので、かつて自分も賢人と呼ばれていたサラディンが皮肉な笑みを浮かべながら彼らの統治を讃えます。

「伝説の戦いが終わって、トリスタンと彼を支える人々は真理の尖塔を建てると俗世に関わらぬ知識が王を助けるという体制を作り出した。そして新生ゼノビアでただ一人、その塔に一人坐している者がかつて赤毛の英雄を導いた賢者ウォーレンだ。塔は閉ざされていて誰が入ることも関わることも許されず、ただ王だけがその部屋で賢者の言葉を聞くことができる。
 王の一身に力を集める代わりにその王に直言できる者を設け、しかも彼はあらゆる権威も権力も得ることはない。いささか極端だが、それは正しい方法の一つだろうとは儂も思う。統治とは人民の利益だけではなく共同体の利益も考えねばならず、それが相反するときにいずれかを選ぶ原理と原則が必要だからだ。そして統治に携わる者にどのように権力と権限を与えるか、あるいは与えないかが政治体制というやつなのだからな」

 皮肉めいた、真意の知れない笑顔を浮かべながらサラディンはそう言いました。帝国を打倒して、新しい国を治めるために新生ゼノビアは新しい法律を編みましたが、それを実現するトリスタンは多くの者が疫病と戦乱に倒れたことでより多くの難事を彼一人の手で解決しなければなりません。俗世を断って王に助言することができた尖塔の賢者ウォーレンと、軍団と宗団を束ねる神聖騎士団長ランスロットの両名がいなければそれすら中途で挫折したことでしょう。

「まあトリスタンにすればうんざりするほど人が死んでようやく統治に専念できるようになった。そんな忙しい中でアヴァロンの廃墟なんぞに関わる理由も余裕もないさ。だがその日暮らしの文無しはゴミ捨て場で残飯を漁らないと生きていけない。残飯漁りの正体なんて、それこそトリスタンにはどうでもいいことだろうて」

 アヴァロンへの航路はもちろん閉鎖されていましたが、だからこそ非公然に海を渡る手段さえ手に入れれば他に見つかることなく島にたどり着くことは容易でした。島に残されている砦や建物を占拠して、集まった者が別の者を呼んで小さな集団が生まれる中で中核となった一人が「落ちた男爵」アプローズです。かつてゼテギニア帝国で高位にありながら、伝説の戦いで敗れると平民に落とされていたもと貴族は今でも屈辱と野心を失わず誰よりも貪欲に自分と仲間たちの名誉回復を望んでいました。戦いから十年以上を経て、未だ壮年期にあるアプローズは彼と同様の境遇にある貴族たちの心情を代弁して拳を握ります。

「もともと貴族とは伝統を基盤にして帝国を支えてきた名士たちの後裔だ。確かに我々は人民に選ばれた者ではないがそれは皇帝や王も同様であり、だからこそ人民の利益よりも国や領地全体の利益を考えることができる。ひるがえって今の惨状を見ろ。新生ゼノビアは貴族が皇帝を支えた帝国に代わって一人の王がすべてを支えている、それで結局は人民の意に添わぬのであればかつてのゼテギニアよりもトリスタンの統治こそよほど性質が悪いではないか」

 アプローズが最初にアヴァロンに上陸したとき、目にしたのは同士討ちの末に果てたのであろう多くの屍と縛り上げて放置された多くの犠牲者の骸でした。そのほとんどは動けぬままむごたらしく死んでおり、奇跡的に助かった数人を除けば腐敗と疫病の原因とならぬように埋めてしまわねばならず誰が最も残酷であるかとアプローズは問わずにいられません。色の濃い金髪を後ろになでつけた、もと貴族は従者や仲間たちにつるはしを握らせると地面を掘り起こして死体を放り込ませながら彼らの不運とそれをもたらした者の悪徳を信じています。

「トリスタンは帝国を打倒した英雄などではなく、帝国が倒れた後の統治権を要領よく手に入れただけの者に過ぎない。それが旧きことは悪だとして伝統を軽んじると我々を追放したのだ。刹那的な幸福を求める者たちが彼になびいているが、伝統を知る者が大衆に迎合することなく、真に国のためを考えて人々を導くのでなければ早晩この国は野獣のはびこる地となるであろう」

 アプローズを支持する者の殆どは既得権を奪われたゼテギニアの旧貴族階級のように思われていましたが、純粋に王国の現状を嘆いている者が彼の懐古的な理想に同調した例もないわけではありません。アプローズは追放されたゼテギニアの旧貴族と、現実に不満を抱いているゼノビアの不平分子の間を結びつけるとアヴァロンで非公然な謀議を重ねています。それが実際的な効果を生むことなどまるでありませんが、集まって文句を言うだけしかなかった烏合の衆に無駄な資金を投入してくれたのがサラディンをはじめとする商人たちでした。

「投資になるか投機にすらならないか、それは金を出す儂らが決めることさ。焦げ付くのは承知の上、だが金は出しても我が身の危険や騒動はごめんこうむりたいものだ」

 両手に宝石の指輪をひらめかせている、陽気で豪快な老人の言葉は健全な商人の本音だったでしょう。彼らは求められればアヴァロンに隠れている不平貴族にも、ゼノビア王国やトリスタン王にも力を貸してためらうことはありません。金銭は主義も思想も持たないから人を助けることができる、それがサラディンの理論ですが老人の本音では犯罪に関わってまで我が身に危険が及ぶのも願い下げだったでしょう。金はもうけたいが刑場に送られるつもりはない、そううそぶいていたサラディンは一人の青年を皆に紹介します。

 ルッケンバイン二世は潤沢にほど遠い資金を元手に、アヴァロンの不平分子たちの懐を豊かにしてみせた立役者である青年の名前です。浅黒い肌に造作の大きな目や口をして、商人というよりも冒険家を思わせる気質と表情が年齢以上に幼い印象を人に与えました。放置されたアヴァロンが瓦礫と遺体で埋められていることは耳ざとい人間の多くが知っていて、王国は不干渉を決め込んでいましたから青年は火事場泥棒よろしくアヴァロンに乗り込むと「復興事業」に先んじて、しかもその資金を個人的な借金で賄うつもりでいます。復興が無駄に終わるか、王国が介入してすべてを接収すればルッケンバインは首を吊るしかありません。
 若いルッケンバインの父親は一代で巨億の財をなした商人でしたが、異常なまでの金銭への執着と欲望に取りつかれた性格を人に揶揄された人物でもありました。事故で急逝した父への尊敬と反発の双方を心に秘めて成長したルッケンバインは、金に執着しない事業を完成させることを自らに誓います。内海の砂粒よりも多いと言われる彼の借金の貸主になったサラディンは、昔の自分よりも今の自分に性格が似ている青年にカロリンとアイーシャを紹介しました。新生ゼノビア王国に反抗する、その絵を気に入ったルッケンバインはそれこそ国一つが買える借金を抱え込みながら平然としてアヴァロンの娘たちに手を貸していったのです。

「借金なんてものは帳簿の色が違うだけで同じ金には違いない。どうせ使うなら派手に使えばもうけも派手になるというもんです」

 このようなことを広言する人間はそれこそ放し飼いにするしかありませんが、自由に放し飼いにされたルッケンバインが債権者を裏切って逃げることがなかったのは、金銭に関する彼の信条が心からの本心であったということに他なりません。彼よりも気概の小さな、つまり正常な思考のできる良識ある商人たちは彼に小さな投資を行い、そしてルッケンバインはそれを景気よく使い果たしながらいずれ千倍にも万倍にもして返してやると豪語していました。
 そしてアプローズが中核を作り、若いルッケンバインが砂ともセメントとも言い難い土台の上に城を築いているアヴァロンの独立組織に武器を持たせたのがウーサーで、古くは王国ゼノビアの辺境を守り、伝説の戦いでは帝国に与したことでその後冷遇されていた人物です。国を裏切った振る舞いに「蛮人」の異名を与えられた彼はすでに老境に入ろうとしていましたが、戦士としては健在でずんぐりとした体躯は頑健で分厚く、長い灰銀色の髪と髭は粗野な力強さを秘めています。

「金もいい、高邁な理想とやらも必要だろう。だが武器の力も莫迦にできるもんじゃあない」

 伝説の戦いを終えて後、武器からも兵士からも遠ざけられていたウーサーにとって率いる兵士が誰であってもさしたる問題はありません。野蛮な原始人だと彼を嫌悪する者がいるのも故のないことではなく、ウーサー自身も自分に対するそうした評判をむしろ当然として受け止めています。
 野蛮な原始人は没落貴族の若者や出自の定かでない傭兵くずれ、逃亡中の犯罪者まで無理矢理まとめあげると怒号と拳が飛び交うような訓練を施して軍団の母体を作ります。若いルッケンバインの資金でかき集められた彼らのほとんどは戦場など縁がない愚連隊まがいの連中ばかりでしたが、ウーサーは愚連隊ならそれでもいいと彼らの手に武器を持たせます。

 こうしてアヴァロンに集まった不平分子たちは独立軍団としての体裁を整えつつありましたが、人間の集団があってそれを牽引するには大義名分が欠かせません。破壊された神殿はそのままで、島の北端にある潟に面した小さな砦に人々が集まるとささやかな決起が行われました。叛乱の旗印にカロリンが選ばれたのは人々の思惑が交錯した結果ですが、おそらくそれ以外の結論がありえないことも彼らは理解しています。新生ゼノビア王国に従わない者たちが掲げる旗にはトリスタンが否定したアヴァロンの信仰が欠かせず、その象徴は聖母アイーシャよりも暁の巫女カロリーナがより相応しい筈でした。

「我らは古きものを破壊したトリスタンに対抗する。彼が破壊したすべてが誤っていたとは言わない、だがアヴァロンに兵を向けて暁の巫女のささやかな信仰を迫害したことに言い訳ができる筈がない」

 朗々と語る、落ちた男爵アプローズの言葉は彼らが掲げる旗として共有しなければならないものでした。帝国の復興を掲げたところで支持する者がいないことは彼らも理解しており、叛乱に正当性を与えて伝統を復活させる中で、それに参加する旧貴族の権威を取り戻すのが彼らにできるせいぜいの望みであることは認めざるを得ません。打算だけであれば無力な小娘にしか見えぬカロリンを利用して、迫害された貴族たちを少しでも救うことがアプローズの大義名分でした。
 そのカロリンやアイーシャに従うことを申しつけられた、若いルッケンバイン二世にとって彼女たちは彼の最大の債権者であるサラディン老人に紹介された客となります。冒険とスリルを求める投機家にとって、世界に対して喧嘩を売ろうという叛乱軍の象徴カロリンは痛快極まる存在でした。

「サラディンの爺さんに紹介されたのがこんな可愛らしい娘さんだったのは驚きだが、その娘さんが俺より楽しい博打を打とうとしているのはもっと驚きだね」

 この人物だけは紹介された最初からカロリンの味方をすることに決めていたようでしたが、彼の気質と性格がどんなスリルを彼以外の人々にもたらすかは見当がつきません。そして蛮人ウーサーはといえば彼の錆びついた斧に戦場の輝きを取り戻す機会さえ与えられれるならば、それに文句を言う筋合いはどこにもありませんでした。彼は燻っていた自分に声をかけたアプローズに恩義を感じていましたし、失われた面目の一部でも取り戻す機会が得られたことに身命を賭すつもりでいます。伝説の戦いで彼が対峙したランスロットは今ではゼノビアの神聖騎士団長となり、動乱と疫病で多くの人が失われてもウーサーが呼ばれることはなく戦場に戻る機会を半ばあきらめていました。
 誰一人信仰を知らず、誰一人アヴァロンへの思いを持ち合わせる者もない彼らはカロリンという人形を掲げることで自分の望みを果たそうというだけでしたが、掲げられる赤毛の娘はそれを承知した上で人々を導こうとします。この地を訪れる前、カロリンはアイーシャとサラディンに語りました。

「私たちがどのように集まるのかは問題ではありません。人が集まってくれたのならば、それを繋ぎとめるのは私たちがしなければいけないことなのですから」

 人々はただ自分の利害と打算で集まっただけかもしれない、それに感謝して小さな芽を育てるのは信仰を持つ者の役目です。それができなければ彼女たちの信仰はその程度のものでしかなく、いずれ花が開いて実を実らせるまで、それを守るためにカロリンは国すらも相手にしなければならないのでしょう。悲壮な決意ではなく、それ以外にできることがない痛ましさに表情を変えないよう苦労しながらサラディンは口を開きました。

「アヴァロンの北端は船を寄せるにも適さない広い潟の周囲を輪のように取り巻く細い道が繋がっていて、その一番高い場所が岬となっていて灯台を兼ねた砦が建てられているが・・・」

 そう語っていたサラディンは彼が久しくすることのなかった賢人としての顔を見せていました。

「ある程度の人数を抱えても充分に使える大きさだし、島に唯一ある港から一番遠い場所だから、もしもトリスタンが兵を向けたとして備える時間も稼げるだろう。だがあんな小さな砦で軍団を相手にできるはずがないし、輪になった道を二方から攻められたら逃げ場もなくなってしまう、せいぜい考えておくことだな」

 そこから先はサラディンの責任ではなく、アヴァロンから遠く離れた屋敷に腰を落ち着けた老人は彼が紹介した若いルッケンバインを通じて金を渡すとあとはもう関わろうともしませんでした。まず自分の足で立つことすらできなければ、そのまま滅びたところで誰が気にすることもない、そしてサラディンに言われずとも今は見逃されているアヴァロンがいずれ不平分子の巣として再び王国の進攻に晒されることは疑いありません。
 手配された船でアヴァロンに戻ったカロリンは、先に上陸したアプローズたちが建てていた墓に祈りを捧げると神殿ではなく島の北端にある小さな砦へと向かいます。仕方なく彼女を助けるために集まっていた人々を前に、赤毛の娘は不幸な人々の骸を弔ってくれた労苦に頭を下げてからゆっくりと背筋を伸ばしました。

「私たちは王と王国に不満を持つ者の集まりで、それを王国は認めないでしょう。いずれ彼らがこの島を訪れる前に、私たちは必要な準備をしておかなければいけません。そのために改めて皆さんにご協力を頂きたいのです」
「それは理解しているが、ゼノビアが大軍を率いてくれば戦うなど無謀に過ぎる。今は雌伏して機会を窺う、その我らに必要なものはすばやく逃げるための算段ではないかと思うが」
「アヴァロンは森も茂みも少なく、兵を潜ませて奇策に頼ることもできん。逃げるならいっそ早いうちに島を捨てることを考えてもよかろう」

 アプローズやウーサーの言葉は臆病ではなく、しごく当然のものです。彼らの望みは全滅でも自滅でもなく、寄せ集めの愚連隊が大軍を相手にして勝てると思うのがよほど誇大妄想というものでした。いまはゼノビアを刺激せず、いずれ相手に隙やほころびが生まれるのを待つしかないのではないか。ですが、その言葉に赤毛の娘から発せられた言葉は意外なものでした。

「戦えば勝てます。問題は勝ったあとどうすればよいかです」

 カロリンの表情には自信や確信よりもっと穏やかな何かを感じさせて、人々は彼らが掲げた人形の真意をにわかに理解することができません。後のゼノビア衰亡戦に繋がる長い戦乱の第一幕、カロリンの故郷であるアヴァロンは再び戦乱の舞台となります。

 王都ゼノビアから船を出して、舳先を西に向けて数日間を進んだところにあるアヴァロン島。かつて島の中央には石造りの神殿があって礼拝する人々が訪れていましたが、今では瓦礫しか残されておらず宗団の本山も法皇トリスタン、フィクス・トリストラム・サント・インペラトルによってゼノビアへと移されています。
 トリスタンは法と信仰と軍団を率いて王国を導くと、平和と繁栄の旗が多くの人々の頭上に掲げられましたがその恩恵を受けることができなかった者もごく少数存在しました。いつの時代でも、どこの世界でもそうした例外が存在しない完璧な統治が実現した例などありませんが、より多くの人が恩恵を受ける国はそうでない国よりも正しいと考える者がいます。わずかな者だけが恩恵を受けられない国はそうでない国よりも正しいのだ、と。

「アヴァロンに不穏な動きがある、とは事実か」

 ゼノビアの王城にある謁見の間で、目の前に臣下を並べていたトリスタンはさしたる重要事でもないかのように尋ねます。アヴァロンは先の騒乱、第二次宗俗戦争を終えてから王の直轄地として置かれていましたが、トリスタンはさして価値のないこの島を放置するにとどめていました。そのアヴァロンに不法に人々が住みつく、王都から決して遠くない島に罪人や不穏な連中が渡る可能性があったことをトリスタンは承知しています。

「清浄な水で生きられぬ魚であれば、濁った池に集めることができるとはウォーレンも語るところである」

 真理の間に座している、尖塔の賢者ウォーレンの名をトリスタンは口にしました。これまでアヴァロンを放置していた理由の一つは王にそれだけの余裕も時間もなかったこと、もう一つは目の届く先にあるアヴァロンで多少の騒乱が起きてもすぐに処断できることに他なりません。トリスタンは雷光軍団のアッシュを呼ばせると、数刻もせずに現れた将軍に告げて濁り水に集まった魚たちを今一度釣り上げるべしと命じます。
 雷光のアッシュは今や疾風のカノープスや神聖騎士団長ランスロットに次ぐ軍団長の一人であって、伝説の戦いから生き残っている数少ない人物でした。そのような英雄が必要とされる時代もすでに終わりが近づいていましたが、今はまだ英雄の活躍が必要だと頭を垂れたアッシュは法皇トリスタンの命を受けると、雷光軍団に無敵軍団を編入した彼の兵士を率いてアヴァロンへ船を走らせます。

「神様に槍を向けるのもこれで三度目、か」

 部下には聞こえないように、呟いたアッシュは船上から見えるアヴァロンを臨みました。不穏分子たちは島の北端にある、灯台と見張り台を兼ねた小さな砦に集まっていて南から上陸すれば妨害を気にすることもありません。島の周囲は浅瀬と干潟に囲われていて船で近づくのは難しく、逃げられる心配もなければ万全な準備をして討伐できる筈でした。
 砦の周辺は広い潟を取り巻く陸地が輪状に繋がった細い道になっていて、輪の北西部にある、特に細い陸地が岬のように切り立って高くなった場所に砦が建てられています。船団を港に着けたアッシュは上陸させた軍団をすぐには砦に向けず、宿営地を築きながら城攻め用の車や櫓を組み上げてことさらゆっくりと準備を進めているように見えました。軍団の様子が伝えられて、カロリンは改めて砦の人々を集めます。

「たぶん、あちらの指揮官は私たちに降伏をしてもらいたいのです。これ以上この島で血を流さずに済みますし、そうでなくとも万全に準備をすれば犠牲を減らすことができるのですから」
「貴女に言われた通り、おかげてこちらも準備をする時間はできた。だが本当にうまく行くものだろうか」
「策が成功することよりも、そのあとで人々が私たちに賛同してくれることを願いましょう。力は尽くして頂きましたから、今は祈りは必要ありません」

 疑念が抜けずにいるアプローズに言われるまでもなく、砦の人員は上陸した雷光軍団の数にはるかに及びませんがそれでも五千六千を超える相手に一千近くは揃えることができました。アプローズやウーサーは質を重視せずに兵士の数だけを求めることはできましたが、帝国の旧貴族や追放された宗団の聖職者、金で雇われた兵士から流亡の犯罪者まで集めた集団で国を相手に戦うなど正気とも思えません。

「雷光軍団といえばあの北方戦役から戦場にあった歴戦の兵士たちだ。寄せ集めの愚連隊がまともに戦えば半刻も持たんだろうな」
「質でも人数でも装備でも劣る。赤毛の娘はああ言っていたが、これで貴殿は本当にうまく行くと思っているのか」

 潮風に金髪を撫でつけながらアプローズが問うと、ウーサーは灰銀色の髭を手でしごきました。

「さてな。伝説の戦いが終わって、ランスロットに敵対した儂は軍から遠ざけられて二度と戻ることはないと思っていた。その儂に再び戦場に立つ機会を与えてくれたのはお前さんとあの娘だ。今はただ子供のように血が騒ぐのを止められずにおるよ」
「ふむ・・・蛮人とはよくいったものだな」

 上陸した雷光軍団は広い潟を回り込む南の細い道か、やや幅が広い東の道から砦を攻めるしかありません。倍以上の兵がいることを考えればおそらく軍団を二つに分けて両方の道から攻めて来るでしょう。船で来たからには馬に乗っている者は少なく、雷光を思わせる素早い移動はできそうにありませんが重装備を固めた軍団に暴徒の一団が対抗できるとは思えません。
 宿営地からすべての兵士を出したアッシュは、剣と槍の林を掲げさせて城攻めの櫓を並べると島の北端へと向かいます。全員で出立したのは仰々しい装備と合わせて叛徒どもを威圧し、降伏を迫るつもりだからで首謀者を引き渡して両手を挙げてくれれば流れる血は少なくて済む筈でした。上陸したとき、遺棄された同僚たちの骸が弔われていることに気が付いたアッシュは、叛徒を相手に苛烈な仕打ちをしたいと思うことはできずにいました。

「彼らは人数が少なく砦に篭るしかない。我らは道が狭く大軍を広げることは難しいが、その分厚みを増すことができる。一隊に城攻めの櫓を持たせて南から攻めさせている間に、本隊が東から回り込む。それで充分だろう」

 相手が少数でも砦に篭られたら攻略するのは難事となり、勝てたとしても相応の犠牲は避けられないでしょう。時間をかけても犠牲が減らせるならばよい、それがアッシュの正直な心境でした。

「砦に篭った敵が動かなければそのまま挟み撃ちにする、だが東の本隊を遅らせることで彼らを誘い出すことができるかもしれない」

 雷光軍団を率いる熟達の指揮官が部下に説明します。

「敵が出てきたら南の部隊も後ろに下がって充分に敵を誘い出す。その間に東から本隊が進軍して彼らを挟み撃ちにする。南の部隊はむやみに戦おうとはせず、ただ犠牲を出さないように時間を稼いでくれればよい。攻城器は必ずしも使う必要がない、砦に篭っても無駄だと彼らに思わせることができればそれでよいのだ」

 アッシュ自身は東の本隊を率いることを宣言すると、熟練の指揮官は戦いを前に油断することも気を弛めることもなく明朝一番での出立を命じながら、夜襲に備えた警戒も怠ることはありません。これを迎え撃たなければならない、カロリンはその内心がどうであれ一見してわずかな動揺を見せることもなくアプローズとウーサーの両名に指示を送ると彼女自身も戦場に立つ用意をしています。

「なにしろ道が狭いのですから、大勢が移動するなら選択肢は限られてしまいます。それでも彼らはできるだけ味方の被害を減らしたいと思って、きっと優れた戦い方を考えていることでしょう。ですが、実はそうではないのです」

 カロリンはゆったりとした厚手の祭衣の裾を動きやすいように短くして、鎧の代わりに革の胴衣を着て外套を羽織り、その姿で儀式に使う聖剣と聖杯を下げて島に数頭しかいない馬に乗せられています。北岸の潮を含んだ風が豊かな赤毛をなびかせたとき、駆け込んできた兵士がゼノビア軍接近の報を届けました。
 狭い南方の道に現れたゼノビア軍は整然とした隊列を乱すこともなく、後ろに並べられている攻城器は貧弱な砦よりもよほど城砦じみて見えました。もしも敵の指揮官が犠牲など気にせず単に勝つことを考えていれば東から来る本隊を待ってからただひたすら攻めるだけでよいでしょう。その東の軍勢が姿を見せないことは、カロリンたちを砦から誘い出すつもりでいることは明らかです。

「それでも我慢して出ていかなければ、ただ全滅させられるだけですものね」

 こうなればカロリンは相手の思惑に乗るしかありません。蛮人ウーサーを先頭に、アヴァロンの全員が砦から駆け出すと南の包囲軍に向けて絶望的な突進を始めます。迎え撃つゼノビア軍は力なく後ろに下がりながら、隊列を崩さず相手を砦から引き離そうとします。あとは耐えていれば敵を挟み撃ちにできる、すべてはアッシュが目論んだ通りでした。
 アヴァロンの人々が砦から出たことを知ったアッシュは旗下の本隊に命令します。戦場をチェスの盤面のように移動して、櫓から出た駒を挟み撃ちにして砦に帰る道を遮断する。それで絶望した相手は降伏するか全滅するしかなくなります。叶うならば相手が勇敢ではなくすぐに両手を挙げる臆病者であって欲しいものでした。

 ですがアッシュに目論見があったように、カロリンの目的はアヴァロンの人々を挟み撃ちにさせることでした。南と東の二方向から挟み撃ちにしてしまえば、もしも他の道があったとしてももう兵士はいないはずです。埋めていた目印の場所を見つけて、ウーサーは大声でがなり立てると全員が潟に踏み込みました。

「儂に続けよ!肺が敗れるまで走れ走れい!」

 南のゼノビア軍の目の前で、右に大きく曲がったアヴァロン軍は潟に踏み込むと深い泥のはずの地面を勢いよく駆け抜けていきます。唖然とする視線の先を、あらかじめ石や板を埋めておいた細い道を全力で駆け抜けたアヴァロン軍はそのまま島の中央から南に向けて駆けて行きました。指揮官がいない南方軍は耐えて時間を稼ぐように言われていたのですぐに動くことができず、追いかけるにも重い装備と攻城器の群れが足を引っ張ります。潟の向こうでの騒ぎを遠望して、ようやく状況を知らされたアッシュは相手の思惑を悟ると顔中を蒼白にして叫びました。

「いかん!本隊は転進、敵を追撃するぞ!」

 ゼノビア軍が相手を威圧するために大軍と大型の兵器や攻城器を揃えること、それでいて敵を砦から誘い出すために距離を置くこと、それらのすべてはアヴァロン軍を誘い出してかつ逃がさないためのもので、すでに逃げてしまったアヴァロン軍を追いかけるためのものではありません。今やウーサーに率いられた人々は、全速力で島を縦断すると彼らが本当に戦うべき相手がいる南岸で港と船を守っているごくわずかな警備兵に襲いかかるべく駆けていました。

「さあ儂らの初陣だ!存分に戦え!」

 ウーサーが鬨の声を挙げると同時に、すぐ後ろで馬に跨っていたカロリンも厚い外套を脱ぎ捨てると赤毛をなびかせて陽光に聖剣を掲げます。照り返す輝きを全員が追いかけるように、その輝きを目にした者は自分たちの出自も卑しさも忘れると、神の加護を受けた聖なる戦士のように守る者もいない宿営地に襲いかかりました。
 重装備を着こんだ雷光軍団がアヴァロンの南岸にたどり着いたとき、宿営地も港も火がかけられて黒煙が立ち上っており、船はすべて奪われるか燃やされて狡猾な敵は海上の小さな点になっています。茫然とするアッシュの軍団は島から出る方法すら奪われて、これだけは建てられて間もない墓標と共に逃げた加害者を視線で追うことしかできませんでした。


六章.海戦を読む
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