堅牢な城壁に守られていた筈の王都ゼノビアは、叛乱軍が建てた二重の壕と塁壁に囲われると街道は封鎖され港も破壊された姿をさらしていました。ただ一人で国を支え、身命を賭して抵抗を続けた法皇トリスタンも混迷する王都で起きた大規模な暴動に巻き込まれると遂に人民の剣に倒れます。トリスタンの下には未だ叛乱軍に対抗する多くの兵士が残されていましたが、戦いに耐えられなくなった人民は短絡的な絶望を暴力に変えて彼らの王に拳を振り上げました。
「陛下!民衆が広場と大通りを占拠しております!」
満を持しての出陣に何の実りも得られず、城内に兵を返そうとしたトルスタンの下に忠実な式部官の一人が駆け寄るとそう告げました。常は朗々と響く言葉は心中の狼狽を映して落ち着かず、辛うじて通り抜けることができた大通りは今では民衆が殺到して喧騒で溢れようとしています。逃げ場のない不安と絶望を破裂させた人々が殺到したのは広場だけではなく、ある者は倉庫をこじ開けようとして衛兵と衝突し、ある者は神殿に押しかけて保護を求め、ある者は不可能になった脱出を強行すべく港に向かうと封鎖された海に身ひとつで飛び込びました。恐慌に流されなかった民衆はいくらでもいましたが、時が経つとその数は減って暴徒の声ばかりが大きくなる一方で、すぐに衛兵の手も足りなくなると興奮した人々を鎮めるのに何の役にも立たなくなりました。衛兵の多くも決戦に駆り出され、不足していたことが事態の悪化に拍車をかけていました。
やがて王都の各所で少数の衛兵と大勢の暴徒との衝突が起こり、収拾がつかなくなると悲鳴と怒号が飛び交います。神殿に押し寄せた人々もすぐに本殿に収容しきれなくなると押し合いが起きて、少なからぬ者たちが押し潰されたり地下の納堂まで埋め尽くすと身体の弱い老人や子供が人間の下敷きになってかんたんに死にました。港に飛び込んだ者は多量の鉄釘や材木が浮いたり沈んだりしている海に板きれ一枚で泳ぎ出そうとしましたが、すぐにひっくり返ると息も継げぬ汚物まみれの海に流されてしまいます。倉庫を襲っていた暴徒は当然のように衛兵たちに襲いかかり、槍や槌で次々と殴り倒されましたが一人に数十人がのしかかると目や鼻を潰したり手足をねじ曲げました。倉庫が破られると狂喜した人々は誰彼構わずに食料や物資を奪い合い、血と暴力に酔った彼らは人を殺してでも自分以外の者に戦利品を渡すまいとします。
北門でことの次第を聞いたトリスタンには援軍の気配もなく、暴徒の波に隔てられた王城に帰らなければ身を休めることも当面の策を考えることもできそうにありません。残余の兵を連れて既に日が落ちかかった大通りに足を踏み入れますが、常は法皇を歓呼で迎えた民衆が今は動物の群れにしか見えませんでした。
「王の帰還である!暴徒どもよ道を開けよ!」
必要以上に強圧的な要求が王都の状態を示しています。興奮した民衆が襲いかかると王を守ろうとした兵士との間に衝突が起きたと後の史書には書かれていますが、実際には王も民衆も話を聞くつもりはなく武器を持った兵士たちが大通りへ突入を始めていました。盾をかざして長槍を上下に振りながら前進すると鎧も着ていない人々を切り刻み、小隊は短い剣を突き刺すとひねってから引き抜き、ゼノビアの神聖騎士団はただ城に戻るためだけに人々を殺していきます。そして王が暴徒たちをゼノビアの人民と思うことをやめたように、人民も自分たちを殺す者を王と思うことをやめました。
不意に、喧騒の中で誰かが投げた石の一つがトリスタンを乗せた馬の眉間に当たり、この国で最も高貴な者が乗ることを許されている名馬がいなないて立ち上がるとかつて王だった男を地面に落とします。落馬したトリスタンは石畳の歩道でしたたかに腰を打つよすぐに立ち上がりましたが、度を越した混乱の中で誰の目にも届く馬上に姿を見せていた王が突然消えた、それがどれほどの危険か気が付く者はいませんでした。
それまで規律の取れていた兵士たちは一部が狼狽し王を気遣って暴徒に背を向けると、そこから人々が殺到して地に落ちた王に群がろうとします。トリスタンとその側近は自分たちに近づいてくる者が味方か敵かも分からず、やみくもに名剣を振り回して側近くにいる者たちを傷つけました。争乱のただ中、最後の瞬間にあってとうとうトリスタンは自分以外の誰をも身辺に近付けることをやめてしまったのです。もはや彼は人民の王であるどころか、誰を信じることもできぬ哀れな一人の男でした。
「陛下!危険です、右に・・・」
トリスタンを王と認めた最後の忠言が、誰の口から発せられたものかは知られていません。その言葉に首を巡らせたトリスタンの視界に、力強く伸びてくる名馬の後足が一瞬入ると蹄鉄を打ちつけられた蹄が下あごを右下から砕いて首の骨を折りました。暴れ回る名馬は一撃で死んだ男の上に飛び乗ると、何度も飛び跳ねてその下でトリスタンはぽきぽきと音を立てながら赤い飛沫を飛び散らせます。馬はその場で何本もの剣や槍に突き刺されると、かつての彼の主人の上にどさりと倒れてこれも死んで動かなくなりました。トリスタンの死に際して、それを目にした者はそのあまりに不名誉に耐えることができず後にこう記します。
「フィクス・トリストラムは身命を賭した決戦に遂に敗れると、絶望した人民の剣にかかって倒れた」
王都の混乱を知ったカロリンの叛乱軍は、抵抗がなくなった城門をかんたんに破ると王都ゼノビアに足を踏み入れます。数人の精鋭を連れて南の正門をくぐり、入ってすぐの内陣に留まるとそこで混乱の夜が明けるのを待ちました。塁壁の内側では南に塔軍団の残りと合流した若いルッケンバインが、東には審判軍団が、北は蛮人ウーサーと彼の力軍団が守ります。
彼らを外側から囲っていたゼノビアの援軍は既に兵を退いていましたが、補助軍を率いていたランスロットの下に激戦で負傷した雷光軍団長が息を引き取ったという報が入ります。塁壁に阻まれた王都の様子は依然として分からぬまま焦慮の夜が明けるのを待つしかありませんが、星と欠けた月が巡り、破壊された港に陽光が差し込んだときも穏やかな眠りとともに夜を過ごすことができた者は一人もいませんでした。
「閣下!あれを!」
声を上げる兵の後ろで、ゼノビアにただ一人生き残った神聖騎士団長ランスロットはすべてが終わった絶望にうなだれると馬上から槍を落とします。塁壁の向こうに辛うじて見える、楼上に掲げられているのは紛うことなくゼノビアの降伏を示す大旗でした。
「伝説のオウガバトルはこれで終わる。叛乱軍が帝国を打倒して、後釜に座ろうとした王国を打ち倒したのだから」
トリスタンが死んで、それで混乱が収まったわけではありません。カロリンは民衆を刺激しないようにゆっくりと神殿に向かい、その間に若いルッケンバインが王都にある物資をかき集めて人々に供与します。落ちた男爵アプローズは東門だけを開放すると兵士に見張らせながら人々の往来を許し、残った部隊は蛮人ウーサーに率いさせて降伏した兵士たちを鎮めさせました。城外の援軍は雷光軍団の生き残りをウーサーが引き取り、ランスロットは自らの補助軍を解体して帰郷させると虜囚として従容と捕縛されました。ウーサーはかつて自分を倒し、後に自分を冷遇した男に嫌味の一つでも言ってやろうとしましたが、あまり堂々とした態度に鼻白むと彼が聞きたかったことだけを訪ねました。
「かつて儂の城を貴様が攻めたときのことを覚えているか」
「革命の最初の戦いだ。忘れる筈はないがあまり簡単に勝てたことに拍子抜けしたものだ」
呆然自失としていた城外の兵に比べると、城壁の内側では混乱が続いていて暴動の残り火も消えておらずすぐに収まる様子はありません。聖母アイーシャは染めていた赤毛を隠すために布を深く被るとカロリンと神殿に入り、人々を鎮めるために宗団の協力を仰ぎました。その後で東門から戻ったアプローズたちも虜囚のランスロットを連れて、彼らが王城に入る頃にはすでに日も傾きかけています。王都を鎮めるのも東門の開放も補助軍の解体も一朝一夕ではできませんが、尖塔にある「始まりの賢者」ウォーレンとだけはその日のうちに会うつもりでいました。
「統治とは方法ではない。それまでよりも優れた結果により成功するのだ」
熱っぽく呟いている、虜囚となったランスロットの言葉の意味をその場にいる者たちは理解できませんでした。かつてゼテギニアが打倒されて後、人々を導いたトリスタンは石造りの王城にある彼の部屋から繋がるただ一つの扉の先に尖塔を設けました。その塔に昇る階段が遥か頭上へと通じていて、一段一段を踏むとややかな空気がカロリンの頬を撫でています。燭台に灯した火をかざして塔の最上階にある一室に昇り、装飾を凝らされている重い扉を開いて最初に足を踏み入れたのは落ちた男爵アプローズでした。
「これは?」
呟いた声はごく小さな意外さと落胆を含んでいます。これまでトリスタン以外が足を踏み入れたことのない真理の間は彼らが想像していたよりもずっと広く天井も高く、そのほとんどが膨大な量の書庫と書物で埋められています。それは巻紙であり羊皮紙を束ねた冊子であり、数万とも数十万ともつかない書物の山は一国の王を支える賢人に相応しいものに見えましたが、膨大な書庫を除けば部屋には中央に据えられた机と装飾の凝らされた椅子が一つあるきりで肝心の賢者の姿はどこにもありません。しばらく呆然として知識の山に圧倒されていたアプローズが、我に返ったように虜囚に尋ねます。
「大した蔵書の山だ、これだけあれば賢者どころか国の図書館すら作れるだろう。だがその賢者ウォーレンはどうしたのだ。王が倒れて賢者はどこにいるのだ」
「賢者が、ウォーレンがどこにいると申すか・・・くっ、かははははは」
突然、囚われの神聖騎士団長は哄笑を上げます。身をのけぞらせて額を押さえ、涙すら流しながら激しく笑う様にアプローズは気味が悪くなると、ようやく笑いを収めたランスロットは部屋じゅうを広く指し示しました。
「見えないのか、ウォーレンはここにいる。これが始まりの賢者ウォーレンだ」
その言葉にカロリンやアプローズたちは部屋を見渡し、誰もいない膨大な書物と中央にある机、そこに広げられたままの本や地図を目にします。王の部屋から繋がるただ一つの扉の先にある尖塔、真理の間に繋がる階段を往復した者がトリスタンただ一人だったことに気が付くと、到達した疑問の終着点にカロリンは口を開きました。
「では、すでにウォーレンという方は・・・」
かつて赤毛の英雄がゼテギニアを打倒して、ゼノビアが後を継ぐとすぐに蛮族を相手にした北方戦役が起きて深刻な疫病が国を襲いました。病は王妃となった聖なるラウニィーを始めとして多くの高官や貴族や民衆を犠牲にしましたが、老齢の賢者ウォーレンもまた例外ではなく彼が伝説の戦いを導いた膨大な知識や書物を王に残すと世を去っていたのです。
王は悲嘆に暮れましたが、それで新しいゼノビアを放り出すことは許されず、残された者たちは塞ぎようのない大きな穴を抱えたまま足取りの重い旅路を歩み続けなければなりません。王に助言する側近も賢者も失われていましたが、人々は失われたものを新しく取り戻すのに忙しく王を助けるなどできよう筈もありませんでした。そして、トリスタン自身も王妃ラウニィーが失われて人の助けなど得ようとは思いませんでした。
「そんな王を助けたのがウォーレンの書物だった。王とても統治の知識や経験が皆無であった訳ではない。だがかつて王には聖なるラウニィー様がおられた。あの方がご健在なら王は何もかもをおひとりでお決めになる必要はなかったのだ。そして人々は無力ではなく無能だった。この私を含めて、誰も王を助けることができなかったのだよ。
だがウォーレンが残した膨大な書物は王を助けることができた。死んだ老人が残した言葉、もはや二度と書き換わることのない文字だけが王とゼノビアを支えることができたのだ。我々の誰も、ウォーレン以上に王の助けになることはできなかった・・・これは間違いなく賢者ウォーレンだよ。ああ、始まりの賢者。この国の誰よりも賢く、王とお前たちを導いてきた膨大な紙切れがこれだ」
堰を切ったような勢いでそこまで言うと、囚われのランスロットは再びけたたましく笑います。もはや何も考えぬ、変わらぬ永劫の人が人を導いていた事実を知っていたのはランスロットを始めとするごく僅かな者だけでした。ウォーレンの知識はトリスタン一人の手に握られて、女法皇ノルンや彼女に殉じたデボネアが討たれたことも、カロリンたちがアヴァロンを追われて叛乱の旗を掲げたことも、多くの将軍が討たれたこともすべては紙に書かれた文字が決めていたということなのでしょうか。ランスロットはカロリンに身体ごと向き直ります。
「赤毛の娘よ、貴女を生かしておくべきではなかった。かつて私がこの城で英雄を殺したときのように、どんなに卑劣な手段を用いてでも貴女だけは殺すべく図るべきだった。だが賢者ウォーレンの紙切れに従う、王の手から生き延びた者がいる。それが私には面白くて仕方がなかった。壮麗な歴史画を完成させるべくトリスタンが遣わした軍勢がアヴァロンで散々引き回された、こんな痛快なことがまたとあったろうか。
その後も貴女は私の想像やトリスタンの思惑など遥かに超えて、私自身の船団も沈めると遂には王都ゼノビアすら見事に陥落させてくれた。あのとき私は赤毛の英雄を殺した、だが彼女ではなくトリスタンを殺していれば違った歴史が描かれていたかもしれないな・・・どうやら貴女たちには、それを見る権利があるようだ」
思わぬところで赤毛の英雄の死を告げられた聖母アイーシャが自失した一瞬、ランスロットは縛っていた縄を解くと剽悍な動きで彼女の手から火のついた燭台を奪います。右手には燭台が、左手には隠し持っていた短刀が握られていました。
突然の出来事に思わず飛び出したカロリンが、アイーシャを守るように抱きつくと無防備な背に向けてランスロットの刃が閃きます。アイーシャの悲鳴が響き、ですが誰もが予測した最悪の光景はそこにはなくランスロットの短刀は切っ先が彼自身の脇腹に深く突き刺さっていました。苦痛と満足の混じった、奇妙な表情で赤毛の英雄を殺した男は更に口を開きます。
「私が、あのとき後悔していなかったとでも思うのか。敬愛する彼女に、私は許されぬ刃を突き立てた。だがあれは私の意思で行ったのだ。もう一度あのときに戻ることができたとしても、やはり私は赤毛の娘を殺しただろう。トリスタンではなく、我らが愛した彼女を殺しただろう」
ランスロットが血に濡れた左手を赤毛の娘に伸ばすと、カロリンは無言のまま自分が持っていた燭台を手渡します。所詮、彼は暗殺程度しかできない男ですが、かつて赤毛の英雄を殺して今は自分に刃を突き立てたランスロットには最後に殺すべき相手が一人だけ残っていました。両手に持つ炎を掲げて、死んだ老人が残した書庫へ向き直ったランスロットの背に赤毛の娘が声を上げましたが、かすれるように絞り出した言葉は一人の男にしか届きませんでした。
「・・・!」
「ああ、そうだ。彼女もあのとき、そう言っていたな・・・」
自分の愚かさに呆れた顔のままで、炎を手にした男が書庫の奥に消えていくとあちこちからゆっくりと煙が立ち上り始めました。すでに男は助からず、助かるつもりもなく、カロリンたちは急ぎその部屋を後にします。やがて炎は大きくなりゼノビアを導いた知識はすべてが灰と化していきました。それは伝説の戦い、英雄戦争が終結してから十二年の後のことです。
・・・
こうしてゼテギニアが倒れて新たに興された、新生ゼノビア王国も一代の王の死によって失われます。ゼノビアはこの地にある都市の名前として残されるだけとなり、そこは領主として新たに選ばれた一人の貴族と、若い商人を中心にした民会によって治められることになりました。かつてゼテギニアの貴族であった領主は堅苦しいながらも開明的な人物で、したたかでたくましい商人たちを相手にして胃を痛めながらゼノビアを新しい交易の中心地として栄えさせることになるかもしれません。
カロリンと聖母アイーシャは航路が再開するとすぐに荒廃したアヴァロンに戻り、荒れ果てた神殿の脇に天幕を張るともう一度彼女たちの信仰をやり直そうと質朴な生活を始めました。戦乱に傷ついたアヴァロンでも鏡のように静かな湖はそのままで、日差しをはね返す湖水の周囲には丈の短い草が芽吹いています。天幕には護衛と称する老境の戦士が住みついていましたが、気が付くと彼は斧や棍棒を振るうではなく数頭の羊を連れて湖の周りに牧草を植えるようになっていました。ずんぐりとした体躯に長い灰銀色の髪と髭をして、日に焼けた顔に刻まれた皺が増えていくと彼の羊が増えて牧草地が広がっていく様を楽しそうに見ています。それが二つの国を滅ぼした長い戦乱の果て、無数の屍を積み上げた末の結末であったとしても、多くの者たちは自分たちの結末に満足したように見えました。
そうした中で一人、己が身の不幸を嘆いている老人がいます。かつて賢者であり商人として敬愛されたサラディンは金歯を覗かせてため息をつきながら、貴重な宝石の指輪をはめた指ですっかり白くなった美髯をしごきました。
「まったく、面倒なことだわい。もはや神様なんぞ信じぬ老人に何をさせようというのか」
赤毛の娘はサラディンをアヴァロンに迎えると、この地に書物を集めて新しい図書館を設けて欲しいと頼みます。祈りと儀式は湖畔の天幕でもできますから、残された神殿の建物を使って構わない、そう言って頭を下げたカロリンにとってゼノビアの歴史と知識に火がかけられたことは小さな心の痛みとなっていました。
「ランスロット卿の行いは彼にとって当然だったのかもしれません。ですがゼノビアの統治で救われた人は確かに存在して、それは王と尖塔の書物に支えられていました。人が残して人を救ったものを焼いた、それを止められなかったことは私の罪です。私はもう一度ここで信仰をやり直したいと思いますが、私の勝手なお願いとして、私が罪滅ぼしを行う手伝いをしては頂けないでしょうか。ご迷惑を承知の上で賢人としてのサラディン様にそれをお願いしたいのです」
そのときのサラディンの顔を、彼と親交のあった若いルッケンバインが見ていたらあの老人には気をつけろという思いをそれまで以上に強くしたに違いありません。そのときカロリンの傍らにいた聖母アイーシャも、老人の顔に不吉な閃きめいたものを感じました。
「まあ他でもない嬢ちゃんの頼みとあれば考えなくもない。儂もずいぶん昔は書物の山に埋もれたものだし、老い先短い身で風光明媚な島に気に入りの本を持ち込むのも悪くないかもしれん。だがお前さんの罪滅ぼしというなら儂が一人でそれをやるのは妙というものだな。お前さんにもいろいろと手伝ってもらうことになるが、よろしいかね」
「はい・・・はい!」
後代、彼女が暁の巫女と呼ばれることになるか、赤毛の賢女と呼ばれることになるのか。アイーシャは妹を奪われる姉のような複雑な心境になると眉根を寄せました。一方で優れた弟子の候補を手に入れようとしているサラディンはこのときの述懐を文字にして綴っています。
「今はもう滅びた王国に叛乱が起きた理由もまた、体制への不満ではなく体制が自ら揺らいだからこそである。はじまりが暴政ではなく疫病がきっかけだとしても、彼らは揺らいだ国を建て直すために誤った土台を選んでしまった。その上に築いた家がどれだけ曲がっていたとしても今更建て直すことはできなかった。いや、できないと思われていた。
だが本当にそうだろうか。たった一人の娘がこの家はおかしいと、傾いた建物を土台から壊してしまったのだ。そしてもう一度、信仰と知識の地盤から家を建て直そうとしている。愚かなことだろうか。確かに多くの者が犠牲になり、多くの人間が死んで今は冷たい石の下に眠って二度と目を覚まさない。だがそれでも建て直すことができるのならば、確かに娘は国を救い、人を導いているのではないか。
帝国は倒れ、王国と賢者が建てた尖塔も焼け落ちて今はどこにもありはしない。だが神殿は粗末な天幕と水たまりを指してここが神殿だと言い張ると今も人が訪れては変わらぬ祈りを捧げているのだ。それが詭弁であることを承知で彼女は言うだろう、そして私もここに記そう。
そうだ。革命は終わったのだ、と」