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国家の父キケロー(Marcus Tullius Cicero)



生没紀元前106年1月3日〜紀元前43年12月7日

私的評価  統率B 知謀A 武勇C 政治A 魅力C

 共和政の当時から中世を経て二千年後の現代に至るまで、マルクス・トゥリウス・キケローといえば共和政と民主主義を象徴する政治家であり哲学者として知られておりタキトゥスら帝政時代の史家はもちろん、マキアベルリやモンテスキューといったルネサンス以降の知識人にも影響を与えた人物でした。口を開いても筆をとっても衆を引きつけずにおかないラテン散文の名手でもあり、彼に匹敵する名文家といえばかのガリア戦記を残した英雄ユリウス・カエサルの名が挙げられるだけでしょう。
 ですが一方で偉大な政治指導者であるこの人が「泣き虫キケロー」と呼ばれるほど苦境にはめっぽう弱く、ほめられれば増長せずにいられない子供っぽい性格が当時ですら人を辟易させてもいます。自画自賛の演説すら舞台劇のように美しい、この奇人こそ軍事国家ローマで弁舌と政治思想により人々から「国家の父」と呼ばれるほどの業績を残し、彼と敵対したカエサルが彼を無二の友人として遇し、帝政ローマを打ち立てたアウグストゥスがその政治構想を偉大と評した人物なのです。

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 共和政末期、グラックス兄弟に端を発する元老院と平民集会の対立がもたらした混迷はもはや修復不能な段階に及んでいました。新進気鋭の若い弁護士キケローは先祖にも家にも有力者を持たない「新参者」の出自でしたが紀元前76年に財務官、前70年には造営官に就任するとシチリア総督ヴェレスの苛斂誅求を告発した裁判に携わり、当時の高名な弁護士ホルテンシウスを相手に勝訴して一躍名を上げています。その後国務官を経て前63年に国政の指導者たる執政官に就任、民衆の意向をたびたび代弁したキケローに元老院もローマ市民も期待するむきは少なくありませんでした。
 ポエニ戦争後、急速に領土が拡大したローマでは広大な占領地を手に入れた貴族と軍役で疲弊した市民の間に広がる貧富の格差が社会問題化していましたが、この当時になると貴族や元老院議員にすら貧窮する者が現れるようになっています。これに反発した挙げ句、極端に走ったのがルキウス・セルギウス・カティリーナという人物で、若い浪費家は「あらゆる借金の即時棒引き」を掲げて執政官選挙に名乗り出ますがこんな公約を認めれば国も経済も崩壊してしまいます。元老院は「伝統的貴族と富裕な商人による秩序ある同盟」を標榜するキケローの支持に奔走し、落選したカティリーナは自暴自棄の末にクーデターを画策しますが政変とは起こさない限り単なる過激な思想でしかないから法治国家ローマでは罪に問うことができません。王になろうとした者は死刑という建国以来の伝統で裁くべきだという強硬派と、罪を問えないなら追放で済ませるべきという穏健派の間で意見が割れてしまいます。

 キケローは心情としては穏健派にありましたが、彼自身を暗殺する計画の証言を得ると「元老院最終勧告」と呼ばれる非常事態宣言を発令、追いつめられたカティリーナは兵を起こすも衆寡敵せずに自害して、動乱と彼自身の暗殺とを未然に防いだキケローには「国家の父」の称号が贈られました。賞賛と自画自賛の滝におぼれるキケローですが、これがグラックス兄弟の非業の死と同じ超法規的手段であることは知っていたのでこの決断が元老院の総意であったことを忘れないでほしいと語ります。ですがそれを心得ていたのは残念なことに彼の対抗者であって支持者ではありませんでした。
 このキケローを失脚させたのは平民になるために貴族の家を捨てたクロディウス、貴族名プブリウス・クラウディウスという人物です。このような人間は「秩序ある同盟」を掲げるキケローにとって異端以外の何者でもなく、たびたび非難されていたことを恨んだ護民官クロディウスは平民集会を煽るとキケローを弾劾しました。いわく正式な裁判をせずにカティリーナを殺したことは罪であると、追放の決議が下されますが実はこれこそ元老院が恐れた共和政の構造的欠陥だったのです。もともと軍事国家のローマで主権者たる市民は軍役をこなす兵士を指していましたが、マリウスの改革で軍団が志願制になると商売に専念する市民が増大、しぜん彼らが集う平民集会の力が強まります。貴族が票を持つ元老院と、商人が票を持つ平民集会の構図が生まれますが平民集会の決議は元老院と等しく、それを代表する護民官は元老院決議への拒否権を持っていましたから法的には元老院よりも平民集会のほうが権限が強いという矛盾が生まれます。これを利用したのがグラックス兄弟であり、それこそ暴走した護民官は「非常事態宣言でも使わなければ」抑えることができなくなるのが共和政末期のローマの問題だったのです。

 集会は「国家の父」の追放を決めただけでは飽き足りずに、キケロー宅の取り壊しと資産の没収まで決議しますがこの幼稚な決定に異を唱える方法がローマにはありません。失意のまま出立したキケローは友人に苦境を訴えて、みじめに助けを請い時には薄情だとなじり時には言い過ぎたと詫びる手紙を送りつけ、にもかかわらずそれがあまり見事なラテン語で書かれていたので後に書簡集として出版されたほどでした。追放は翌年には解除されますが、賞賛の声の中を帰国したキケローが見たのは彼が唱えた「秩序ある同盟」ではなくカエサルが主導する三頭政治に支配されたローマでした。
 三頭政治とは軍事力を持つカエサル、クラッスス、ポンペイウスの三人が市民票を持つ兵士と自派の護民官を投入して元老院を押さえ込むというもので、もはやキケローが影響力を振るおうにも共和政の実態は崩壊しています。後にクラッススが戦没してポンペイウスを元老院派が懐柔するとローマを二分する内乱に突入、キケローが唱える「秩序ある同盟」に耳を傾ける者はおらずただ彼の変節ぶりが非難されるばかりでした。キケローの変節は中立を望んだ彼が私人としてはカエサルと親しく、元老院派でありながら内乱が終われば勝者に庇護を求め、カエサル暗殺を知ると共和政復帰を呼びかけて、アントニウスが政権を握れば若いオクタヴィアヌス支持を表明した、まるで一貫しないように見える行動を見れば当然にも思えます。ですが彼自身はあくまで知識人らしく「いま最もローマのためになる」方法を求めていたにすぎず、人は人ではなく理念と制度に従うべきであり、いかなる戦乱も否定されるべきだと考えていただけですがそれが軍事国家ローマで受け入れられずとも無理はなかったでしょう。

 かつてキケローが掲げた「秩序ある同盟」とは元老院と平民集会が融和するための哲学と法の必要性、それを体現する第一人者の存在を説いていました。ですが彼の構想が実現する以前にキケローは追放されてしまうと帰国してまもなく内乱に突入、元老院派は敗亡して二度と立ち上がることはありません。カエサル暗殺後、キケローは共和政復興の最後の望みを暗殺を主導したブルートゥス、あるいはカエサルの後継者となるオクタヴィアヌスに望みますが、独裁者を打倒したブルートゥスには何の展望もなく元老院への敬意を見せたオクタヴィアヌスが元老院派の粛正を始めるとはさすがに思わなかったでしょう。卓絶した政治思想家であるキケローには政治思想のない若者も、思想ではなく完璧な政治の結果を求める若者のことも理解することはできませんでした。

「カエサル暗殺の精神的な象徴だった」

ことが理由で処刑者名簿の筆頭に挙げられたことを知ったキケローは一時逃亡を図りますが、船を出す前に断念すると従容として追手に首を差し出します。共和政復帰の道が断たれたローマに彼が居るべき場所はもはやどこにもなく、最後は粛正されると首と一緒にペンを握る右手も切られて演壇にさらされることになりました。

 共和政ローマの病根は元老院と平民集会の分裂にある。それを治療するにカエサルは中央集権による解決を図り、キケローは融和による統合を望みますが手段は違えど彼らが見たものは同じでした。だからこそ彼らは対立しながらも互いを無二の友人と見なし、キケローが若者をカエサルに紹介すればカエサルはこれを受け入れて重用し、カエサルがキケロー宅を訪れればラテン文学の談義で夜を明かすことに何の不思議も矛盾もなかったのです。キケロー自身はあくまで共和政が存続することを望み、それは伝統的な元老院が国を主導する体制でしかありませんでしたが当時「SPQR、元老院と市民こそがローマの主権者である」という建て前を本気で信じ、それを思想として最後まで貫いた人間はおそらく彼一人しかいなかったのではないでしょうか。
 いささか皮肉なことに、キケローの構想は形式的には彼を処刑したオクタヴィアヌス、後の皇帝アウグストゥスが継承して彼が元老院や平民集会などそれぞれの第一人者を兼務することによってローマの再統合を果たします。それはキケローが望んだ融和とは異なりますが、帝政ローマの皇帝とは独裁者でも絶対者でもなくいざとなれば兵士が忠誠を拒否して市民が罵声を投げ、元老院が罷免することもできる第一人者にすぎません。彼らが向けるのが剣ではなく罵声であることを感謝すべきなのだ、後にアウグストゥスがそう語ったのは疑いなくカエサル暗殺の影響ですが「暗殺の精神的な象徴」たるキケローの思想があるからこそローマは帝政になってなお主権はSPQRのもとに留まり続けました。

 その後帝政になってさえローマの皇帝はキケローの思想を逸脱したとき、つまりローマの主権者たる元老院や市民の権利を侵害したときにその資格を失う。「たとえ皇帝でも独裁は許されない」その思想を生み出したのがマルクス・トゥリウス・キケローなのです。
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