ガイウス・センプローニウス・グラックス(Gaius Sempronius Gracchus)
生没 前154年〜前121年
私的評価
統率B
知謀B
武勇C
政治A
魅力C
グラックス兄弟の弟であるガイウス・グラックスは多くの面で兄と比べられる記述が多く、その性格や気性の違いまで残されていますが当人がそれを気にしていたかどうかは窺い知りようもありません。温和な兄ティベリウスに比べると弟はずっと気性が激しく、自信家で派手な生活を好んだとも言われています。彼の性格を現すようにその演説も火を噴くようなもので、演壇の後ろに伴者を従えて自分が激してきたら楽器を鳴らして知らせてもらっていたというほどでした。いずれにせよ、そうした伝記を置いてもガイウスは兄にも勝る優れた政治家であり、多くの改革を断行した人物であり彼の政策は後にローマが共和政から帝政に変わってもなお受け継がれていったほどです。
ティベリウス・センプローニウス・グラックスが倒れて農地法は生き残っていたものの、それを実施する三人委員会が推進力を失ったことによって運営は先細りとなっていました。委員会にはガイウスの名もありましたが、未だ二十歳になったばかりでは影響力を発揮できる筈もなかったでしょう。ガイウスはキャリアを積むべく財務官としてサルディニア島に赴きますが、現地では冬営時の衣類や食料などが大幅に不足しており若い財務官に解決が委ねられます。財務官とはクワエストルの訳語で、戦い以外の諸事すべてを担当する役職でしたがガイウスは現地人を説得したり、グラックス家の後援者であるヌミディア王の助力を得るなどしてこれらの任務を充分に果たしてみせます。
元老院はこのガイウスがグラックス兄弟の弟であることや、財務官として活躍しつつも独断的な判断や動きが多かったことに警戒はしましたがその活動を妨害するようなことはありませんでした。多少反発心が強かろうとも若者とはそういうものだし、ガイウスがどのような政治思想を持っていたところで二十代のまだ何もしていない若者を押さえつけるような愚を元老院が冒す理由もありません。
紀元前124年、ガイウスは三十歳になると同時に護民官選挙に出馬して当選します。このとき元老院も自分の派閥に属する対抗馬を送り込むとこれを当選させており、もともと当選確実と思われていたガイウスは辛うじて第4位の票数を得ることができたということです。いかに対抗馬を設けたとはいえ元老院がそこまでの妨害を意図していたとも思えず、ガイウスへの期待も警戒も人が思うほどに大きくはなかったようですが、ガイウス・グラックスの目的はこの護民官になることそのものでした。
† † †
護民官になったガイウスは続けざまに、驚くほどの量の法案を平民集会に提出します。兄が成立させていた農地法の再承認はもちろん貧乏人に小麦を格安で配る小麦法、職を失った人々のために公共事業の振興を行う法律や植民都市を建築して人々を入植させる法律などがありますが、護民官の再任を認める法や決議により解任された者はその後官職につけないとする法、裁判なく市民に手をかけた高官は裁判を受けなければならないという法まであったことを見ればガイウスが護民官に立候補する以前からこれらの法案を温めていたことは明らかでした。
歴史家プルタルコスはこのガイウスを「有能な扇動政治家」と評していますが、その手腕と精勤ぶりは彼を警戒する元老院も驚嘆するほどであり、単に平民だけを優遇する訳ではなく貧窮する人々を救うためにローマの経済活動を底辺から活性化しようという発想は注目に値します。それまで元老院議員が独占していた陪審員を騎士階級の金持ちたちと等分したり、税制を改革して増税せず税収を増大させることにも成功していました。
ガイウスの税制は具体的にはそれまで商人ごとに通行税のように取っていた関税を商品ごとに変えることにより、商人の往来ではなく商品の往来が増えれば税収が増えるという手法に改めるといった方法であり、ローマ史を通じてもこれだけ税制に通じた人物は彼を除けば初代皇帝アウグストゥスと「公衆便所皇帝」ヴェスパシアヌスくらいのものでしょう。ローマの経済力は飛躍的に向上し、護民官と平民集会によってローマが改革される様は元老院議員に決して面白くなかったかもしれませんが彼らも事実を曲げてまでガイウスの実績を否定しようとはしませんでした。
公正と効率化によって税制を強靭なものに変える、その改革は反対派すら認めるほど効果を上げていましたが、更なる効果を上げるためにガイウスは市民権の改革に手をつけます。センプローニウス市民権法はイタリア半島に暮らすすべての住民に、段階的にではあってもローマ市民権を与えていこうというものでした。イタリア半島の緒都市はローマ市民が暮らす直轄地以外にも属州として属州税を納める都市、完全な自治を認められている同盟都市など様々に分かれています。ガイウスの構想はこれらを平等なローマ市民として扱うことで、ローマ法の対象になって経済活動も大きくなり税収も増大するというものでした。
ところがこの法案に元老院だけではなく多くのローマ市民までもが反対します。すでにローマ市民である彼らが既得権を侵害されることを嫌ったのだという意見もありますが、事情はより深刻なもので「分割して統治せよ」と呼ばれる複数の制度の都市が混在する状況こそローマの基本戦略であり、それは分割しているからこそ蛮人や外敵に襲われても総崩れせずに抵抗できるという、かのハンニバルにも抗した防衛戦略の要だったのです。無論、ガイウスもその点を心得てはいたでしょうがローマが拡大する中で旧来の戦略を由とせず、国の構造を変えてでも改革を行う意味があると考えていたのでしょう。
ですがここでガイウス・グラックスも兄のティベリウスと同様の錯誤を犯します。彼の政策はすべて護民官として平民集会で成されており、それはホルテンシウス法で認められた正当な手法ですが政治とは法に従えばいいというものではありません。統治のために必要な法を制定したり改定する、政治に熟達した元老院にすればガイウス・グラックスの優れた手腕は認めていますが、その手法が危険極まるとあれば適法であっても非難するにやぶさかではないのです。共和政ローマには緊急措置として独裁官と呼ばれる官職が存在していますが、その独裁官に定められている権利ですら「国の基本戦略を変える以外は何をしても良い」となっていました。護民官ガイウス・グラックスがそれを変えるという言葉に賛成できる筈がありません。
元老院の対策は姑息なものでした。それはティベリウスの時のように他に手段が無かったというよりも、手段を選ばぬほど元老院の危機感が深刻なものであったことを意味します。紀元前122年、自分の法によって護民官に再選されていたガイウスに対抗して元老院が送り込んだのが同僚護民官となるリヴィウス・ドゥルーススですが、このドゥルーススが続々と提出した法案は過激としか言いようがないものでした。
ドゥルーススの法案は農地法であれば国の土地は貧乏人にタダで配られる、植民地法であればもっと多くの都市を建てて希望者はタダで住んでよいといった具合で、いわゆる人気取り政策を乱発することでガイウスから支持者を奪おうというのです。もちろんドゥルーススには「公約」を守るつもりなど毛頭ありませんが、耳に心地よい言葉さえ言えば票を投じてくれることが平民集会に象徴される民主主義の最大の欠陥であり、ガイウスが平民集会を利用するのであればドゥルーススもそれを利用します。一方でガイウスが提案していた旧カルタゴの地に建設を予定していたユノー植民都市に対しては、呪われた敵地にローマ人を住ませるなど正気とは思えないというネガティブ・キャンペーンも忘れません。
情勢は揺らぎ、このユノー植民都市の建設の可否を問う投票が彼らの対立の争点となりました。賛成派も反対派もカルタゴの未来ではなく、ガイウスにつくかドゥルーススにつくかがこの投票にかかっていると考えます。信任投票的な色彩を帯びた平民集会での投票を前にローマは賛成派と反対派に二分されて一触即発の空気に満たされていましたが、ここに騒動が起きてアンティリウスという下役人がずかずかとやってくると、グラックス派の人々に「悪党は道を空けろ」となじったので怒った人々が彼を刺し殺すという事件が起きてしまいました。裁判もなく市民が殺される、皮肉にもそれをグラックス派の人々が再現したのです。
絶好の口実を得た元老院は「秩序維持のための元老院最終勧告」を発動します。グラックス派が市民を殺すという事態に対するいわゆる非常事態宣言であり、事態の収拾はすべて執政官オピミウスに委ねられるとの宣告がなされました。この非常事態下では護民官の権利は認められない、とはローマ法にも明記されておりガイウスは拒否権を発動することができなくなります。
ガイウス・グラックスは自分が法を駆使してローマを改革した人物であっただけに、この状勢がどのような意味を持っているかを一瞬で理解したことでしょう。ローマでは自主的に逃亡したものは追放と見なされて罪が不問にされる、彼に唯一残された道はすべてを諦めて首都を脱出することですが人々が押しかけるローマではそれも絶望的でした。話し合いを試みても使者ごと捕らわれてしまうだけで、捕まれば後はその場で処断されて終わりでしょう。
逃亡を図ったガイウスですが、執拗な追跡を見てすぐに断念すると忠実な彼の奴隷と刺し違えて自決します。その首を持ち帰れば同じ重さの金を与えるというお触れがオピミウスから出ていたので、死体を発見した男はガイウスの首を切り落とすと鉛を詰めて献上しました。追求はそれだけでは終わらず、グラックス派の人々三千名が殺人者として裁判もなく死刑となり、遺族には喪服を着ることも禁じられてガイウスの妻リキニアは彼女が嫁したときの持参金まで没収されます。執政官オピミウスはこれを記念して融和と協調の神コンコルディアの神殿を寄贈したので、これはやりすぎだと憤激した者がその土台に「狂気の神殿」と彫り付けたというほどでした。混乱は終息しますが元老院の強硬な措置は人々に不満と疑念を残し長く雌伏することになっていきます。
ガイウス・センプローニウス・グラックスが多くの改革を成し遂げながら、結局は処断された理由も兄と同じくローマに王が生まれる危機を元老院が恐怖したからでしょう。ことにガイウスの政策はその多くを元老院も認めており、彼の死後はユノー植民都市のように中止されたものもありましたが、税制など多くの改革はそのまま残されているのです。
後に共和政ローマが帝政に移行してもガイウスの改革は継承され、歴史家の多くは彼の登場が早すぎたのだという意見に傾いています。確かにその通りではあるでしょうが、グラックス兄弟が退場して以降のローマの変革はマリウスやスラ、ユリウス・カエサルといった独裁色の強い人々によってなされていくことになり、共和政は崩壊してアウグストゥスが治める帝政ローマに移行した事実を思えばローマが独裁者に支配されて共和政が崩壊する、元老院が感じていたその恐怖もまた事実だったのです。
国が破壊されてもなお統治の実益を優先するのか。SPQRによらず護民官としてローマを改革しようとしたガイウス・グラックスが無意識に突きつけたであろう、この命題はおそらく現代になっても解決されていません。
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