皇帝トラヤヌス(Marcus Ulpius Nerva Trajanus)
生没 53年9月18日〜117年8月9日
在位 98年1月27日〜117年8月9日
私的評価
統率A
知謀D
武勇A
政治A
魅力A
最良の皇帝、至高の皇帝と訳されるオプティムス・プリンチェプスの称号を与えられ、キリスト教以前の皇帝としては唯一ダンテの「神曲」の中で天国の座を与えられたのが皇帝トラヤヌスでした。当時でも「黄金の世紀」と称された五賢帝の時代、その中でも皇帝トラヤヌスの治下で古代ローマ帝国の版図は歴史上最大を記録することになり、属州スペインの出身でありながら誰よりもローマ人らしいローマ皇帝と評されることになる、彼以後に登位する皇帝たちの誓いは「アウグストゥスの幸運とトラヤヌスの英知」を望むことが慣例となったほどの人物です。
多くの史書や史跡がたどられていくうちに当時では罵声を浴びながらも後代になってその評価を見直される人物や、逆に後代になって疑問符を投げ掛けられる人物が存在することは歴史の常ですが、トラヤヌスのように当時でも現代でも賢帝としての評価が常に一致する人物はごく珍しく、あまりに批判する余地がないためかタキトゥスを始めとする多くの歴史家や文人が彼に関する記録を遺さなかったことが後代を嘆かせる原因となっているほどです。軍団を率いて無敵であり統治においては公正で賢明、市民や元老院議員にも敬愛されて家庭は円満で妻ですら控え目な良妻として知られている、確かにこのような人物の伝記を書くことは批判が信条である歴史家にとって困難な所業であるに違いありません。
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本名はマルクス・ウルピウス・ネルヴァ・トラヤヌス。ネルヴァは前皇帝の養子に迎えられて以後に受け継ぐことになる家名ですが、ウルピウス一門は属州スペインはイタリカの町にある氏族の一つとされています。ヴェスパシアヌスの治世で父親が元老院議員として貴族の列に加えられたのが、ウルピウス一門が歴史に登場する最初となりましたがその息子であるトラヤヌスは属州出身者としては初めてローマ皇帝に選ばれた人物となりました。
トラヤヌスの父は皇帝ティトゥスによるエルサレム攻略戦の時期に軍団長の一人として前線にあり、若きトラヤヌスも父の陣営地で軍歴を積んだのであろうと言われていますが、新参の元老院議員の息子でしかなかった青年の記録が残っている筈もなく判然とはしていません。それでも若くして軍役にあったトラヤヌスが順調に階位を上げていたことは疑いなく、ドミティアヌスの時代になると皇帝から推挙されて執政官に選出、最前線たる高地ゲルマニア属州の総督に任命されました。それは当時ゲルマニアで勃発しながらも早期に鎮定されていた反乱の事後処理のためという事情がありましたが、皇帝自らゲルマニア防壁を構築した、その国防の要所を任されたことは軍司令官としてのトラヤヌスの力量をドミティアヌスが高く評価していた証拠でもあったでしょう。勇猛な蛮族を相手に国境を守る若き将軍は皇帝だけではなく、兵士からの厚い信任を寄せられていました。
やがてドミティアヌスが暗殺されて後も最前線にあるトラヤヌスの境遇が大きく変わることはありませんでしたが、それが転機を迎えたのは翌紀元98年、老いた皇帝ネルヴァが後継者を定めるにあたって軍団兵に信望のあるトラヤヌスを養子として迎えたことに始まります。これによって軍部の反発と動乱は未然に防がれることになりましたが、説によればこの養子縁組は軍主流派の圧力にネルヴァが屈した結果であるとも言われており、その中心人物であったルキウス・リキニウス・スラは後にトラヤヌスによって三度もの執政官職に任命されると死後は国葬に付されています。
いずれにせよネルヴァが急逝して最前線にいるトラヤヌスが皇帝就任の報を受けた当時、ローマの情勢は首都であれば暴走した近衛軍団兵が強権を振るっており辺境では属州総督による不正が横行して住民が収奪に喘いでいるといった有り様でした。トラヤヌスは彼が駐留するライン河近くの陣営地に近衛軍団長のカスペリウスを呼びつけるとこれを早々に処断してしまい、首都を黙らせると一年以上も最前線に留まり続けて国境を安定させることに専心します。紀元99年も半ばになってようやく首都を訪れることになる新皇帝は、出迎える元老院議員たちを前に馬を下りて徒歩姿になると人々と並んで議場へと向かいました。長身で人々より頭一つ高いトラヤヌスですが威圧的に振る舞う素振りもなく、元老院を主導して内政の立て直しを始めます。
トラヤヌスはネルヴァ治下のわずか一年で弛緩していた属州統治の締め付けを行い、元老院議員に首都イタリアの不動産を取得する義務を与えることによって、地方への行き過ぎた出資が過剰な収奪の温床となる事態を未然に防ごうと試みました。厳格なドミティアヌスの治下で保たれていた公正を取り戻し、行政を主導する執政官には若く身分が低くとも能力のある人材を積極的に登用して人事の刷新を図っています。この措置を指して小プリニウスが曰く、将来高貴になる人が現在高貴な人に劣る理由はまったくないとして肩書きにこだわらず人材を求める皇帝を称賛しました。
質実剛健を絵に描いたようなトラヤヌスの政戦両略は常に足下の地盤を固め、優先すべき課題を解決して後顧の憂いを無くしてから確実に一歩を進めていくのが流儀であり、その上で障害があれば正面から切り崩して危難を踏み越えてしまいます。首都にある近衛軍団の蠢動を抑えてからライン、ドナウ流域を周って兵士を激励しながら国境の安定を図り、首都に戻ってからは議会と裁判に専心して不正が横行する属州統治に公正さを回復させる。この皇帝の中では目的と優先順位の二つが常に明確であり、そのトラヤヌスにとって属州統治の回復は次の戦役を行う準備が万全に整ったことを意味していました。ローマにはドミティアヌス時代の弱腰外交で市民の不興を買っていたダキア問題の解決が求められており、当地では王デケバロスが周辺の群小部族を糾合して大いに勢いを示しています。ラインとドナウ、両大河にまたがる国境を恒常的に鎮めるには強大なダキア王国を放置することは許されない状況になっていました。
こうして今もトラヤヌス円柱に遺される、巨大な浮き彫りに刻まれた二度のダキア遠征はいかにもトラヤヌスらしい堅実で容赦のないものになりました。建築家アポロドロスを技術顧問に従えた皇帝はドナウ河流域に大軍を置くと、大河をまたぐ長大なトラヤヌス橋の建造に着手します。全長1.1キロメートル、高さ27メートル、幅12メートルの巨大な建造物がわずか一年で完工し、整然とした軍団兵の列が橋を越えて街道と陣営地を敷設しながらダキアに攻め入りました。攻める側が攻められる側よりも兵が多く、物資は充実して陣営地は町としか呼びようがなく堅牢な柵や塹壕はもちろん浴場や病院まで設けられている。そのようなローマ軍団の侵攻にダキアの村々が対抗できる筈もなくデケバロスも勇猛に戦いますが最後には自決して果てる道を選びます。
ローマ市民と元老院にとって、久しく味わったことのない直接的な勝利の報が首都をどれほど熱狂させたかは想像に難くありません。反乱の鎮定や戦闘による勝利はそれまでもたびたびありましたが、初代皇帝アウグストゥスの遺訓により専守防衛を常とする帝政ローマで、領土拡大に繋がる勝利となれば50年以上昔のクラウディウスによるブリタンニア遠征まで遡る必要がありました。皇帝の帰還を待って紀元107年に挙行された凱旋式では捕虜や財宝を満載した荷車の列が街路を練り歩き、連日の祝祭は123日にも及んだと言われています。新領土となる属州ダキアに軍団兵が派遣されて、大規模な入植が行われました。
ダキアを平定したトラヤヌスは再び内政に専念して帝国全土に多くの建造物を築きます。それはトラヤヌス自身の指示によってアポロドロスが築いたものもあれば、皇帝の援助を受けて各地の有力者が建造したものも多くありました。豪壮な神殿や議堂に回廊を備えたトラヤヌス広場、丘面を切り崩して設けたトラヤヌス市場、貯水池や公共浴場以外にも旧来のクラウディウス港に繋がる正六角形の寄港地として建造したトラヤヌス港や街道の女王とまで呼ばれたアッピア街道を補修、複線化したアッピア・トライアーナ街道など枚挙に暇がありません。古代ローマの建築物に用いられていたレンガには製造年が刻印されるのが常でしたが、この時期に製造されたレンガが帝国全土で多数算出されているという事実がローマ史上に冠すると評されるほどの公共工事の充実と経済の発展とを雄弁に物語っています。
登位から15年を経た紀元113年、皇帝は東方の大国パルティアへの遠征を決意します。ローマは共和政の時代にパルティアを相手に一敗地にまみれていた経験があり、その後ネロの時代に名将コルブロの活躍もあって友好的な関係が樹立されていましたが両国の干渉役にあるアルメニアで王位継承問題が起こり、親パルティア派に押されて追放されそうになった王が保護を求めたことがローマが介入する大義名分となりました。そしてトラヤヌスが軍を出すとなればそれはアルメニアではなく後背のパルティアまで制圧することを意味しています。
皇帝が率いる軍団は瞬く間にチグリス河を越えてパルティアの首都クテシフォンを陥落させ、メソポタミア属州の設立が宣言されますが偉大なる征服者トラヤヌスもこの地の平定には成功せず各地で反乱が勃発、収拾に困難を極めます。更にこれを好機として後背地のユダヤでも暴動が発生すると、地中海東部のユダヤ人地区にも波及して中近東は動乱状態となりました。こうした状況への心労によるものか、或いは東方の風土によるものかトラヤヌスは体調を崩すと軍を引き上げざるを得ず、首都ローマに向かいますが途上で病状が急変すると息を引き取ります。あと一月ほどで64歳の誕生日を迎える筈だった皇帝の遺灰が帰還すると、元老院と市民は葬列ではなく勝利の凱旋式で偉大なる征服者トラヤヌスを迎えました。
トラヤヌスは疑いなく最良の皇帝と讃えられるに足る人物であり、軍務における実績と拡大した領土はもちろん、時宜に適った政策を断行して過去に断罪された皇帝の功績でも公正に評価し、それでいて人々の敬愛を失うこともなく威厳ある態度を崩すこともありませんでした。ネロ最初の五年間をローマ最良の時代と評し、厳格なドミティアヌスの政策を堂々と復活させたのもトラヤヌスです。この皇帝の統治に疑問を投げかけることは容易ではなく、家庭も円満で時に美しい青年を好む趣味がありましたが耽溺するではなく観賞して楽しむ程度に留めているだけでした。ワインを水で割らずにそのまま飲んだという伝えもありますが、これも皇帝ティベリウス同様に個人の嗜好の問題でしかありません。
国境を出て打撃を与え、ローマの強勢を示してから周辺を鎮定する。交通や農耕を整備しつつ通商を行い移住する人々を受け入れ、国境の内外を豊かな地へと変えていくことでやがて平穏化させる。ローマ伝統の戦略で版図を拡大させた、そのトラヤヌスにもしも欠けているものがあるとすればそれはダキアとメソポタミアに象徴される彼の軍略への識見であったかもしれません。ドナウ河を渡った対岸にあるダキアは国境から突出しており、良く言えば最前線を守る橋頭堡となりましたがそれは国境線を守る負担が増したことを意味してもいました。蛮族の襲撃や侵入が著しくなるとダキアは早々に放棄されて国境はもとのドナウ河に戻りましたし、メソポタミアに至っては後を継いだ皇帝ハドリアヌスが先帝の軍略を由とせず早々に全軍を撤退させてしまいます。
軍を率い、国を治めてトラヤヌスに勝る統治者はローマの長い歴史の中でもごくわずかなものでしょう。ですが彼自身がネロやドミティアヌスの政策を評価して引き継いだにも関わらず、征服者トラヤヌスの政策で後代に引き継がれなかったものが皇帝の征服地であったという事実は疑いようもありません。帝政ローマの創設者、アウグストゥスは死に際して「これ以上ローマの国境を広げてはならぬ」と彼の後継者に言い残していました。
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