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ガイウス・マリウス(Gaius Marius)



生没紀元前157年〜紀元前86年1月13日

私的評価  統率A 知謀B 武勇B 政治E 魅力B

 かのマルクス・トゥリウス・キケローには「権威ある偉人」と評されながらローマに内戦をもたらした軽挙で非寛容な人物であるとも批判され、歴史家プルタルコスにも優れた将軍と称揚されつつ攻撃的な人柄が欠点であると指摘される、軍人としては優秀だが政治家としては無為無能というのがガイウス・マリウスに対する最大公約数的な評価でしょう。多くの軍功を立てて襲来する蛮族からローマを救ったことによりロムルスとカミルスに次ぐ第三の人と讃えれていますが、それすらとんでもない誤りであったと語る評伝すらも存在しています。軍政改革を行いローマ軍団に昔日の強さを取り戻した一方で、改革は軍団の私兵化を促し共和政を滅ぼす端緒にもなりましたが裏を返せばそれだけの劇薬を処方しなければローマの弱体化は解決できなかったことも事実でした。かつてティベリウス・グラックスが打ち鳴らした警鐘を只一人止めることができた人物、それがガイウス・マリウスです。

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 マリウスはローマ近郊の地方都市アルピノに生を受け、貧乏な農家の出自であったともそれなりに裕福な家だったとも言われていますが彼以前の先祖に名を知られた人物がいなかったことは間違いありません。伝説によれば幼いマリウスの家で七羽の雛を育てる鷲が巣を作り、七度の執政官就任を暗示していたとされていますが少なくとも当人も鷲を好んでいたようで、後の軍政改革ではそれまで鷲・猪・狼・馬・ミノタウロスに分かれていた軍旗を統一して以後ローマが滅びるまで軍団の象徴は鷲であり続けました。性格は無骨で豪快、いつも不機嫌そうな人物で惰弱なギリシア文化を心の底から軽蔑し、東地中海の公用語であるギリシア語すら頑なに覚えようとしなかったと言われています。
 このような人物が進んで軍役に身を投じたのは当然で、一騎打ちも辞さない勇猛さで武勲を重ねると当時の遠征軍司令官である小スキピオに気に入られて大隊長に抜擢される活躍ぶりを示しました。ある祝いの宴席でかつてハンニバルを破った大スキピオが、今はカルタゴを滅ぼした自分がいるがその後には彼がいるとスキピオ自ら若いマリウスの肩に手を置きます。その後は護民官として当選すると富裕層の票を制限する法案を可決させて貴族や元老院に難しい顔をされますが、決して敵対していた訳でもないらしく当時の名門貴族であるユリウス家から妻を娶っています。造営官選挙は落選しますが法務官には選出されると属州総督としてスペインに赴任、叛乱討伐に功績を挙げました。

 このマリウスを有名にしたのがユグルタ戦争です。それまでアフリカ北岸にあるヌミディア王国はスキピオ家やグラックス家の後援を受けていましたが、紀元前110年頃になると両家は衰退して家系が絶えていました。王が死んで妾の子ユグルタが三人の王子と争うと、調停役がいないローマは使者を送りますが賄賂をたっぷりと掴まされ篭絡されてしまいます。ことがお家騒動に留まっている間はそれでも構いませんでしたが内乱となりローマ市民に犠牲が出ると看過できなくなり、前後の事情もあって元老院は廉潔で知られていたメテルスを将軍として派遣しました。ところが廉潔なメテルスは残念ながら将器ではなく事態は一向に好転しません。副官として従軍していたマリウスは自分が執政官になり指揮を採るから一時除隊の許可が欲しいと願い出ます。なかなか無礼な発言にメテルスも傍らの息子を指すと「ではこの子が大人になったら執政官になるかね」と揶揄しますが、除隊が認められて帰国したマリウスは執政官選挙に出馬、ユグルタ戦争の早期集結を公約に掲げました。

「私に教養はないが男には誠実さがあれば充分だと思っている」

 膠着する事態に辟易していた人々は無名の新人に圧倒的な支持を与えて当選させますが、更迭されたメテルスは新司令官との会見を拒否、イタリア北部で蛮族討伐に出陣する同僚ロンギヌスに指揮権を譲ると宣言します。もちろん嫌がらせには違いありませんが海の向こうのヌミディアよりもイタリア半島の防衛が危急なのは事実でした。マリウスは新たに兵士を集める必要に迫られますが、弱体化著しいローマ軍団が徴募して使い物になるまでどれだけ時間がかかるか知れません。
 こうしてマリウスの改革と呼ばれる軍政改革が実現します。それは国を変質させて共和政ローマを滅ぼす一因ともなりますが他に方法はなかったでしょう。内容は単純かつ明快、それまで自己負担だった武器防具は国が支給して兵士には従来通り給料が支払われることと、退役後は土地と年金を与えるというものでした。たったこれだけで何が変わったか、それは生活保護を受けていた貧民がその権利を捨ててでも一人前の市民になるべく陣営に殺到したことです。鍛えられた兵士は武器食料資材など40kgの装備を自ら背負う行軍に耐えて「マリウスの驢馬」と呼ばれるようになりました。驢馬のように忍耐強く頑健な戦士の群が誕生します。

 新生なった軍団はヌミディアで連戦して連勝、追い詰めたユグルタを外交戦で捕らえたのがマリウスの副官スラでした。戦勝の功績を独占したマリウスとスラの間に遺恨が残りますがともかくユグルタ戦争は終結して残るは蛮族討伐です。アルプスを越えて襲来するキンブリ族やテウトネス族を相手に元老院が送り出した軍団は敗北、中でも名門貴族カエピオは八万の軍勢をほぼ壊滅させられる醜態を演じていました。まだアフリカにいるマリウスが翌紀元前104年の執政官に指名、蛮族討伐の采配を握ることが決定しますが幸い蛮族もすぐには南下せず、新執政官は日々陣営に身を置いて彼の軍政改革と兵士への鍛錬を推し進めます。
 二年後、兵士家族含めて三十万を数える蛮族がアルプスを越えると満を持して出立したマリウスは現在のプロヴァンス近郊に布陣、陣営地というものを理解していない蛮族は敵が恐れて出てこないのだと思い防柵の向こうを悠々と通過します。ローマに伝言があれば俺たちが伝えてやろうと嘲弄しますが、猛る兵士を抑えたマリウスは敵が去るのを見届けると背後から襲いかかり戦闘というよりも一場の屠殺が展開されました。史料によれば無数の死体が土地を肥やして稀有の豊作になったといいますが、軍を返してアルプスに急行したマリウスは東から侵入するキンブリ族に向かい今度は正面から激突すると大スキピオ以来の包囲戦を敢行して圧勝、蛮族の王たちは捕らえられて他の部族も逃げ帰るしかありませんでした。民衆は喝采して勝将マリウスを翌年の執政官に選出、それまで異例を承知で連続就任させていた執政官職を戦争が終わっても続けさせることを決定します。平民出身の英雄ガイウス・マリウスの権威と名声は頂点に達しますが、残念なことに彼の凋落もここから始まりました。

 戦場の英雄マリウスは彼が断言したように教養がないので政治は他者に頼らざるを得ず、そして彼の支持母体である民衆派とは古来より過激で調子に乗りやすい人々を指していました。護民官サトゥルニヌスは軍団兵の退職金に占領地を供与する法を抱き合わせてマリウスを懐柔しつつ、元老院議員の追放や処分といった法を次々と可決させていきます。元老院は憤激しますがサトゥルニヌスは聞く耳を持たず、増長した挙げ句に対立する護民官候補を暗殺する暴挙に出ました。ここまで来れば元老院には絶好の口実であり、もはや看過できぬと「秩序維持のための元老院最終勧告」が宣言されます。護民官の権限はすべて凍結されて事態の解決が執政官、つまりマリウスに委ねられることになりました。マリウスにすれば裏切り者を選ぶか反逆者になるか二者択一を迫られたことになり、時間稼ぎをして事態の収拾を図る手腕があればそもそもこんな事態には陥っていません。悩んだ末に前者を選ぶとサトゥルニヌスを処断、民衆派を裏切り元老院には信頼できぬ同士でしかないマリウスは失意して隠遁します。
 ともあれ混乱は終息しますがここにきてマリウスの改革は新しい弊害を生み出していました。古来より徴兵制を敷いていたローマで軍役は市民の義務と同時に百人隊ごとの票を行使できる権利でもあり、多くの兵を供与する貴族や富裕者は多くの票を持っています。改革はこの票を貧民にも与えますがこれは元老院も承知しており、義務を果たす者が権利を行使するのは当然ですから彼らも負けじと多くの兵を供与した事情は変わりません。問題はローマ市民ではない、イタリア半島に多く暮らしているラテン市民にはその権利がないことでした。ガイウス・グラックスが指摘したローマ市民権拡大の要求がここにきて再燃したのです。

 ローマ市民は志願して軍役に就くと改革の恩恵を受けることができますが、ラテン市民は都市ごとの自治が認められている代わりに徴兵されて装備は自前、もちろん退職金もありません。紀元前91年、ラテン市民にローマ市民権を解放する法案を提出した護民官ドゥルーススが暗殺されると激昂したラテン諸市が団結してローマに叛旗を翻しました。世にいう同盟者戦役が勃発、鎮定にはマリウスも駆り出されますが同胞相手の戦いを嫌った彼は威圧することに専心、挑発をされても齢六十を過ぎた身で「一騎打ちなら受けて立とう」と言い放ちローマ人同士の殺し合いを回避します。内乱は最終的にローマが折れて市民権は解放されましたが今度はこれを機に東方アジアでポントスの英雄ミトリダテスが挙兵しました。
 アジア諸国を統合、一大勢力を築くとローマ打倒を唱えるミトリダテスを討伐すべく元老院はルキウス・コルネリウス・スラを司令官に任命、かつてマリウスの副官としてユグルタを捕らえたスラは今や貴族派の代表格でした。ところがこれに対抗した護民官スルピキウスが遠征軍司令官をマリウスに交替する法案を提出、平民集会で可決します。護民官の独断で国政が運営できる、グラックス兄弟が示した共和政ローマの欠陥ですが問題はスラがこんなことをされて大人しく引き下がる人物ではなかったということでした。旗下の軍勢を集めるとお前たちの司令官が侮辱されたと宣言、前代未聞の首都侵攻の挙に及びます。まさか現職の執政官が白昼堂々クーデターを敢行するとは夢にも思わず、スルピキウスは殺されてマリウスも逃亡を余儀なくされました。

 遠征軍司令官の座を取り戻したスラは後事を新執政官キンナに託して出立しますが、早々に民衆派に鞍替えしたキンナはマリウス召喚を画策、今度はマリウスが軍勢を率いてローマに侵攻します。時に紀元前87年、スラの首都制圧は民衆派を叩きのめすことが目的でしたが政治手腕がないマリウスのそれは政治的な行動にはなり得ません。貴族派だけではなく「マリウス追放に反対しなかった人々」が問答無用で粛正されて元老院議員五十名、騎士階級千人以上の首が演壇に並べられてごろごろ転げ落ちました。翌紀元前86年、歴代最多となる七度目の執政官に就任するマリウスですが直後に病臥すると急逝します。残された民衆派は帰国したスラに対抗できず、更なる粛正を受けてマリウスの遺灰も掘り返されるとテヴェレ河にばらまかれてしまいました。

 その生涯の事績を見るに、優れた将軍だが政治家としては無為無能というマリウスの評価は動かし難いですがローマ劫略を敢行した非道の人物と言われればそう単純な話でもありません。その行動は多く後世の批判に晒されていますが、後にユリウス・カエサルは大伯父たるマリウスの像を復元して自分が民衆派であることを誇示しており、人が権威付けに彼の名を使うとキケローも評したように「民衆派の英雄」マリウスの名はその後も確固たるものとなっています。名誉と栄光は求めても蓄財や放蕩とは縁がなく、平時でも質素な食事をとり戦場では兵士の先頭で剣を握るマリウスは昔ながらのローマ人を思わせる美徳の持ち主でした。
 惜しむらくは彼の人格的魅力と表裏一体である彼の狭量さにあったでしょう。端的な例が「廉潔なメテルス」との関係で、もともと自分の支援者であったメテルスに対するマリウスの態度は傲岸不遜と言うしかなく、ユグルタ戦争では除隊願の他にもメテルスの友人の失策を厳しく処断した上に嘲弄までしてのけています。ミトリダテス戦争の指揮権強奪でも相手がスラでなければマリウスがこのような愚挙に出たかと疑問に思えてしまい、部下や親しい者には寛大で嫌いな者には徹底的に酷薄な性格は幼いとしか表現しようがありません。短慮で豪快、稚気に溢れた戦場の英雄マリウス。ですが概してこのような人物こそ「好漢」として人に慕われたという事実は歴史上に幾らでも例があるのです。
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