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皇帝ヴェスパシアヌス(Imperator Caesar Vespasianus Augustus)



生没  9年11月17日〜79年6月23日
在位 69年12月21日〜79年6月23日

私的評価  統率A 知謀B 武勇B 政治A 魅力B

 紀元68年、ローマ第5代皇帝ネロの失脚とそれに続く自殺によって、ローマは後の歴史家タキトゥスが称すところの「危うくローマ最後の一年になるところであった」内乱の時代を迎えます。混迷するローマではわずか一年の間にガルバ、オトー、ヴィテリウスという三人の皇帝が就任、ですがどれも長続きせずに命を落とす事態となりました。この混乱の中で北方アルプス山脈の向こう、ライン河沿いのゲルマニアでは属州出身の補助兵団が叛乱、駐留する正規軍団を蹴散らすとガリア帝国の創設を宣言するという不祥事まで発生します。更に東方オリエントではネロ時代から続くユダヤ戦役が遂行中であり、周辺地域は平定されていたものの頑迷なユダヤ人の多くが首都エルサレムに篭って徹底抗戦の構えを見せていました。この状況で皇帝位に名乗りをあげたのが、当時そのユダヤ鎮定を亡き皇帝ネロから任じられていた将軍ヴェスパシアヌスだったのです。

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 ヴェスパシアヌスはイタリア半島でも首都ローマの郊外にあたる地方都市リエーティの出身、徴税請負人の父フラヴィウス・サビヌスと騎士階級の母ヴェスパシア・ポッラの間に生を受けました。ちなみにローマの階級は元老院議員である貴族、富裕階級である騎士、他には平民、解放奴隷、奴隷といった具合に分かれていましたが、その実態は流動的なもので解放奴隷が平民になることや裕福な平民が騎士を輩出することが当然のように行われています。特に初代皇帝アウグストゥスの治世以降は政治家の家系である貴族と官僚を出す騎士という具合に棲み分けがされるようになり、そして選挙により騎士が元老院議員になればその後は新参の貴族になることもできました。古代ギリシアの有名な民主国家アテネですら市民とそれ以外の区別は厳然と分けられていましたが、ローマの階級は生まれや国籍を問わず立身を可能にするものだったのです。地方都市の騎士階級を出自とするヴェスパシアヌスは外見からして初代皇帝アウグストゥスのような美青年でもなければ皇帝ネロのように貴族然とした姿でもなく、頑丈な体躯に素朴な丸顔をした、どこから見ても田舎村夫という顔立ちをしていました。
 公共奉仕と軍務への参与をことのほか重視したローマでは、高位の役職につくためには軍隊経験が不可欠とされており、ヴェスパシアヌスも若い頃から軍団兵の一人として各地を転戦、ライン河沿岸で防衛の任についた後は「どもりの歴史家」クラウディウス帝に従いブリタニア制圧戦に従軍して功績を上げると、法務官等の職責を経て叩き上げの軍人として地位を築きます。ローマでは成熟した年齢と見なされる五十歳も前後になり、元老院入りを認められると執政官や属州総督の地位にも就任することになるヴェスパシアヌスですが、時の皇帝ネロが唄うステージの客席で居眠りをするという失態(?)を演じたことによって順調であった彼の公職キャリアもこれで終わりかと思われました。ですが鷹揚なネロは不機嫌や恨みを長く引きずる性格ではなく、その2年後にはユダヤ叛乱鎮圧の重任をヴェスパシアヌスに命じます。天才的とは言えずとも堅実な指揮官であったヴェスパシアヌスはユダヤ周辺地域の叛乱を着実に収めていくと、あとは首都エルサレムを残すのみとなりますが紀元68年、ネロが暗殺されてしまうと戦役も中断せざるを得ませんでした。ヴェスパシアヌスは前線で指示を待ちながらその後のローマでの内乱を遠望することになりますが、結果としてこれは彼やその協力者に貴重な時間や立場を与えることになっていきます。

 ネロの後を継いだ新皇帝ガルバは就任直後に縁故人事を行い、軍民への賜り金を出し渋ったことで近衛隊や支持者の不興を買うと早々に暗殺されてしまい、後を継いだオトーはやはり皇帝を名乗ったヴィテリウスの軍に撃破されると自死してこれも果てました。そしてライバルを撃破したヴィテリウスは我が世の春を謳歌するつもりであったのか、自らの支持基盤であるライン軍団の武力を背景にして政務も省みずに宴会三昧の日々を送ります。オトーを支持したことでヴィテリウスに苦役させられていたドナウ河周辺の軍団兵を中心に、属州兵士たちは不満を募らせるとヴェスパシアヌスを推挙しました。息子のティトゥスやシリア総督のムキアヌスらの協力を得て皇帝へと名乗りを上げたヴェスパシアヌスに、対するヴィテリウスは当初、辺境の叛乱とたかをくくっていたようですが相次ぐ軍団兵のヴェスパシアヌス支持に狼狽すると何らの策を打つことも放棄して宮殿に篭ってしまいます。歴史家タキトゥス曰く「現実から目をそらし、食べて寝るだけであとは何もしない動物」と化したヴィテリウスはローマの陥落に伴いあっさりと処断されてしまうとようやく内乱に終止符が打たれました。
 こんな状況でヴェスパシアヌスの治世は混乱の収拾から始まることになり、しかもヴェスパシアヌスが起った時点で動物ヴィテリウスの失脚がほぼ目に見えていたこともあって、息子ティトゥスによるエルサレム攻略戦や、ムキアヌスが主導してのガリア帝国討伐は新皇帝がローマに入る前に始められることになります。彼らに共通していたのはローマの公人として広大な領土の平和、パックス・ロマーナを守らねばならないという思いであり、内乱の行方に関わらず治安は維持されるべきという強い意思であったでしょう。一時はライン軍団壊滅の事態にもなったガリア帝国は三月ほど、要塞都市エルサレムの攻略も半年ほどで解決したのは、彼らが優秀な指揮官であったというよりもこれ以上ローマの治安を乱す訳にはいかないという彼らの断固たる意思が、大軍の投入を躊躇させなかった点にありました。

 こうして内乱やそれに伴う騒乱も終結して、ローマの再建に着手することになったヴェスパシアヌスですが新皇帝は神君カエサルのように名門貴族の出自やその養子縁組を受けた者ではなく、初代皇帝アウグストゥスの血縁に連なる者でもなく、動物ヴィテリウスのように代々の元老院議員を輩出した名家の出自でもありませんでした。騎士階級からのし上がった叩き上げの平民皇帝は自分の出自を充分に理解した上でローマの建て直しを図り、炎上したユピテル神殿の再建には自ら人夫として石を担いで丘を登り、内乱で被災した者には派閥や民族を問わず、叛乱に荷担した者にまで援助を行うことを表明します。騒乱を避けるために「皇帝法」なるものを成立し、元老院から皇帝を弾劾する権利を奪ったことは後の批判を受けることになりましたが、ヴェスパシアヌス自身は元老院を尊重して会議には全て出席し、活発な議論を行い、反対者の意見にも耳を傾ける誠実な為政者でした。ヴェスパシアヌスの寛容は市民にも元老院議員にも軍団兵にも好意的に迎えられましたが、莫大な資金を要するであろうローマの再建策が成功を収めたのは新皇帝が財政に関する極めて優れた識見を持っていたことによります。ただ、後世この皇帝を有名にするのもちと度を越して優れていた彼の財政への識見によるものでした。

 内乱により疲弊したローマを立て直すために、ヴェスパシアヌスは数多くの財政再建策を打ち出します。ですがその殆どは新税を創出もせず税率を変えることすらなく、既存の財政の健全化を図るというものでした。古代屈指の財政家と称されることになるヴェスパシアヌスは国勢調査の実施と土地の再配分を柱に、厳格な税金の取り立てを行い使途不明の借用地を無くすことに努めます。かつて徴税請負人がこれほど精力的に働いたことはない、と呼ばれるほど徹底した無駄の排斥によってローマの経済力は時を置かずして好転してしまいますが、同時に新皇帝には類を見ないケチな皇帝としてのイメージがついてまわることにもなりました。これに対して毒舌家でもあった皇帝は「どうせ誰も彼も悪党なんだ、だったらきちんと金を納めればそれでいい」という言葉を残したといわれています。また、緊縮財政を謳ったヴェスパシアヌスですが実際にはローマを再建するための公共建築を数多く手がけており、代表的なところでは先のユピテル神殿再建の他にも「平和のフォールム」と呼ばれる広場を設けたり、次男ドミティアヌスの時代に完成する有名なコロッセウム「フラヴィウス円形劇場」の着工も行いました。
 コロッセウムは中世を経て現在では骨組みしか残されていないにも関わらず驚愕の規模を誇る建物であり、大理石貼りのコンクリートの建物は観客席の収容人員が五万人超、手動とはいえエレベータや開閉式ドーム天井まで備え、競技場にはプールのように水を満たして模擬海戦までできたという冗談のような代物でした。場所はネロ建造の自然公園である黄金宮殿の跡地、人造湖のあった場所に建てたそうですが、都心の公園には拒絶反応を示したローマ市民もコロッセウム建造には歓迎の意を示します。「パンとサーカス」の言葉に代表される残虐な娯楽施設としてのイメージが強いコロッセウムですが、ローマにおける劇場や競技場は皇帝や元老院議員が隣席して市民に顔を晒す場所であり、後のビザンツ帝国の時代にいたるまでこうした競技場は市民が統治者に信任投票を行うことができる政治施設でもあったのです。

 こうして堅実な手腕でローマ再建を果たしたヴェスパシアヌスですが、ケチな皇帝として他者には度を越したと見える緊縮財政策は常に批判の対象となっており、中でも有名なのが「公衆便所税」を取るために市内に設けられた公衆便所でした。その裏には公衆便所から出るアンモニアを利用していた染色業者から税を徴集するという目的があったとはいえ、この便所を利用する者は税金を取られ、これを利用しない者は罰金を取られるのです。これはあんまりだと声をあげたのは反対者のみではなく、ヴェスパシアヌスの共同統治者を努めていた息子ティトゥスも同様でした。これに対してヴェスパシアヌスは税金から取り上げた銀貨を一枚、息子の鼻先につきつけると「金は臭わないぞ」という有名な言葉を発します。そして以後、コロッセウムが皇帝の家名であるフラヴィウスを冠したように、ローマでは公衆便所は「ヴェスパシアーノ」と呼ばれることになりました。
 度を越したケチで有名になったヴェスパシアヌスですが、一方で質実剛健な性格はローマ人の気質に合い、すぐれた弁舌家ではなくとも愛嬌のある毒舌によって多くの人に好かれていたようです。「この年で皇帝になどなるからこんな苦労もする」とぼやきながらも、兵士にとっては前線で共に歩くことも辞さぬ叩き上げの軍人であり、元老院議員にとっては皇帝法こそあれ誠実な執政官であり、民衆にとってはケチであっても財政を豊かにして相応の振る舞いや建築も行う勤勉な統治者でした。軟弱な風潮が我慢ならず、靴代を請求した海兵隊員には以後裸足で走るように命じたり、荷車はプロストラでなく都会風にプラウストラと発音すべきですと進言した元老院議員フロルスを「フラウルスくん」と呼んだり、謁見者がギリシア人のように香水をつけていると服の匂いをかいでから「いっそにんにくの匂いをさせて欲しかった」と言って追い返したとも言われています。10年に及ぶ穏当な統治の後に病床に伏し、死期を悟った折りには俺もそろそろ神様になりそうだと冗談口を叩き、臨終の際には立ち上がると「皇帝たるもの立って死なないと恰好がつかん」との言葉を残して息を引き取りました。かつてアウグストゥスは臨終の際に「私は自分の役割を演じた」と語ったといいますが、ヴェスパシアヌスも自分が演じた皇帝像を皮肉に眺めていたのでしょうか。

 古代ローマ帝国における皇帝ヴェスパシアヌスの評価はまぎれもない中興の祖であり、彼を継いで長男ティトゥス、次男ドミティアヌスへと続くフラヴィウス朝の創始者としても知られています。ローマ史上有名な五賢帝時代がそのフラヴィウス朝の直後に訪れていることを考えても、帝国の基盤を築き直したのが「公衆便所皇帝」ヴェスパシアヌスであったことは明らかでしょう。そしてこれまでも戦乱の敗者や属州民、外国人を市民にすることで同化し、領土を広げてきたローマが代々の貴族や首都ローマの出身者ではなく、地方出身の田舎村夫を皇帝に迎えたことで更に階級間の流動性が広がり、後にスペインやアフリカ属州出身者の皇帝が現れる道が開かれる端緒ともなりました。
 彼の統治する時代、出自の低いヴェスパシアヌスに箔をつけようと進言をしたとある高官が言いました。

「陛下のご家系をつぶさに調べましたところ、遠祖はなんとヘラクレス」

 それを聞いたヴェスパシアヌスは、腹をかかえて笑いころげたということです。
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