ルキウス・アエリウス・セイヤヌス(Licius Aelius Seianus)
生没 前20年〜31年10月18日
私的評価
統率B
知謀D
武勇C
政治A
魅力D
元老院とローマ市民に尽くした「鋼鉄の巨人」ティベリウスの治世はおよそ三つの期間に分けることが可能で、元老院の第一人者として振舞おうとした前期、隠棲してカプリ島からの統治を行った後期、そして多くの人々を処断して恐怖政治を行ったと弾劾される末期になります。セイヤヌスはそのティベリウスの暴政に最も加担したとされて現在でも批判されている人物ですが、彼の勢威が頂点に達したのは皇帝がカプリに隠棲した後期にかけての時期でした。皇帝の不在をいいことに暴政を行ったとも、スヴェトニウス曰くセイヤヌス処断後の恐怖政治を思えばセイヤヌスの暴政もティベリウスの仕業であったとも言われていますが、このあたりの微妙な不整合を読み解こうと試みるには当時の幾つかの事情を知る必要があるでしょう。
皇帝ティベリウスは統治前期には元老院での偽善的な第一人者ぶりが嫌われて、後には首都と元老院を蔑ろにして帝国を統治してみせた手腕が嫌われて、末期には元老院への容赦のない告発と無慈悲な処断が嫌われたという人でした。ティベリウスの評価を後世に伝えたのが元老院議員であった事情もありますが、帝国を磐石にした手腕を認められながらも皇帝が悪評を浴びていたのは紛れもない事実です。であればティベリウスの手足として市民にも元老院議員にも等しく嫌われたセイヤヌスもまた、悪評を浴びながらも統治においては評価に値する優れた人物であったでしょうか。近衛軍団長官であったセイヤヌスが手腕を発揮した時期はティベリウスの統治とほぼ完全に重なっており、ティベリウスの完璧な統治の中でセイヤヌスが預かる首都の行政が滞ることはありませんでした。ですが同時に、孤独な皇帝ティベリウスにとって近衛軍団長官セイヤヌスの存在が決して大きなものではなかったこともまた忘れる訳にはいきません。
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本名はルキウス・アエリウス・セイヤヌス。騎士階級の出身で父は前皇帝アウグストゥス下で近衛軍団長官を務めていましたが、ティベリウス治下になると息子のセイヤヌスも父と共同で、後には単独で近衛軍団長官に就任しています。若い頃から皇帝一家とは親交があったようで、ティベリウスの息子ドゥルーススがドナウ川流域にあるパンノニアでの暴動鎮圧に赴いた際も同行を命じられたりしています。近衛軍団長官としての精勤ぶりと優秀さは衆の知るところで、兵士をよくまとめてティベリウスの好感を得ていました。このセイヤヌスに対する元老院や周囲の人々の評価を窺うには、近衛軍団と騎士階級というものがどのような存在であったのかを知っておかなければなりません。エクイテスと呼ばれる騎士階級は、先祖伝来の有力家門である貴族に対して経済や商売で財を成した人々、騎兵を提供できる金持ちを指して騎士階級と称したのが始まりとされています。下世話な言葉を使うならば「成金」ですが、帝政では貴族が政治をして騎士が行政を行うといった役割が存在しており、執政官や国務官といった官職を務めた騎士が元老院議員となり新しい貴族として迎えられる例も珍しくはありませんでした。
近衛軍団はローマの首都に駐留する軍団で、その長官には通常は元老院議員ではなく騎士階級出身者が登用され、騎士階級にとっては出世の到達点の一つともされていました。原則としては皇帝を警護するので例えば皇帝が前線に出陣する場合には近衛軍団を従えることもありましたが、首都にいる軍団として行政を担う役割や、皇帝の傍らにいる長官には官房長官的な役割が要求されることもありました。そして近衛軍団の持っている最大の力として、首都どころかイタリア半島内に立ち入りが許されていない各軍団の中で唯一首都に駐留できるという事情があり、騎士階級出でありながら皇帝の傍にあって、行政を掌握しながら軍団をも保持する近衛軍団長官は元老院議員にすれば嫌わずとも好ましい存在ではなかったでしょう。
ですが広大なローマの中心である首都の行政を蔑ろにすることはできず、セイヤヌスの有能さは彼に好意を持っていない人々でさえ認めるもので人事には厳格なティベリウスもその才腕を高く評価していました。災害対策や経済政策、公共建築などに尽力し、それまで市内に分散していた近衛軍団の営舎を一箇所に統合して指揮の効率化を試みてもいます。現在では国立中央図書館になっているらしいカストラ・プラエトリアの設営は首都の治安強化にも役立ちましたが、この措置自体は軍事力が集中することで近衛軍団の影響力を不必要に強めることになったとも批判されています。セイヤヌスの活躍と台頭は彼の手腕と実績を思えば正当なものでしたが、ティベリウスの出身家系であるクラウディウス家の男児とセイヤヌスの娘の婚約が行われたりと、助長する一方であった勢威には元老院議員どころかティベリウスの息子ドゥルーススからも懸念の声が上がったほどです。そして皮肉にも、ドゥルーススの懸念が真っ先に降りかかったのは彼自身の身に対してでした。
当時、ティベリウスの後継者と目されていた英雄ゲルマニクスは早逝しており、実子であるドゥルーススが年齢でも実績でも有力とされていました。そのドゥルーススが自分を敵視している状況を危険視したセイヤヌスはドゥルーススの妻リヴィアを懐柔すると、侍医や近侍までも買収して皇帝の息子を毒殺することに成功します。ドゥルーススの突然の死の事情は不明のまま、後にセイヤヌスの妻アピカタの証言が得られるまで八年もの間知られることがありませんでした。更にセイヤヌスはゲルマニクスの未亡人アグリッピーナも追放しますが、ゲルマニクス派を糾合して皇帝への糾弾と政治活動をはばからないアグリッピーナの排斥にはティベリウスも積極的に賛成したと言われています。
セイヤヌスの真意が当初からティベリウスの後継者を誅殺して自分が後釜に座ることにあったのか、あるいは単に自分の権勢を保持することだけを考えていたのかは今となっては知りようもありません。セイヤヌスは未亡人となったリヴィアとの再婚を申し入れると騎士階級には分不相応であるとしてティベリウスに拒絶されていますが、いずれにせよ自らの影響力を強めようとしていたことは確かでしょう。一方でカンパーニアに滞在するティベリウスが落盤事故に会った時には、身を呈してこれを守り献身を示してもいます。
ティベリウスがカプリ島に隠棲して統治を行うようになるとセイヤヌスの権勢は頂点に達し、実質的な皇帝秘書としてすべての指示や報告を扱う立場を利用してローマの統治者のごとく振舞うようになります。自らの誕生日を祭日にしたり、軍団基地にティベリウスと自分の像を並べたりと幼稚な決定を下すようになったのもこの頃でした。アグリッピーナの追放に伴いゲルマニクスの長男も追放、次男は幽閉されて三男の幼いガイウスを除けばティベリウスの血縁や後継者候補はほとんど遠ざけられており、元老院議員も成り上がりの騎士階級風情が皇帝の代理人顔をしていることに憤慨しながら、進んでセイヤヌスの友誼を求めようとしたほどです。ですがこうした「セイヤヌスの統治」は彼自身の策動や暗躍を除けばその行政に綻びはなく、ティベリウスの指示が無視されたり蔑ろにされたこともありません。首都に姿を見せずとも皇帝はやはり「鋼鉄の巨人」ティベリウスであり、国境は平穏で治安は万全、財政は健全でローマの統治がティベリウスの治世で揺らいだことは唯の一度もないのです。
人がどのように評価しようともその治世は暴政や恐怖政治と呼ぶには遠いものでしたが、市民はセイヤヌスを使って家族を処断するティベリウスを軽蔑し、元老院はセイヤヌスを立てて自分たちを顧みないティベリウスに憤慨しました。どのような悪評を被ろうとも意に介せず皇帝であり続けるティベリウスは優秀で有能なセイヤヌスにも正当な評価を下していましたが、「恐るべきティベリウス」の性格を忘れたセイヤヌスが臣下の分を踏み越えればそこには無論正当な処断が待っていたのです。隠棲しながらも隣国パルティアに不穏な動きがあれば断固とした措置も辞さず、属州総督を訴える裁判には必ず目を通して厳格な処断を行っていたのが皇帝ティベリウスでした。
紀元31年、ティベリウスとセイヤヌスは同僚の執政官に就任します。これは騎士階級出身のセイヤヌスが元老院に議席を得て新しい貴族に迎えられるということであり、共同統治者としてティベリウスの後継者に目されたようにも受け取られました。この処遇はセイヤヌスの権勢に疑いを持ったティベリウスが彼を油断させようとした狡猾な策略だとも言われますが、逆にこれを機にセイヤヌスの暗躍がティベリウスに知られるきっかけになったとも言われています。ローマの執政官は危急の戦時を除けば一人は首都にいるのが決まりであり、ティベリウスがカプリ島にいる以上セイヤヌスはローマを離れられず皇帝への報告を独占することができなくなっていました。
同年5月、ティベリウスが突如執政官の辞任を宣言するとセイヤヌスもこれにならって辞任します。そして10月になって後任の近衛軍団長官に任命されたマクロがセイヤヌスの屋敷を訪れると自分が近衛軍団を引き継ぐことと、セイヤヌスに皇帝権限である護民官職権が与えられることになったという伝言を伝えました。喜んだセイヤヌスは足取りも軽く翌日の元老院に赴くと、読み上げられる「ティベリウスの重要な書簡」に耳を傾けますが激烈な調子で記されたそれはセイヤヌスを糾弾し彼を処断するというものだったのです。元老院議員は喝采してセイヤヌスを捕らえると一族郎党処断してしまい、法律では処女の処刑を禁じていたのでセイヤヌスのうら若い娘は裁判の前に陵辱されたとも言われています。セイヤヌス派であった多くの議員も粛清され、すべてが終わって結局はティベリウスの強権と残酷さを印象づける結末となりました。
ここでセイヤヌスの野心の実態を追求することにあまり意味はありません。セイヤヌスの台頭から処断までをティベリウスの失政に数えることは可能ですが、政治と行政の分離はアウグストゥス以来の制度であり、皇帝を補佐する秘書官の存在も後に公的なものとして「どもりの歴史家」クラウディウスによって引き継がれていきます。もしもティベリウスが誤ったのだとすれば、それはセイヤヌスの野心をティベリウスが予期できなかったということでしょう。セイヤヌスにとっては騎士階級出身の自分が皇帝の代理人を経て皇帝の一族に連なることに、野心を刺激されたのであろうことは充分に想像が可能です。ですがティベリウスにとっては元老院が頼りがいのない集団であったのと似た理由で、セイヤヌスも単に頼りがいのある近衛軍団長官でしかありません。そして「鋼鉄の巨人」ティベリウスは良くも悪くも人に多くを頼るような人物ではなかったのです。
ティベリウスにとって元老院が頼りない補佐機関であり、セイヤヌスが頼れる補佐官であったとしても自分のパートナーや後継者にするなど考えもしなかったことでしょう。自分を助ける優れた部下が近衛軍団長官の分を犯したとき、ティベリウスは容赦なくこれを処断しましたがそれは自分が構築したシステムに生まれた欠品であって、不正を犯した属州総督を断罪しても属州総督の廃止はしないのと変わらない感覚ではなかったでしょうか。もちろん元老院議員にとってティベリウスの統治とセイヤヌスの横暴を峻別する理由はありませんが、孤独なティベリウスの統治において重要な人物はティベリウスただ一人しかおらず、それをセイヤヌスもまた理解してはいなかったのでしょう。たとえその治世が暴政や恐怖政治と評されたとしても、ことの真偽はともかくとしてその責任はティベリウス一人に帰せられる、それが皇帝ティベリウスの統治でした。
あるいはセイヤヌスは心からティベリウスの忠臣であることを望み、その統治を助ける自らの勢威を増すことを望んでいたのかもしれません。それがセイヤヌスの傲慢であったのか、ティベリウスの狭量であったのかを知る術は最早ありませんが、優れた統治を行いながらもティベリウスの真意を知ることができなかったセイヤヌスは断罪され、歴史上には不名誉な佞臣としての評価を残すのみとなるのです。後世、孤独なティベリウスの評価が改められたときもセイヤヌスに対する評価が変わることはありませんでした。
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