ぱられるわーるど/ひなたで過ごす


 わたしが生まれてからもう十何年かの年月がたつ。そしてわたしの両親が生まれてからはもう何十年かの年月がたっている。その日、町の図書館に立ちよったついで。あまりに暇だったこともあって足を踏み入れてみた役所の中で、ふと見かけたのはわたしの両親がちょうど子どものころの、町の風景写真だった。小さいころから身体をうごかすことも勉強をすることも、幼なじみの男の子をぶんなぐって遊ぶことも大好きだった。だけど、そういう遊びだけじゃなくてわりとどうでもいいことを想像してみる遊びも大好きだった。今でも、大好きだ。
 自分が広げた想像の中でしばらくたゆたってみる。ひとりでいるとき、今でもたまにそんな旅をしてみる。時間をかんたんにとびこえた、わたしが育った町。場所を変えずに時間だけを変えてみたこの町で、子どものわたしは走りまわっている。

 山に面した小さな町。山といっても実際は単なる丘だけど、でも子どものわたしにしてみれば、田んぼとあぜ道だらけの町を囲う山の中が箱庭のような世界だった。箱庭の外、世界の果てを思わせる冒険心。
 大人たちから見れば子どもの冒険心というのは鎖でつなぎとめておくものであるらしい。その鎖は「危ない」という陳腐な言葉になって、迷い込んで帰ってこなかった誰々さんとやらの怪談話になっている。だったら磁石がきかない、太陽や星も見えない深い森の中の異世界だったらまだしも、磁石がきいて、太陽や星が見える森の中だったら勇敢な、あるいは何にも考えていない子どもにとっては大丈夫な世界に違いない。そしてその「大丈夫」は道連れが多くなればなるほど増大するのだ。わたしだったら、いつも遊んでいる二人の男の子がいたときのように。

 そんな世界の果てに、境界線を目指してみる。わたしを含めた三人の、男の子のような子どもたち。言い訳をさせてもらうなら男の子にまじった女の子なんてそんなもんだと思うし、それこそ小さな子どもにそんな差なんてないんだから。
 軽装のザックにはおもちゃめいて見える磁石と双眼鏡、鉛筆くらいは削れそうな小さなナイフ。男の子の一人が持ってた十徳ナイフはうらやましかった。あとは水筒と食料を持ったら冒険に挑む準備は万全だ。

 夏になると小さな縁日がひらかれる、小さな神社の裏手にある山。土の斜面に杭をうちこんでつくった階段を、ちょっと踏み入れたら道なんてすぐになくなってしまう。あたりじゅうに植わっている木々のおかげで地面はいつだってうすぐらく、草はあんまり生えていないけど、これが秋になるとたくさんのどんぐりがころがった地面に化けるんだ。わたしたちが普段遊んでいたのはここまでで、この奥まで入ったことはほとんどない。
 もちろん塀があるわけでもないし柵があるわけでもない、なんとなく斜面が急になってのぼれなくなるあたりが世界の境界線になっている。もちろん、子どもたちにとって本当にのぼれない斜面なんて存在するはずがなかったから、一度こえてしまえば世界はまたちょっと広くなる。

 泥だらけになりながら。わたしたちは三人、斜面のてっぺんにそって山の奥へと進んでく。二人の男の子にわたしがついていっただけ、ではなく実際はその逆だったと思う。しばらくして斜面がなだらかになってきて、新しい山道に出る。道があったらその先には小さな畑がひらけていて、すみっこにはおんぼろな小屋がたっていた。つまりここが世界の向こうにある、新しい国なのだ。
 たぶん芋かなんかをつくっているんだろう、山の向こうにある畑。でも世界の果ての向こうはもちろん外国だから、そこに暮らしている人はわたしたちにとって外国の人になる。ふらりと歩いていた外国のおじさんに見つからないように、わたしたちはあわてて茂みにとびこんだ。なんといっても、わたしたちは外国の英語が話せなかったんだから。

 日の当たる畑のまわりに丈の高い草をかきわけて、小柄な子供たちはもぐりこんでしまう。と、男の子のあっという声が聞こえて、立ち止まった上に重なるように三人が倒れ込んだ。茂みを抜けた目の前に、小さな日だまりの草地があって、そこだけがまるく切り取られたみたいな小さな草地の真ん中に、すらりと立っている猫くらいの生き物と目が合った。
 猫にしてはとがった顔、狸にしてはずいぶんと細長くて、いたちのようにも見えるけど奇妙に鮮やかな青っぽい色をした毛むくじゃら。後足だけで立つ姿はなんだか落ち着いてどうどうとしていて、とびこんできた子どもたちを見てもその生き物はあわてるそぶりもなくすっと立っていた。

 しばらく、三人で見とれていたのかもしれない。それはついと首をもたげると、かろやかに身をひるがえして茂みの向こうへ、森の奥へ消えてしまった。わたしたちの頭の中は、森のことも世界の果てのことも外国の人のこともどこかに行って、その生き物のことでいっぱいになっていた。そのあとは、どんなふうに帰ったっけと今ではもう覚えていない。
 日だまりの中でであったどうどうとした生き物。それはきっととても神聖な生き物で、べつだん狂暴じゃないけれど、縄張りを荒らすものは容赦なくひどい目に会わせるのだろう。そんな噂話はいろんな地域にあるけれど、でも、あの不思議な青い色をした生き物のことはけっきょくどうにもわからなかった。大きくなって、ときどき思い出してはいろんな事典や図鑑を見たけれど、どこにも載っていない生き物はたしかにそこにいた。

 あれからしばらく、世界の向こうをわたしたちはなんどもおとずれたっけ。あの生き物にもう一度あいたい、という思いはとても強かったから。でも、それはもう二度とわたしたちの前にはあらわれなかった。

 そしていまでもあらわれない。


おしまい

                                      

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