ぱられるわーるど−しっぽの歌−


 ほんの少しだけ足をひきずりながら、少女が誰もいない筈の屋上をおとずれた理由も今ではもう覚えていません。通りがかった階段下の廊下から見えたはずもありませんが、いつも閉まっている扉のカギがその日は開いていることに少女はなぜか気がつきました。手すりにつかまりながら、わざわざ階段をのぼったのもあまり深い理由はなくなんとなくのぼってみただけでした。
 扉がきしむ音は思ったよりも大きくて、開けたすき間を通りぬけた風が黒髪を強くなびかせます。長くもなく短くもない髪を、もう少し伸ばそうかなと思いながら少女は壁も天井もない空の下をそっと踏みました。屋上のまわりは背の高い網にぐるりとかこわれていて、人が落ちたり飛ばされる心配はありませんが風も視界もさえぎられることはなく、吸い込んだ息も校舎の中とはちがう、気分のいいひややかさに満ちています。いまなら舞台には誰もいないだろうと、少女はぎこちない足を何度か踏んでからくるりとまわってみました。

「あ・・・」

 目の前にぶら下がっている足と、頭の上でゆれているしっぽに気がついたのはその時のことです。踊り場がある階段室の、その上に腰かけている少年は足下の少女に奇妙な視線を向けていました。少しだけ、少女は気まずい思いをしましたがそれは相手も同じだったかもしれません。皆が教室にいる時間、誰もいないはずの屋上に、少年と少女が二人いることがよほど奇妙でした。
 てきとうに伸びた髪が頭のてっぺんでしっぽのように一本むすばれている、その少年がいささかの同情をこめて困った子だと思われていることを少女は知っていましたし、変な子だと言われていることも知っています。何よりも高いところが好きで、学校でも教室にいないことがたびたびでたいていはどこか高いところにのぼると空を見上げていました。木にのぼる、遊具のてっぺんにのぼる、屋上にのぼる、その程度ならよほどおとなしくても校庭の旗ざおや体育館の屋根にのぼるとあれば見のがしてもらえるものではありません。

「だって空がよく見えるもの」

 少年はほこりっぽい姿のままで、聞かれるとそう答えましたし、まったくうそはついていませんがどうして空をよく見たいのかは少年にもさっぱりわかりませんでした。一見して小柄でおとなしげな少年がどうして奇妙なふるまいをするのか、何度か病院につれていかれたこともありますがその後はふつうに学校にいてやっぱり空を見上げています。たまにそうでないときにはまじめに教室で椅子に座っていて、ちょっとだけ、絵を描くのがへたくそなことをのぞけば授業がそれほど苦手なそぶりもありませんでした。
 少年は足下の少女にしばらく向けていた視線を空に戻してしまうと、ずっとはるかに目を向けてしまって後はもう何も気にしたふうはありません。失礼な態度に少しだけ気分を悪くしながら、それ以上に好奇心が勝った少女はつられるように少年の視線を目で追ってみますがその先にはただ青くて遠い空のはるかが広がっているだけでした。

「何が見えるのかな?」
「さあ、わからないな」

 なんとなくたずねた言葉に、その答えが返ってきたことが少女にはとても不思議でした。空がよく見えるから、高いところにのぼっている少年ならきっと空が見えるよと答えるべきだろうと思います。
 少年は空を見上げるのにいそがしくても、足下の少女が言葉を投げればちゃんと返してもくれました。何もないと思っていた空にはいろいろなものが飛んでいて、小さな銀色に見える点が人工衛星であることも少女は教えてもらえます。ちぎれた雲がこの日は黒潮の向こうから流れてきたことも知っていますし、空を横切った鳥たちが夕暮れにはどこに帰っていくかも答えてくれました。ですがそれを教えてくれる少年は空を飛んでいるそれらのどれでもなく、ただ空を見上げているだけの小さな虫でしかありません。

「なんだか、首をのばしてるキリンさんみたいだね」

 その言葉に、少年はおどろいたように視線をおろします。少女もなぜか、自分がとても意地の悪い言葉を投げてしまったことに自分でおどろいていました。届かない空に指をくわえていれば、背の丈はやがてのびていくかもしれませんがそれでは人はキリンにしかなれません。鳥になりたければ羽ばたかないと、星になりたければよだかにならないと決して空には届かないのです。空のはるかに向かう心は誰もが持っていてまるでおかしくありませんが、ただ空にあこがれるだけなら彼はいつまでも小さな虫のままでした。
 少年はふくらんだポケットから、ちいさなまるっこいカメラを取りだすと挿してあったカードをひっこぬきました。ずっと空を見てばかりで、空が映っているだけのカードをほうり投げると少女の手のひらにおさまります。

「あげるよ」
「うん、ありがとう」

 少しでも空に近くなれば、今映っている空よりももっと遠くを映すことができるでしょう。きっと少年が次にカードをほうり投げてくれるときには、今よりもずっとはるかの空が切り取られているにちがいありません。少女は少年のカードをポケットにしまいこむと、何も言わずに一度だけ笑ってから校舎の中に戻りました。通りぬけた風がもういちど黒髪をなびかせて、空のはるかを見上げている少年の頭の上でゆれているしっぽはさっきよりもぴんと立っていたような気がします。

「次は、少しだけ羽がはえたキリンさんだといいね」

 それから少年はますますほこりっぽくなって、学校にいないときは町を見はるかす山のはるか上までのぼるようになりましたが、それはやっぱり自分のせいだろうかと少女は思いながらキリンの絵をノートに書きつけています。少年のカメラにはおこづかいがゆるすかぎり大きなレンズがくっつけられて、いつか、少女の下敷きに一枚だけ差しこまれた真っ青な空のつづきを見せてもらうことができるのでしょう。
 そのときには自分ももう少しだけつよく地面を踏むことができるだろうか。少しだけ足をひきずりながら、少女は今でも階段下の廊下を通りがかるたびに視線を上げてしまいますが、踊り場の向こうにある扉のカギは閉められていて外に出ることはできません。きっと、そのときになればまたこっそりと扉が開くだろうことを少女は知っています。


おしまい

                                      

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