羊の木というものをご存知でしょうか。ぶらさがった実からふさふさと羊毛が生えているというあれです。そんな不思議な木というものはいろいろとあるのですが、なにしろ木ですからうっそうとした林の中に一見はごく普通のそんな木があったとしても誰も気がつかなかったりはするものです。
たくさんのどんぐりが落ちている林に覆われたその山の向こう。その山の向こうまでは行かないで、その山のてっぺん近くまでのぼっていくとそこには下草がうっすらと生えた、多少日の当たる小さな広場がありました。その広場にある背の高い一本の立派な木。その木は山のてっぺんにあるというわけではないし、高いことは高いけれど他にくらべてとくべつ背の高い木というわけでもありませんでした。ただ、子供たちにとって重要だったのはその木がわりあい背の高い木たちの中で、手や足をかけて登るための枝やくぼみがけっこう低いところからあるという、そのことでした。
まだ充分に幼い三人の少年少女、二人の少年を連れた女の子はたびたびその山のてっぺん近くにあるその木に遊びに行きましたけれど、毎日のようにそこを訪れていたのはある年のことでした。
夏のどうしようもない暑さが去って、風が山の木々の間をすりぬけるようになった季節。たくさんのどんぐりが落ちている林に覆われたその山のてっぺん近くにある、背の高い一本の木はずっと上まで登ってみた枝の先に小さな小鳥の巣がつくられていました。その木の幹は子供でもそれなりに登りやすいようにできてはいましたから、そこはしょっちゅう子供たちの遊び場になっていましたけれど、木の幹の低い方についている古い鳥の巣は使われた様子がなくて、ずっと高いところの細枝の先にある巣の方では目立たない羽をした親鳥が卵をあたためていたのです。その卵がかえってひなが生まれ、親鳥が餌をはこんでくるようになって、その様子をなるべく離れた幹の影から見に来るというのがその年の子供たちの習慣になっていました。
山で遊んで、鳥の巣の様子を見る生活。それはある日、下草に落ちている一羽のひな鳥を見つけるまで続きました。
多少育って大きくなっていたとはいえ、それはまだ充分には羽が生えそろっていないひな鳥でした。少女がそれを踏んづけもせずに見つけたということが、もしかしたらひな鳥にとってはいちばん幸運だったことかもしれません。一緒にいた少年のほうがいきものには詳しかったりしましたけれど、野鳥を育てるというのはいけないことではありましたし仮に連れ帰ったとしても無事に育てられるかどうかというと難しいようにも思えました。だからといってそのままにしておく訳にもいきませんでしたから、しかたなく子供たちはその木の幹についていた、古い巣の方にひな鳥をほおりこむと交替で餌をあげて育てることにしたのです。
「結局死んじまうかもしれないぞ」
というあるいは正しいかもしれない少年のことばは、少女はもちろん聞こうともしませんでした。
餌をあげて育てる、といってもしょせん子供たちがそんな虫をとったり食べられる草や実を探してきたりできるわけではありませんから、お店で売っている鳥の餌をお湯にひたしてやわらかくしたものを持ってくることにしました。少女なんかはそのひなを連れて帰りたくてしかたがなかったみたいでしたが、いきものに詳しい少年にただでさえ親と離れたひな鳥が二度と山に帰れなくなる、とまで言われてしまうとしぶしぶと納得するしかありませんでした。三人は毎日のように交替で、ほんのときたまにもう一人の少年がさぼって二人にぶんなぐられるようなこともあったりはしましたが、そんな三人の仮親のもとでひな鳥はそれなりにきちんと育っていきました。朝と夕とにやってきては竹べらに乗せた餌をひな鳥の口に押し込んで、食欲旺盛な小鳥が満足して静かになるまで繰り返されると朝なら学校の鐘にまにあうように、夕なら日が暮れるのにまにあうように走って山を下りるのです。鳥が巣立つまでの数週間、三人の見習い親鳥たちは毎日のようにその山に行くようになりました。
秋の長雨というには大きい、時期はずれの台風がきたのはひな鳥がもうひな鳥でなくなりかけていた頃のことです。
大風や大雨で小さな鳥やいきものが飛ばされたり流されたりしてしまうということは、どんないきものでもありえましたし草木というのはそういったものからいきものや地面を護ってくれる覆いとなりました。だからといって、三人の見習い親鳥にはそれは不安でしかたがない出来事でしたから、後で親たちにこっぴどく叱られるのを承知で手に手に傘やらシートを持って、子供たちは急ぎ山へと向かったのです。
まっさきに到着したのはいちばん餌やりをさぼっていた筈の少年でした。あとの二人もだんだん激しくなろうとしている雨と風の中をすぐにやってきて、三人は鳥の巣を守ろうとしましたがそこでおかしなものを見つけました。幹や枝分かれをしているところを中心に、何か白いもこもことしたものが木のところどころをつつみこんでいるのです。近づいてみるとそれは白い長い毛のようなもので、その中で巣にいるだいぶん大きくなったひな鳥は、のんきに大きく口を開けて餌をねだっていました。
その毛がなんだったのかはいきものに詳しい少年にも分かりませんでしたし、その後もけっきょく分からないままだったのですが、子供たちは持ってきていた餌をひな鳥にあげただけで台風が近づいてくる中、いそいで家へと帰りました。子供たちはそれからも毎日のように世話をしていって、白いもこもこの木に護られたひな鳥はやがてひな鳥とはもういえないくらいに大きくなって羽毛もりっぱにそろっていました。
ある朝その鳥がいなくなっていたのも、最初にひな鳥を見かけたときのように突然でした。少女がいくらさがしてみても今度こそ巣の近くに落っこちているような様子はありませんでしたし、大きくなってきちんと巣立っていったのか、それとも蛇かなにかに食べられてしまったのかはわかりません。他の二人を呼んで、手元に残っていた鳥の餌がなんだかとても悲しく感じられる中、少女がぽつりともらした
「ひとことくらい言ってくれればいいのに」
という呟きはきっとわがままな仮親の願いでしかありませんが、それは素直な感情の表現でもありました。
何年後か、すっかり来ることのなくなったその山のてっぺん近くに生えているその木。あるとき昔のことを思い出して、その木を訪れたかつての少年少女が見上げてみたその木はやはり大きな木のままで、今でも幹に残っていたその巣にはやっぱり何も棲んではいませんでした。ですが巣の中に今年も去年も使っていたらしい新しい巣草が敷き詰められていたのを見て、三人は今でも聞こえる鳥のさえずりがあの鳥のさえずりであるかのように思えたのです。あのときの白いもこもこした毛がなんだったのかはわからないまま、今はもちろん何も生えていないごく普通の大木でしたが、それが今でもごく普通の大木のままでいるということが三人にはとても嬉しく思えました。
鳥たちのさえずりが聞こえてくる、それはあの時から少しも変わっていませんでした。
おしまい