第三章 ジプシーの女


 ブリタンニアの北方にあるエデンバルでは、山と風の国と呼ばれるに相応しい寒冷な風がハイランドの高峰を東から西へ舐めるように吹き抜けている。時は紀元六世紀、四百年ほど昔に古代ローマ人が建てたハドリアヌスの長城を越えて更に北にある、ハイランド地方の山麓には高峰の王ダビデが治めるエデンバルの城がその威容を構えていた。壮麗なアーチ窓や彫り込まれた壁飾りを随所に配している石造りの城は明らかに、古えのローマからもたらされた様式であったがより力強く、より冷たく感じるのはエデンバルの系譜である大陸のゴール人や古い遊牧民であるケルトの影響であったのか、それとも刺すようなハイランドの冷気が与える印象であったのかは判然としない。

「我も耳を持たぬ訳ではない。だが我の舌は動かぬであろうと奴は思うたか」

 石造りの城にある質実な広間で、豪華な玉座に腰を下ろしている高峰の支配者ダビデは不機嫌そうに顎を拳に乗せていた。格子柄が織り込まれた、ハイランド周辺に特有の大布で作られているゆったりとした衣服を着て腰には飾り帯を巻き、頭上には祭事を司る者を示す樫の葉で編まれた冠を載せている。この冠と、手にした樫の木の王錫や玉座の傍らに立てられた燭台がエデンバルの王たる象徴であった。冠と王錫は国の祭事を統べる者の象徴、炎はエデンバルの知識であり絶えず灯される燭台の火が尽きる事のない王の叡智を示している。王が広間に姿を見せぬ時であっても、燭台の火は消される事がなかった。
 老境に差し掛かりつつあるダビデは未だ壮年を思わせる、年齢を窺わせぬ剛毅な容貌を持ち、長く伸ばした髪や髭は灰褐色から白くなりかけていたが丈高い体躯は頑健で王の威厳は衰える素振りすら見せてはいない。その視線は鋭く、猛禽の剽悍さと狐の狡猾さを秘めていると言われていた。足を伸ばして大儀そうに玉座に腰を下ろす様は、狩りを前に身を休めた獣を思わせる。

 王の息子であるファビアス、チェスターに亡命した兄殺しのデケ・ファビアスが手勢を集めてハイランドの山中まで隊を進めると、遊牧民のキャラバンを襲ってこれを壊滅したという報は既にダビデの耳にも届いていた。そのキャラバンは王自身が行方を追っていた者たちであり、彼の孫娘であるタムシンと持ち出されたエデンバルの秘術の書を匿っていた者たちである。何らかの方法でハイランドの移動民の行方を掴んだのであろうが、この機を逃すまいとチェスターの国境を越えてまで兵を出したファビアスの暴挙により、ダビデは息子に先んじられる事になった。
 ファビアスは自分を除く王の最後の血縁であるタムシンの血を求め、また彼が殺した兄であるメルキオルに与えられる筈であったエデンバルの秘術を欲して兵を出したのであろう。高峰の支配者の権威を悉く侮る息子にダビデは憤激して唇を咬む思いであったが、王にはファビアスが知らぬ彼だけの思惑もあった。

「ファビアスの討った娘は見事な金髪をしていたそうな」

 ファビアスがハイランド山中にある移住民の行方を探る者を従えていたように、王もまたファビアスの行動を伝える者を備えていたのである。ダビデはタムシンが、未だ生きている可能性を考えていた。
 かつて今は亡き王の娘がタムシンを産んだ時に、その髪の色を水鳥の羽のようだと言っていた記憶がダビデにはある。であればファビアスが殺した娘は別人に違いないが、当時から乱暴で素行が悪く、酒場や淫蕩な店に出入りを繰り返してばかりであったファビアスは会った事もない姪の髪の色になど興味を持たぬであろう。そして彼が襲ったキャラバンにエデンバルの秘術の書があったのならば、確かにタムシンがそこにいた事も間違いはないのだ。キャラバンの生き残りにタムシンがいる可能性は充分にある。

 であれば、ダビデはファビアスに気取られぬようにタムシンの行方を探す必要があった。エデンバルにある高峰の支配者にはタムシンの行方が分からぬ事を公にできぬ事情もあったが、チェスターに亡命しているファビアスも自分がハイランドに兵を出した事を誰に告げる訳にもいかない。ダビデがチェスターやファビアスに知られぬように事を進めるのは当然だが、ファビアスは王のその動きを己に都合よく解釈するであろう。
 粗暴で愚かな息子はよもや王がタムシンの行方を探し続けているとは思わぬであろうし、エデンバルの秘術の書を持ち去られた事をさして問題にしておらぬとも思うまい。もとより秘術の全てはダビデの叡智の内にあって、書に記されている知識はその一端に過ぎないのだ。

「ファビアスもまた我が秘術を持ち去ったか。そうか・・・」

 真鍮の燭台に灯された火が小さく揺れる。その傍らで高峰の支配者は彼の思索の果てにある歴史と未来の地平に目をやると、世を操る事ができると信じる者としての轟然たる笑みを浮かべていた。

‡ ‡ ‡


 享楽の都チェスターを出て、石畳の続く街道を数日をかけて馬車で進んでいたアニータ・プリシウスの目に、小さいが賑やかなエアの港町の姿が入ってくる。思わず窓枠から乗り出した、赤毛をなびかせる冷ややかな風が肌に心地よく轍が立てる乾いた音も軽快に耳に響く。

 エアはチェスターからハドリアヌス城壁を抜けて北に進んだ、ブリタンニア西岸の内海に面する町で、ブリタンニアの文化と古くからの原住民の文化が融合してできた都市であった。町の周囲は石造りの低い防壁に囲われていて、港には係留された船の帆柱が立ち並んでいる。古代ローマの誇っていた街道も、かつての統治地域の北端に近いこの辺りにまで足を踏み入れてみると未整備な箇所も随所に見られ、それまでは平坦であった石畳も時折隆起が見受けられたり舗装が充分でない事があり、アニータは馬車の上で舌を咬まないように注意せねばならなかった。
 遠く東方にあるハイランドの高峰から吹き降ろしているのであろう、開け放たれた窓枠を抜ける風は肌に快くて、数箇所の舌の痛みさえ除けばアニータの旅はまず快適なものであったろう。それは彼女の慌しい出立が、亡命貴族のデケ・ファビアスとのいざこざに端を発した意に添わぬものであった事を忘れさせるものであったろうか。

「ねえフランコ、エアで船に乗るのよね?」
「チェスターからの船便ではどうしても目立ちますからな。オーハ行きの船を探すとしましょう」

 アニータの従者であるフランコは、灰銀色の髭を短く刈り込んだ顎を引くと馬車を降りる準備を促す。オーハとはこれから入るエアの港からブリタンニアの狭い内海を西に越えた島にある町であり、波と風の具合によるが船で一日もかからない対岸にある。かつて古い時代にローマに追われた原住民の部族が定住したとも言われている地であるが、今では素朴な農耕や牧畜で産した収穫物をブリタンニアに送る拠点の一つとなっていた。
 半刻程、轍を鳴らした馬車がささやかな門を抜けるとアニータの耳には早くも喧騒が流れ込んでくる。港のあるエアはオーハから揚げられる農産物が集まる他にも、ブリタンニアの南方で産した錫や馴らされた馬、東方のハイランドからは毛や大布が持ち込まれては精力的な商人たちによって取り交わされていた。チェスター程ではないとしても、こうした活気のある町はアニータの好みであり周遊旅行の出立点としては悪くないであろう。貴族の娘としては些か量の少ない荷をフランコに担がせたアニータは、地面に降り立つと大きく腕と背を伸ばして肺の空気を入れ替える。今は享楽の都チェスターの者らしく、せっかくのエアの街並みを楽しむ事だろう。

「見て、あそこにキャラバンが来ているわ」

 ブリタンニアの各地にある町々はその殆どが古代ローマの陣営地や入植地を起源とするか、または原住民の集落に端を発している。建築の民とも呼ばれたローマ人の影響によってチェスターのように大きな都市でなくとも、整備された街道によって繋がれた町々には市場や劇場、浴場といった公共施設には事欠かない例が多い。一方で南から伸びてきたローマ人の文化に抗した原住民や移住民、遊牧民族の伝統も各地には残されており、殊にエアのような長城を越えた北部の町にはブリタンニア伝来の装束や風体に身を包んだ人々や、季節によっては山羊や驢馬を率いたキャラバンまでもが訪れる独特で雑多な様相を呈している。

「宿はすぐ近くよね?それなら先に見ていきましょうよ」
「お嬢様、まずは身を落ち着けてからの方が・・・」

 長く馬車に乗っていた事もあり、身体を動かしたくて仕方が無いのであろう。フランコの言葉に聞く耳を持たぬ風でアニータは赤毛の頭を大きく振ると小走りに駆け出した。
 賑やかな街路に止められている、数台の荷馬車の前では色模様を塗った石飾りで身を飾り立てた楽士が弦を爪弾いており、その隣りでは魅惑的なジプシーの女性が赤い布を張った台の上で占いに使う木札を広げている。ジプシーの呼び名は放浪する部族や民族に対する蔑称として用いられる事もあるが、多くは定住する者を含めた大陸のゴール人やケルトの文化を色濃く引き継ぐ人々の総称として使われている。各地を巡るために雑多な知識や音楽、伝承を持っている事でも知られ、一風変わった楽を奏でて踊りを舞い、精緻に織られた大布や珍しい香草、鮮やかな化粧粉や装飾品を商う事もあった。

 アニータの様子に気付いたジプシーの女性もそうした鮮やかな化粧や装飾品で身を飾っており、手にしていた木札から目を離すと翠玉色の瞳を向けて艶やかな笑みを返す。混血らしく浅黒い肌に長く伸ばした黒髪は波打っており、造作の大きい唇には紅を引いていた。その唇の端をゆっくりと持ち上げて、抗い難い笑みを浮かべると異境の女性は外見に相応しい魅惑的な声を投げ掛ける。だがその言葉はアニータが予想しない唐突なものであった。

「そこの可愛らしいお嬢さん。あなたには旅を妨げる者の暗示が出ているわよ、気を付けなさいな」

 そう言うと雑多に並べられた木札に手を伸ばし、描かれている雷と崩れる石の図柄を指し示す。ジプシーの占いでそれが旅の困難を示している事を知っていたアニータは、フランコの制止も聞かずずかずかと女性の前に近付くと食って掛かった。

「ちょっとあなた!縁起でもない事を言わないでよ」
「旅は危難を避けられず、だが人は危難に備える者である・・・何なら自分で引いてみるといいわ」

 赤毛の娘の剣幕に動じる風もなく、ジプシーの女性はしなやかな指を組んで軽く顎を乗せる。穏やかなその仕草にかえって挑発されたアニータは言われるまでもないとばかり、無造作に並べられた木札から一枚を取ると勢いよく裏返した。人々の目が集まり、好奇の視線は赤い布を張られた台の上にある一枚の札に集まったが、そこには先程と同じ雷と崩れる石の図柄が描かれていたのである。アニータはそこに描かれている絵よりも、それが示している意味に不吉なものを感じざるを得ない。

「そんな・・・」

 顔色を変える娘の背後で無責任な聴衆が驚愕の声を上げているが、アニータの心中は穏やかなものではなかった。エミリウス円形劇場でデケ・ファビアスを相手に起こした騒動と、その後の出立を思い出していた彼女にとって思い当たる危難はあまりに多い。不安げな心中を見透かしたのであろうか、ジプシーの女性は赤毛の娘に労わるような視線を向けると唇を開く。いつの間にか、楽士の曲は止まっており人々は優しげな口調に耳を傾けた。

「あなたの危難は南、でも西には幸運が隠れているわ。安心してあなたの道を行ってよいけれど、頼るべき者を見極めて人の助けを仰ぐ事を厭わぬように・・・道に迷う事があればいつでも私のところにいらっしゃいな」

 そう言うと女性は深い笑みを見せてから何かを払うように軽く手を振り、楽士は止まっていた音楽を再会して弦を爪弾き始める。その音に人々も我に返ったようで、周囲には先程までの喧騒が徐々に戻ってきた。アニータは要領を得ない面持ちのままでフランコに引かれると、不承不承という体でキャラバンから立ち去ってその日泊まる予定であった宿へと足を向ける。日は明るく、記帳やオーハへ向かう船便の手配を含めても手続きは簡単なものであった。
 宿にはアニータの実家であるプリシウス家から早便の知らせが届いていたようであり、彼女たちを追う荷物の到着も数日の後になるらしい。荷を置いたアニータは五日後の船に乗る事が決まった以外に急ぎの用事がある訳でもなく、もう一度町へ赴く事にする。先程のジプシーとのやり取りが釈然としないままであり、そのような気分を引きずったままにしておくのは彼女の性向に反していた。

 エアの街並みは先程までと同じく賑やかなもので、市場に近い路上に広げられている露店では籠に積まれている堅皮の果実を前にしたオーハの商人が声を張り上げ、その隣りではハイランド地方の大布を売るジプシーや木彫りの器や装飾品を扱う店も軒を連ねている。
 薄い雲が掛かっていたアニータの気分も元来が楽天的であるためか、すぐにその日の空のように晴れ渡った。得体の知れない占いに信を置く程には、アニータは自分の選択を軽視している訳ではない。占いの告げた危難が気にならないといえば嘘になるが、であればその危難とやらを返り討ちにすればよいのである。

「そこの可愛らしいお嬢さん、ちょっと話を聞いてもらえないかな」

 気分を入れ替えて深く息を吸おうとした、アニータの背後に声を掛けたのは優男然とした二人組の男であった。背が高い、細身の身体に重ね着をした短衣や垂らしている腰帯には刺繍が施されており、あちこちに下げた装飾品と合わせていかにも労苦や勤労とは縁の薄い存在に見える。好奇心は旺盛でも軽薄な色恋事には面倒しか覚えないアニータにとって、この手の輩は正直彼女の好む類ではなく、面倒そうに向き直るが男たちは予想した通りの、お決まりの誘い文句を連ねてきた。なるほどこれも旅を妨げる危難かと思えば、あのジプシーも嘘を言った訳ではないかと皮肉に思う。
 ジプシー女とのやり取りがあったせいか、辟易していたアニータは殊更に男たちを敬遠する態度を表したが少々露骨に過ぎたのかもしれない、それを侮蔑と受け取った男たちの態度が不機嫌なものに変わると先程までの声音もどこへ行ったのか、言葉遣いも乱暴になっていく。アニータにしてみれば剣呑な状況だが、先程の得体の知れぬ不安感よりはよほど気楽なものであった。攻撃的な性格をしている赤毛の娘にとって、こうした騒動はチェスターでも珍しいものではなかったのだ。

 道幅は狭いという程ではなく、周囲には野次馬が集まり出している。アニータは自分の健脚には自信があったが、チェスターの慣れた街路ではないから路地に入る訳にはいかず、フランコのいる宿まで真っ直ぐ逃げるしかないだろう。後ろに回られると面倒になるが、その前に鼻面を殴りつけてから一気に走れば距離を稼げる筈だ。股間を蹴り上げるのは失敗すると掴まえられるからやめておいた方がいい。この時点でそこまで考えているアニータが、貴族の娘としてあまりに変わり者と思われていた事は無理もなかったであろう。
 だがどちらにとって幸いであったのか、双方が動き出す前にアニータの視線の先、男たちの後ろから一人の女性が現れるとぶつかるようにその間を抜けてから両者の間に入る。ちょっとごめんよと男たちに言ったその声にも、浅黒い肌に長く波打った情熱的な黒髪もアニータには覚えのあるものだった。先程彼女を呼び止めた、魅惑的なジプシーの女である。

「あんたら、うちの売り娘に手を付ける気かい?」
「マリレーナ!人の商売を邪魔するつもりか、あんたのキャラバンが売ってるなんて聞いた事もないぞ」

 男たちにマリレーナと呼ばれたジプシーの女は、どうやらこの辺りでも名の知れた者であったらしい。紅を引いた唇を官能的に持ち上げると、翠玉の瞳が光を返す。同姓のアニータが見ても、この女性が外見だけではなく一挙一動に到るまで美しく官能的である事には異存がなかった。

「おやそうだね。娘を売るのはあんたたちの仕事だったよ、こいつはお邪魔をしたかな」

 艶かしく嘲笑する姿でさえマリレーナは美しかったが、その挑発が男たちにではなくアニータに聞かせるものである事は明らかである。鼻白んだ男たちは彼らの商売を邪魔された上に、からかわれた事を知って激昂すると身を低くして腰に手を伸ばすがその手は奇妙に振られて空を掴むだけだった。余裕のある笑みを絶やさぬままに、マリレーナは手にしていた二本の短剣を前にかざす。

「あんたらの探している玩具はこれかい?こういう物はしまう場所を考えた方がいいね」

 ぶつかった折りに掠め取っていたのだろうが、アニータも男たちもまるで気が付かぬ早業であった。男たちは短剣を取られた事以上に周囲に群がり出した野次馬にも気圧されたか、互いに目を見交わせると捨て台詞を残し悪態をついて去っていく。どうやら衆目の中でマリレーナと事を構えるのは、彼らにとっても都合が悪いのだろう。観客の中には騒動が未遂に終わった事に不満そうな面持ちを見せている者もおり、事が大きくなれば彼らも引く事はできなくなる。不本意は承知でその前に撤収を決めたようだ。
 しばらく周囲の様子が鎮まるまで、マリレーナはアニータをかばうように前に立ったままでアニータもそこを動こうとはしない。彼女たちは騒動に慣れており、こうした喧騒が落ち着くまでにさほど時間が掛からぬ事も知っていた。充分に周囲の雑踏が日常に置き換えられるまで待った所で、さて、と肩で一息ついてから振り向いたマリレーナに向けて、アニータは初対面の時と同様に食って掛かった。

「ちょっと。誰があなたの所の売り娘なのよ」

 それが最初に言いたかった言葉なのであろう、アニータの剣幕に思わずマリレーナは笑い声を上げた。見当違いの非難を受けたマリレーナは、確かにそうだ、申し訳ないと謝罪の言葉をかけるとアニータも改めて名乗ってから礼の言葉を告げる。その立ち居振舞いや丁寧な礼の様子を見た所ではどこぞの貴族か育ちのよい商人の娘にも見えるが、それにしてもずいぶん破天荒な性格をしているようだ。こういう活きのいい娘は嫌いではないが、先程一緒にいたお守り役はさぞ苦労をしているのだろうと、いらぬ感想まで抱く。

 マリレーナにすれば小さな罪悪感がない訳ではなかった。先程の占いはアニータの様子が明らかに急ぎの旅の途中であったのを見て、誘ってみたに過ぎない。急ぎの旅をする者が旅の危難に無関心でいる筈がないのである。エアには東と南から入るそれぞれの門、そして港に続く西の街路が交差しているがキャラバンを止めていたのは南に繋がる道であったし、チェスターから来て東に向かう旅人など滅多にいるものではない。雷と崩れる石の木札をアニータが引いたのは全くの偶然だったが、取りやすい場所に並べておいたのはマリレーナだし別の札を引いていれば別の語りを用いることもできるのだ。
 だが占いに顔色を変えたアニータの様子を見て、どうやら彼女の抱えている危難はマリレーナが思うよりもよほど深刻なものであったらしい。マリレーナは他人を煽る事に罪悪感を覚える性格ではないが、自分が意図せずに人の不安を煽ったのであればそれは褒められたものではないのである。この寸劇があったおかげで常よりも多くの客を呼ぶ事ができた事もあり、彼女としてはアニータに些か不誠実な感謝と謝罪の意を込めた興味を覚えずにはいられなかった。

「この玩具は戦利品だね。丁度お揃いで二本あるし、一本はプレゼントするよ」

 そう言うと、マリレーナは短剣の一本をアニータの手に収める。安物だが売れば夜の一食程度にはなるだろうし、短剣というものは旅をする者には存外便利なものだ。だがアニータには戦利品という冗談の方が気に入ったのだろう、今度は先程のように丁寧ではないがずっと親しみのある礼を述べる。こちらの礼の方がマリレーナの好みだった。

「それにしても最近は娘さんの一人旅が多いのかねえ、この物騒な世の中に」
「あら、私には従者がいるわよ」
「そうだったね。それじゃあさっさと宿に帰るんだね、じきに日が暮れちまうよ」

 それがマリレーナ流の気遣いである事をアニータは理解する。慣れぬ町での夜ともあれば娘の一人歩きには難儀がつきものだし、何より先程の二人組がまた現れぬとも限らないのだ。打ち解けた相手の好意にはことのほか敏感なアニータであったが、それだけにマリレーナの言っていた娘の一人旅の話については聞きそびれてしまった。
 軽快にきびすを返すと小走りに宿への道を向かう、アニータの後ろ姿を見ながらマリレーナは先日、彼女のキャラバンが引き取っていた不思議な髪の色をした娘の事を思い出す。確か、タムシンといったろうか。

 先程の赤毛の娘以上に訳ありの様子をしていたタムシンは、ハイランドの遊牧民族が着る衣装である大布を肩から下げており、ぼろぼろの皮袋に入れたがらくたにしか見えぬ荷物を大事そうに抱えていた。自分たちと似たようなキャラバンで暮らしていたようだが、マリレーナが出会った彼女はブリタンニアの平原を数週間一人で放浪しており衰弱も激しく、それこそ人買いに掴まらずにいたのが幸運という様子だったのである。
 キャラバンで一息をつかせて汚れた全身を湯で拭いてやると、姿を現したのは見違えるようにしなやかで美しい娘であった。だがその表情は塞ぎ込んだままであり、マリレーナやキャラバンの人々の言葉にも返事はするものの笑顔どころか表情の一つも変える事はなく、それは彼女の魅力を大幅に損ねているに違いない。刹那的な快楽を信条とするマリレーナとしては、いささかの憐憫を覚えずにはいられない娘であった。

 娘は時折、がらくたのような荷物の中でこれだけは繊細に作られている髪飾りを愛しげに撫でていたが、その姿にはかつて明るかったのであろう本来の彼女の姿を垣間見る事ができた。タムシンは今でもマリレーナのキャラバンにいるが、それは彼女がキャラバンを気に入ったからではなく、単に他に行く場所がないからであろう。

「さっきの面白い娘の話でもしてやろうか」

 アニータが聞いたらまたも食って掛かるに違いない言葉だと、マリレーナの顔に苦笑が浮かぶ。だがそれでもタムシンは笑わないであろう。マリレーナにはそれが分かっていたが、一度あの娘たちを会わせてみたいものだと冗談事のように考えると、彼女の世界である夜の時間へと艶やかな姿を溶け込ませていった。


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