第六章 高峰の支配者


 ノーヴィオを北に出てロンディニウムからリンドゥムを抜けて、ハドリアヌスの長城を越えればチェスターを通らずにエデンバルにまっすぐ行くことができる。かつて六百年以上も昔に、古代ローマの軍団がブリタンニアの島に上陸してより舗装され整備された街道はロンディニウムを中心として放射状に広がっており、北西に続く街道を行けばアニータの生家プリシウス家があるチェスターの町へと続いている。
 北に伸びる道はブリタンニアの東側を通ってエデンバルへと至る。今はもう文明化されて久しいが、かつてブリタンニアの東には馬を産する勇猛な部族と、それを率いる勇ましい女王がいたことでも知られていた。

 ローマの衰退に伴い街道は荒れて各所には草の根が石畳の隙間から伸びているところも見られたが、平坦に続く街道は馬車の轍であれ人の足であっても、歩みを進めるに苦とはならない。アニータたちの歩みを留めている理由があったとすれば、それは彼女たちが向かうエデンバルがもたらす不吉な噂と、なにより若い娘たちが旅の道程そのものを楽しんでいたからに他ならなかったであろう。

「姉様・・・あと半刻だけ寝かせてください」

 そのように甘えた声を、タムシンが上げるとはアニータも思っていなかったものだ。寝言であろうが、タムシンがハイランドを出て以来穏やかな眠りにつくことができるようになったのは、マリレーナが曰くアニータと床を等しくするようになってからである。
 もう少し寝かせておいてあげようかと、赤毛の娘は年齢の近い妹を持った気分で出立の支度に取り掛かる。彼女の印象からは意外なものかもしれないが、傍流とはいえ貴族の娘であるアニータは健全な生活を習慣としていた。

 古代ローマ時代から続く街道は道に沿って決まった感覚に宿駅や馬の乗り継ぎ所が設けられているのが常となっており、馬車を仕立てて進むアニータたちが屋根のある眠りに困ることはない。軽やかな音を立てて轍が進む、旅は快適なものでありノーヴィオを出てロンディニウムで馬車を用意した一行はブリタンニア東部の冷たい風を肌に楽しんでいた。
 内海では暖かかった空気は東部では冷たい海の流れの影響で冷えており、北に向かえばハイランドの高峰を吹き抜ける風が更に厳しいものとなっていくであろう。それはまるで、彼女たちの前途に運命神が携えている絵札の図柄を示しているかのようであった。

「アニータも起こしてくれて良かったのに」
「いいのよ、昨日はお互い夜更かししたんだから」

 その言葉に、赤毛の娘の従者であるフランコが僅かに眉をひそめるが何も言わず息をつく。旅の護衛も兼ねている壮年の従者にしてみれば、貴族の令嬢としては変わり者として知られているアニータの言動は今更のものであったろうが、お供につく娘が三人になったことは別の気苦労も多いかもしれなかった。
 貴族の娘とは思えないほどに活動的なアニータは、彼女の育ったチェスターでもフランコに頭を痛めさせることが度々であったが、不思議な髪の色と神秘的な外見に、おとなしやかな雰囲気をたたえているタムシンが意外なほどに赤毛の娘と気の合うことは当人たちにも意外であったかもしれない。享楽の都と呼ばれるチェスターでも、アニータのように狩猟もすれば竪琴を弾いて詩吟を奏で、剣闘士試合や戦車競技に興奮して腕を振り上げる令嬢の姿はけっしてこころよく思われてはいなかったものだ。
 タムシンはハイランドの峰を越えた木々の茂る谷間で暮らしていたキャラバンで育てられており、山野を駆けて狩りを行い、鉱石や野草を集めたり時には彼らの部族に伝わる詩を口ずさむ生活を送っていた。そのタムシンから見てもアニータの弓の腕前はなかなかのものであり、アニータはタムシンの唄を見事なものだと思っていた。

 リンドゥムを抜けて更に北、ハドリアヌスの長城へと続く道は街道こそ舗装されているものの宿駅もまばらになり定期的に用意されている馬車を探すことも難しくなっていた。それはこの道にローマの支配が及ばなかったが故ではなく、リンドゥムから先にあるエデンバルへ向かう道を用いる者が今はもう少なくなったことを意味している。
 アニータやフランコもこの町では敢えて馬車を用意することを諦めると、道中にある旅宿や小村、市場のある場所を聞いてから彼らの荷をまとめはじめた。同道するマリレーナやタムシンは元から星空の下での暮らしに慣れており、針葉樹の茂る木々の群れがまばらに目に入る街道の姿はむしろ峻厳なハイランドの気候に彼女たちの足が近付いていることを感じさせる。

「今日はこれ以上は無理だね。タムシン、アニータ。煮炊きの用意を頼むよ」

 そう言うとマリレーナは街道を逸れた窪地に荷を下ろし、風避けの小さな天幕を手早く組み上げてしまう。街道沿いには旅人のために用意された石小屋も散在しており、人はおらずとも風雨をしのぐことはできるようになっていたが、マリレーナにはその日の澄んだ空気を屋根で覆い隠すことは無粋なように思えたのである。こんな空の下では火を囲み星に照らされて、楽を奏でる時間こそがふさわしかった。

 ジプシーの踊り子であるマリレーナは踊りだけではなく歌や楽器、占いや手品に必要とあれば官憲や暴漢を相手の立ち回りでさえ得意な女性である。浅黒い肌に波打った黒髪と翠玉色の瞳をした、魅惑的な女性でありアニータやタムシンにはない艶やかな魅力を備えていた。
 彼女が奏でる歌や踊りは時に情熱的であり時に懐かしく、一様にならぬ調べは人の目と耳を捕らえて離さない。ジプシー女の艶やかな神秘は娘たちが描くにはいささか難しいものであったかもしれなかったが、アニータの踊りとタムシンの唄はマリレーナに思わぬ弟子の存在を見出したものである。

「星の下で火を囲い、暖かな食と酒を振る舞い吟を奏でる。ジプシーはジプシーでない者にも聞こえる音を鳴らすのよ」

 麦をひいた粉に野菜を混ぜて煮込んだだけの食事が、これほど味わい深いものであることをアニータもタムシンも知らずにいた。食事とはそれを囲う時間を合わせて食事であることをマリレーナは知っている。水で割った軽い酒を飲み、タムシンが紡ぐ詩吟に耳を傾けながらマリレーナは手の上で占いの木札を弄んでいた。焚き火の明かりを返す木札は手の中で消えたり姿を現したりしながら、気が付けば図柄を別のものに変えている。
 アニータはいつぞやのエアの町中での騒動を思い出して気恥ずかしくなりながらも、なめらかなマリレーナの手つきに感嘆を覚えていた。マリレーナに言わせれば、占いに手品は必要ないが占いを人に伝えるには手品の技があったほうが伝えやすいのだ。

「落とし穴を見つけた者はね、穴の向こうにもう一つ穴が掘ってあるとは思わないものさ」

 それが占いに対してか、それとも手品に対してマリレーナが言おうとした言葉なのかはアニータには理解できない。マリレーナの札はタムシンとアニータに出会って以来、旅の不吉を予告する雷と崩れる石の絵と、犠牲を暗示する磔にされた導きを示すばかりであった。まったくとんでもない娘たちと関わってしまったようだとジプシー女は小さく首を振りながら、彼女は愛しい娘たちへの思いにわずかな疑いすらも抱いてはいない。
 やがてタムシンの唄は静かなものから少しずつ不安と寂しさを感じさせる調子に変わり、彼女の抱いている恐怖にアニータとマリレーナが気付くと唄は消え入りそうなほど弱々しくなって、やがて途絶えるとしばらくの沈黙が世界を支配した。アニータは何も言わず、マリレーナも何も言わない。意を決して口を開くのは、タムシンが自らでなければならなかったのだから。

「アニータ。マリレーナ姉様、私は・・・」

 タムシンは彼女の時間が砕かれてから初めて、それを人に語ることを決意する。自分がエデンバルの者であること、彼女が幼い頃に引き取られて育てられたキャラバンが兄殺しのファビアス、デケ・ファビアスによって滅ぼされたこと。そのファビアスがチェスターの傭兵を率いていたこと。
 タムシンが持っていたエデンバルの秘術の書のために、彼女の故郷と姉以上のシンシアが永遠に奪い去られたこと。母の形見でありシンシアに預けていた髪飾りが彼女に残されたたったひとつの過去であること。

「アニータ。貴女がチェスターの者であるということを知ったときに、貴女がアニータでなければ私は耐えられなかったと思う・・・いえ、今でも耐えられない。貴女は何も悪くない、あの男がチェスターの者でないことも私は知っている。でも駄目!私は貴女を憎みたくなんてないのよ、貴女が大好きなのに・・・」

 抱えた膝に顔を埋めて、タムシンは俯くと小さな嗚咽の声をこぼす。アニータは他人からこれほどの哀しい感情をぶつけられたことはなかったし、心を引き裂かれた者に接したこともなかった。無愛想だったタムシンの心の底に、これほど深く大きな傷が今も血を流し続けているとは思わなかった。このようなときに何をしたらよいかなど、未熟な赤毛の娘に分かる筈もない。どんな言葉をかけてよいかも知らぬ、どんな行動をとればよいのかも分からぬ。
 その時、タムシンはどのような顔をしていたのであろうか。膝に埋めていた顔を少し上げると赤毛の友人に向ける。アニータはタムシンの視線を受け止めると目をそらすこともなく、ただこちらを見ている。その視線はけっして外れることがなく、だがタムシンの哀しみに耐えることができないアニータは両の目から大粒の雫を流し続けていた。しゃくりあげながら、ただ目をそらすことだけはしない。何もできないアニータにできることは、友人の心からけっして逃げ出さないことだけであったのだから。

「いいんだ。言いたいことは言えばいいし、言いたくないことは言わないでいい。私も何も聞かないよ、だけど」

 二人の娘は視線と視線を合わせている。タムシンは涙に覆われた赤毛の友人の瞳に映っている、自分の心の底に沈んでいたものを見たように思う。そしてアニータがタムシンにようやく伝えることができた言葉は、タムシンが見つけた言葉をアニータが知ることができた言葉に違いなかった。

「だけどね!耐えられないなら耐えないでいいんだよ!」

 そして、アニータはタムシンを抱くと大きな声を上げて泣いたのだ。それでもいいと言われるとは思っていなかった。アニータに手を引かれて自分の堰を切ってもらったタムシンは、誰にはばかる必要もないのだと赤毛の娘に強くしがみついて今はいないシンシアの名を呼びながら泣き叫ぶ。
 タムシンはもっとも大切なものを奪われてから、小さな嗚咽の声を上げることはあってもみっともなく泣きわめくことはできなかった。アニータはそんなタムシンのために、心の底から泣いてくれているのだ。フランコは娘たちの側を離れており、マリレーナは彼女たちを見おろす星空に目を向けて今はこの世界にタムシンとアニータの、ただ二人だけしかいなかった。

‡ ‡ ‡


 高峰の支配者ダビデ、エデンバルの王が王家に伝わる髪飾りとそれを持つ者を探しているという。マリレーナがノーヴィオの港でトンマーゾから聞いた話であり、タムシンに聞いた彼女の話を思えばダビデの孫というのはタムシンのことであると思うのは当然であろう。

「たぶん、いえ・・・間違いなくそうだと思います」

 タムシンは自分がエデンバルに帰りたいのか、理解できずにいたが行ってみたいとは考えていた。彼女にとって家族とは失われた彼女のキャラバンでありシンシアの姿である。覚えのない母親の面影や、自分を探しているという祖父王にどのような感慨を抱けばよいのかも分からない。一度でも会えばそれを知ることができるのであろうか、そして、自分の伯父であるデケ・ファビアスが求めたエデンバルの秘術とはいったい何であったのだろうか。
 古いケルトのオーガム語で書かれていたエデンバルの秘術の書は、タムシンもその内容を読み解いて目にしている。そこにはブリタンニアやエデンバルの歴史が、そして優れた肉体の扱い方や薬草や鉱石を用いた医術の法が載せられており、長く伝えられる優れた知識であったとは思うがそのためにデケ・ファビアスが人々を弑するほどの知識であったとは彼女には思えなかったのだ。

 タムシンが学んだ秘術は多岐に渡り、彼女が山間で暮らすには大いなる助けとなったものである。キャラバンでは彼女が煎じた薬で傷や病を癒した者は多かったし、タムシンのしなやかな剣や弓の技は並ぶ者もいなかった。確かに秘術を知ることで優れた戦士や癒し手、野走りになることはできるだろうが、高峰の支配者や兄殺しの王子にとってそれはせいぜい兵士を鍛えるに役立つといった程度のものではないのだろうか。或いは不死歩兵団とすら呼ばれる、高名なエデンバルの軍団を鍛えるには必要なものであるのかもしれない。
 不死歩兵団は戦場でけっして退かぬ士気の高さによって、近隣にも知られているエデンバルの近衛軍団のことである。だが絶対的な統率は忠節よりもむしろ狂信を思わせて他者は警戒心を抱かざるを得ない。タムシンには気の毒だがエデンバルはよい噂を聞く国ではないし、マリレーナは彼女がエデンバルに赴くことに過度の期待はせぬ方がよいと考えていた。いっそ門前払いを受けるのであれば余程話が早いとすら思っている。

 ノーヴィオを発ちロンディニウムを経てリンドゥムを抜け、ブリタンニアを更に北に続く街道を行く。舗装された街道は娘たちの足取りを遅めるものではなく、それでもハドリアヌスの長城までは十日ほどの道のりが必要であった。
 長城は古代ローマが異民族との間に設けた境界であり、防衛のためのものではあったが同時に、数百年もかけて領土を拡大し異民族を受け入れてきたローマがその文明と文化の違い故に受け入れることを諦めた証明でもあるのだ。その証明を今も受け継いでいるかのように、エデンバルへと向かう北の道には人影もなく、手入れの行き届かぬ街道だけがただまっすぐに伸びている。

「壁を潜ればすぐにエデンバルさ。城まではまだ遠いけどね」

 マリレーナが指し示す、長城は定住せぬ蛮人に特有の騎馬兵を遮るために建てられたものだが、娘たちの視界を遮るそれは古代ローマでも特に堅牢な塁壁が連なっていることで知られていた。島を東西に分断する壁はその高さが人の身長の五倍はあり、掘られていた塹壕も同じ程度の深さがある。
 ふつうであれば越えるなど論外の代物ではあるが、街道を通すための門は構えられているし、長い放置の末に随所で崩れ落ちたり都に石材を奪われて欠けている箇所もある。旅人が潜り抜けることすらも許さぬ障壁ではなかったが、エデンバルの不吉な噂がもたらしている威圧感が彼女たちにわずかな怯みとためらいを覚えさせていた。

 一夜、壁の手前で身を休めてから意を決して門を潜る。アニータとフランコはチェスターからエアに向かう途上で長城を潜り抜けてはいたが、彼女たちが感じている緊張感は比べものにもならない。壁の北面に出るや吹き寄せる、北方の冷たい風が高峰の支配者がもたらす警告の存在を娘たちに思わせた。そしてその警告が彼女たちの単なる思い込みのせいではなかったということは、日が半日も傾かぬうちに知らされることになる。

「止まれ。ここはすでに高峰の支配者が領土、エデンバルであるが故に」

 平坦な街道の向こうから、駆けてきた数騎の馬を率いていた巡視の男は奇妙に抑揚のない、だが威圧的な声を投げかける。如何に街道を行くとはいえこれだけ早く巡視が訪れたのは、彼らが常に長城の周辺を警戒しているからに他ならないであろう。
 アニータたちも当初から承知していることであり、無思慮に逃げ出したり抵抗しようなどとは考えていない。旅人としてエデンバルの都を訪れるつもりであることを、この時は正直に隠そうともしなかった。

「王の探す髪飾りを持つ者が、我らの内におります。高峰の支配者へのお目通りを望みます」

 そう告げたのは、タムシン自身である。彼女たちの間ですでに決めていたことであり、エデンバルの国情が分からぬ以上は、可能な限りタムシンが連れ去られたり彼女たちが別々に分けられるような事態は避けた方が賢明であった。
 巡視にもすでに訓令が行き届いているのであろう、抑揚のない声のままで自分たちに従い都へと入るように告げると一騎が伝令のために駆け出し、残る全員が馬を下りて街道を北に歩き出した。ここからの旅は息苦しいものになるだろうが、賊に襲われる心配だけはないだろうとマリレーナは皮肉に考える。もっとも、この統制された国に賊なるものが跋扈するとはとても思えなかったのであるが。

‡ ‡ ‡


 山と風の国とも呼ばれているエデンバルは一年中風が強く、東から西に抜ける冷たい空気がハイランドの高峰をなめるように流れている。寒冷なこの地では農耕よりも牧畜や狩猟が小規模に営まれており、エデンバルの巡視に連れられたアニータたちが城を訪れるまでに、素朴な人々が牧場に羊を放している様を時折、目にすることができた。
 毛並みの黒い犬が声を上げては、おざなりな柵の外に群れが向かわないように見張っている。それはアニータの目にも初めて見るような光景ではなかったし、旅暮らしのマリレーナやタムシンにとってもごくありふれた姿であった。

 だがその姿にアニータが生命の不足を感じ、人の生活の営みを思うことができなかったのは先入観の故であったろうか。彼女は自分の率直な感性を高く信頼する者であったが、そのようなアニータは自分が多分に漏れず感覚で物事を判断しすぎるきらいのあることを知っている。
 まして彼女たちを先導する巡視の一団はその歩みこそ速いものではなかったが、休むこともなくただ目前とアニータたちの先を歩き続ける姿はただ不気味なものでしかない。水時計で測ったかのように正確な間隔で、休息も行うし夜になれば野営を組み上げるが、赤毛の娘は生ある人間と旅をしているつもりになることは遂にできなかったものである。

 北に続く街道を数日も抜けると、ハイランドの峰が視界に広がるようになってやがて高峰の王ダビデが治めているエデンバルの城がその威容を現した。石造りの城には随所に壮麗なアーチ窓や彫り込まれた壁飾りが配されており、町全体が城壁に囲われた城塞都市となっている。
 石造りの城にある質実な広間の奥で、豪壮な玉座に腰を下ろしているのが高峰の支配者ダビデであった。格子柄の織り込まれた、ハイランドに産する大布で作られているゆったりとした衣服を着て腰には飾り帯を巻き、頭上には樫の葉で編まれた冠を載せている。冠は祭事を司る者を現し、手には王の象徴である樫の木の王錫を持って玉座の傍らには燭台が立てられて消えぬ火を灯している。

「タムシンが着いたか。そうか・・・」

 王は近年になかった、最上の喜びを味わっている。長く伸ばした髪や髭は灰褐色から白くなりかけており、頑健で丈高いダビデの体躯に更なる威厳と威圧感を与えていた。エデンバルに反抗した挙げ句亡命した息子ファビアスが、タムシンのキャラバンを奪いエデンバルの秘術の書を持ち去ったことはそれを追っていたダビデとしては息子に先んじられたことになる。
 だが王の後を継ぐことができるタムシンは生きて、長い時を経てようやく王の下に戻ってきたのだ。これで十数年もの間、止まっていた時を老齢の王は引き戻すことができるであろう。長城を抜けてエデンバルの城にたどりつくまでの道筋はけっして短いものではなかったが、王が待ち続けていた時間とは比べるべくもない。

 侍従が訪れて王にタムシンの到着を告げると、長く待ち続けた孫娘を迎えるべくダビデは忠実な近衛の兵たちを揃えさせる。高峰の支配者の精鋭である、不死歩兵団の中核をなす者たちであった。通廊に響く足音が近付くと、再び侍従が王に告げる。

「タムシン様が、ご到着致しました」

 謁見の間に現れたのは、光を返す不思議な髪の色をした娘が一人と同年程度の赤毛の娘が一人、浅黒い肌に波打つ黒髪の女と、灰銀色の髪と髭を持つ壮年の男の四人であった。老齢の王は見紛うはずもない孫娘の姿に目を向けるが、猛禽の剽悍さと狐の狡猾さを秘めると言われるその視線は思いのほか慇懃なものであり、開かれた唇から下賜される言葉も柔らかい。

「おお。タムシンよ、お前を失ってより余はどれ程この日を待ち望んでいたことであろう」

 王は穏やかな顔で孫娘とその伴を労う言葉をかけるがその視線はタムシンの面上にそそがれたままであって、赤毛の娘やジプシー女には声をかけようとも目を向けようともしない。十数年を越えての再会であれば無理のないことであり、王に聖人君子を期待している訳でもなかったアニータはそれでも奇妙な不審感をぬぐい去ることができなかった。
 ダビデは一国の王女たる者に彼女の城で旅装束をさせておく訳にもいかぬと、侍従に命じてタムシンを謁見の間から連れ出させる。不安げな視線をアニータに向けていた孫娘が姿を消して、その足跡が遠ざかるのを待っていたダビデが軽く手を上げると、通廊に控えていた近衛の兵たちが一斉に現れて歓迎されぬ客人たちを乱暴に追い立てようとした。

「これはどういうことですか!王よ、私たちは・・・」

 その声を発したのはアニータではなく、咄嗟に侍従の手を振り切って謁見の間に駆け戻ってきたタムシンである。タムシンがアニータたちから引き離される状況が危険であることを彼女たちは理解していたし、もとより王の言動に不安と不審を覚えていれば、連れ出された謁見の間での騒動を聞き取ることは難しくない。
 王はことを急いた自らに自嘲するつもりもあったのだろうか、強く鼻息を吹くとそれまでとは異なる、高峰の支配者ダビデの言葉を投げつけた。

「タムシンよ、お前は余の後継ぎを産まねばならぬし相手もすでに決めている。高峰の支配者の血を絶やさぬためにも、お前には余が待ち続けた時間を取り戻す責務があるのだ。天上に住まう者と等しい血を伝える女が、愚昧な者や下賎な女と城に入ったというだけでもエデンバルに対する罪を犯している。せめてその罪を謝して余のために生きるのが孫娘たるものの務めであろう」

 その言葉を聞いた瞬間、タムシンはシンシアを殺した男の野卑な声を思い出し、その表情を見た瞬間、アニータはクリストフォロを潰した男の嗜虐的な笑みを思い浮かべた。高峰の支配者ダビデが、兄殺しのデケ・ファビアスに血を伝える者であることを彼女たちは等しく理解したのである。タムシンは王の孫娘であることを拒否し、アニータは友人をこの男から救うことを誓った。

 だが高峰の支配者ダビデは非力な娘たちの思いに煩うこともなく、近衛の不死歩兵団に向けてタムシンとその一行を監禁するように命じる。王にとっては他人が選択肢を持つことなどありえないことであり、自分の血を引いてエデンバルの秘術の一端を知っているであろうタムシンにダビデが望む以外の自由が存在する筈はなかった。
 タムシンはこれから自分とアニータたちが何をされようとしているかを悟り、抗うべく身を屈めるが近衛の男は短い鉄の棒を振るうと王の孫娘を容赦なく殴り倒す。頬骨にひびが入り、口の中に金属めいた血の味が広がってもタムシンは怯むことなく目を向いたが、赤毛の友人の悲鳴が聞こえると我に返って振り向いた瞬間、後頭部に強い衝撃を感じて崩れ落ち、そのまま意識を失った。

「バルタザルの種を宿す子である、無闇に傷つけてはならぬぞ」

 無論、口で言うほどに王はタムシンを気遣ってはいない。タムシンは王の曾孫を産み落とすための道具であり、道具として壊れていなければさしたる問題はなかったのである。手首を掴まれて乱暴に引きずられていくタムシンの姿に、怒りと絶望に満ちたアニータの絶叫が響き渡る。娘たちの姿は王の兵士たちが作る壁に遮られると、やがて見えなくなった。


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