朝、目が覚める。目覚ましのデジタル音が脳みそをたたく。ゆっくりと起き上がって、冷たい水で顔を洗って、歯をみがいて、朝ごはんの用意。ブラシで髪くらいはとかさないといけない。オーブンで焼いたパンをほおばりながら、学校へ行く準備をする。制服を着て、かばんを持って家を出る。
一面のたんぽぽ。西洋たんぽぽに覆われた世界。
二十年前。あたしが生まれる何年か前に、この国に西洋たんぽぽが輸入された。種と花粉で増えるだけでなく、自分で株分けもして増えていく、究極の植物。風土になじんだのか、環境に合わせて変異したのか知らないけど、西洋たんぽぽは国産のたんぽぽを駆逐して、従来の生態系も席捲して、その後十年くらいでこの国を支配してしまった。それからさらに十年、平原にひろがる一面のたんぽぽと、そこに点在する建物。そのうちの一件が、わたしの家。
行ってきまーす。
こんにちは。わたし、田中いずみ。物心ついた時からたんぽぽに囲まれて生きている女の子。テレビや写真で三十年前の映像とか見ると、たんぽぽに覆われていない世界が映っているけれど、わたしにとって地面とはたんぽぽに埋もれているものだった。
たんぽぽの異常増殖によって、ここ二十年来で畑や林や牧場は全滅。気づかないうちに道路や建物でさえもたんぽぽで埋まってしまった。わたしがまだ小さい頃は道路にはアスファルトが敷かれていて、たんぽぽはその割れ目から生えている程度のものだった。今は、たんぽぽに破られたアスファルトの上には車すら走っていない。高名なナントカ教授の話によるとカンキョウバランスがどうとかイデンジョウホウがこうとかいうことらしいんだけど、けっきょくのところ理由はよくわかっていないんだ。たんぽぽ公害とかいう、もっともらしく無責任な名前でマスコミが話題に上げたこともあったな。
今はただ、世界は一面のたんぽぽ。ほとんどの人はたんぽぽの少ない土地へ引っ越してしまったけど、わたしはまだここに住んでいる。交通の不便さえがまんできれば、ひろびろとした町は住みごこちがいいかもしれない。丈夫な靴をはいて、駅まで三十分くらい歩いて、本数の少ない列車に揺られていく。人の少ない列車の窓外には、やっぱり一面のたんぽぽ。なぜか心がなごむ。
どうしてこの町がたんぽぽに支配されたのか、その理由をわたしは知っている。それは、彼らのもっていたささやかな夢。あるいは、それはどんな生き物ももっているはずの夢なのかもしれない。
彼らは、世界を一面のたんぽぽにしたかっただけなんだ。
ただ、のんびりと咲いていればいいだけの世界。だれかに踏まれることもなければ、だれかに食べられてしまうこともない、たんぽぽが生きていくための世界。ほんの二十年前くらいまで、この世界のニンゲンも同じことをしていた。他の生き物に踏まれることも、食べられることもない、ニンゲンが生きていくための世界。ニンゲンだけが生きていくためだけの世界。
今は、それが西洋たんぽぽに変わっただけ。ニンゲンの建てた建物は土台ごとたんぽぽに崩されて、それさえもたんぽぽに覆われて、平らになった地面には一面の西洋たんぽぽと、かろうじて点在するニンゲンの巣。かつて、アスファルトの隙間からたんぽぽが花を咲かせていたように、たんぽぽの隙間からニンゲンが自己主張を行い続けている。
それは悪いことじゃないんだ。誰だってそうやって生きているんだし、小さくてささやかな夢を否定する権利なんて誰にもないよね。
だからわたしはここに住みつづけている。たぶんわたしの持っている、小さくてささやかな夢を満たすために。たんぽぽたちは世界を支配する権利を持っているけど、わたしたちも世界を支配する権利を持っているはずだから。
だからわたしは、今日も電車に揺られて学校に通っている。これってわたしとたんぽぽとの、とても小さな戦いだと思っている。のんびりした、気の長い、西洋たんぽぽとの戦い。とてもとても昔のニンゲンたちは、きっとこうやって自然と戦っていたんだろうね。たんぽぽの少ない土地へ引っ越した人たちは、やっぱり今も増え続けているたんぽぽに追われているし、いつかわたしがこの家とともにたんぽぽに埋もれることになっても、それは仕方のないことかもしれない。もちろんわたしも簡単にたんぽぽに埋もれてやる気なんかない。
たんぽぽたちの声が聞こえる。彼らはただ地面に根をおろして、葉をひろげて、茎をのばして、花を咲かせたいと思っているだけなんだ。真摯で誠実な思いだから、わたしも真摯に誠実にたんぽぽたちと暮らしていきたい。わたしは単に逃げ遅れた頭の固いニンゲンになるのかもしれないけど、それでも。
彼らは、世界を一面のたんぽぽにしたかっただけなんだ。わたしはそんなたんぽぽと付き合っていきたいと思う。
わたしは、ニンゲン、だから。
おしまい