少しずつ明るくなってきた、人気のないテニスコートでラケットを振っていた少女はフェンスの向こうにがさごそいう音を聞いてなんとなく目を向けてみます。雑木林とテニスコートにはさまれている小さな道を、いつものように少年が通りすぎていくと伸びほうだいの髪の毛をたばねたしっぽが頭の上でゆれているのが見えました。
少年が歩いていく先は学校とは反対側、東雲の空を背にした方角で、はじめて見かけたときはあれで授業に間に合うのかしらと思いましたが案の定、その日の学校でゆれるしっぽを見かけた人は誰もいませんでした。記憶をたどれば隣りのクラスだったはずで、放浪癖のある不登校常連の有名人だから名前くらいは知っている、と思えばありふれた名字は思い出せても下の名前が出てきません。少女もたいがい、他人に興味がない性格をしているかもしれませんでした。
「あんなしっぽが二人といなければ、誰とまちがえることもないものね」
とはいえまるで気にならないといえばそれも嘘になるでしょう。山あいにある小さな町で、少年が歩いていく向こうはどこまで行っても山ばかりでしたから小さな山と谷をいくつこえてもその向こうにはやっぱり山しかありません。もちろん、もっと向こうにいけばそのうち日本の向こうがわに出ますがふつうはその前に雪にうもれて冬眠してしまうでしょう。
大きな袋を背負った少年の恰好は登山とハイキングが半分ずつに見えましたが、少なくともこれから学校にいこうという姿には見えません。よくもあれで補導されないものだと思いますが、誰かが少年を見つけるとすればそれはクマやイノシシに違いありませんでした。そういえばしっぽを立てた動物は大きく見えるのだったかと、そこまで考えたところで少年の姿がとうに消えていることに気づいて肩をすくめます。
ようやく明るくなってきた日差しに、ボールを用意した少女は彼女の日課を続けるためにコートに身体を向けました。きまじめに練習ばかりをしている少女ですが、もしもゆるされれば授業の時間や友人と約束をしている時間であってもラケットを振ることはできないだろうかと、山の中に消えていったしっぽを思い出しながらそんなことを考えています。もう少し日がのぼればボールもラケットも片づけて、急いで荷物を部室に放り込んだら着かえてしまわないといけません。そのあとはしばらく教室に押し込められて鐘がなんどか鳴って、何度か鳴りやむのを待ったらテニスコートに戻るのが彼女の日課になっていました。
学校はけっしてたいくつではありませんし授業が嫌いでもなければ友人がいないわけでもありません。ただ山あいのこの小さな町で、ラケットを手にボールを追いかけることを人よりもちょっとまじめにやっている、そんな少女はテニスよりも授業や友人を後まわしにしてしまうだけでした。いつもの午前中をいつものようにすごして、やわらかい日差しが真上にのぼるのを待っているとたまには時計の針がもっと速く動いてもいいだろうとは思います。お昼を告げる鐘の音に、お弁当箱の冷めたミートボールよりも屋上の風のにおいをかぎたくなった少女は教室を出ると階段をのぼっていきましたが、いつの間に来ていたのか、まばらな生徒たちの姿の中に同じクラスの友人がいたことに首をかしげます。
「お昼はいいの?」
「人のことは言えないんじゃないかな」
切りそろえた髪を吹きぬけていく風に流しながら、返ってきた言葉も山の向こうに流れていくように思えます。ちょっとだけ足を引きずっている友人は手すりにしがみつきながら屋上までのぼらないといけませんでしたが、そんなものは冷めたミートボールと同じでたいした理由にはならないのでしょう。
それまでフェンスの向こうをながめていた友人に、半分はあいさつのつもりでなにか見えるのかと聞いてみると、たまには変な妖精さんが、と知らない人が聞けば心配されそうな言葉が返ってきます。絵本や童話が好きな友人らしい言いまわしとは思いますが、それが年ごろの娘にしても奇妙な返答であることには変わりません。それなら、その奇妙な娘に変と呼ばれる妖精さんとやらはよほど変なやからなのでしょう。
「靴下どめではなくて、しっぽをゆらしている妖精さんだけれどね」
それが誰のことなのか、わかりやすすぎるくらいわかります。山と谷がいくつも連なっている向こう、高台の上らしきところについ朝がた見かけたしっぽがゆれているのが見えました。よくもあんな遠くにある、米つぶよりも小さな少年を見つけることができるものだと思いますが、よく考えたら高いところにのぼりたがる少年が、屋上のこの場所からあそこにある高台を見てやっぱりのぼりたくなったのでしょう。そしてきっと、お昼ご飯よりも屋上からの景色を眺めにきた友人もおんなじことを考えていたにちがいありませんでした。
この前はあの場所で、その前はあの場所で、友人が指さしている場所は宝の地図にいくつも見える目印のようで、少年のひそかなたくらみをこっそりと見つけた彼女はそのうち埋められている宝物を見つけるつもりでいるのかもしれません。ではこちらも宝探しにつきあってやるかと思った少女は、もしも彼が砂糖楓の汁をたどっているアリなのだとしたら、彼が歩いた跡にはきっと謎解きのヒントが見つかるのでしょうねと呟きます。慣れない冗談のつもりで言ってみましたが、友人が思いのほかよろこんでくれたのは冗談の内容か、それともいつも無愛想な少女が冗談を言ったことに対してだったのでしょうか。
「でも、アリさんならいつか羽がはえて飛べるかもしれないな」
そう言いながら遠く遠くをながめている友人に、ああそうかと思います。たぶんそれは少年だけのことではなくて友人も少女もいつか羽がはえて飛べればいいのにと思っていました。日がのぼるずっと前からラケットを振っていることも、手すりにしがみつきながら屋上まで階段をのぼることも、のぼっていった先にはたくさんのアリたちが集まっていて、そのうち誰かに羽がはえて飛んでいってしまうかもしれないのです。
「妖精だったり虫だったり、忙しいわね」
「絵本にのっていれば妖精さん、図鑑にいればアリさんだよ」
絵本を見ている友人と、図鑑を広げている少女が笑います。明日の朝、少年のしっぽを見かけたらなにか言ってやろうかと思いましたが昨日よりももっとまじめにラケットを振っている姿を見せてやることに決めました。飛ぼうとしている小さな虫に、おなじ小さな虫が先に羽をはやしてやるのもわるくありません。なんとなく少年が背負っている大きな袋には図鑑が入っているように思えて、たぶん、テニスコートと雑木林のあいだに妖精ならぬ虫の通り道があるのもまったく偶然ではないのです。
それとも触覚をゆらしていれば虫だろうが、しっぽをゆらしているならやっぱり妖精だろうかと、もういちど山の遠くに目を向けると少年の姿はとうに消えていました。もしかしたら、のぼった先から羽がはえたアリは飛んでいってしまったのかもしれません。羽がはえた虫が二匹もいれば、一匹くらい妖精の手をつかんで飛び上がることはできるでしょうか。
おしまい