終章 エミリウス円形劇場にて


 堅牢な石造りの城にある、謁見の間に絶叫が響く。エデンバルの王、高峰の支配者ダビデ・ファビアスと王に立ち向かうタムシンや赤毛のアニータ・プリシウスたちが演じていた一場の打ち合いは終幕を迎えようとしていた。世を統べる王を追い詰めたのは水鳥の姫君の剣と赤毛の勇者の手品であり、娘たちが親しかったジプシーの女、マリレーナの短剣が遂に高峰の支配者の脇腹に突き立てられる。王を深く傷つけた刃には王自身が伝えるエデンバルの秘術を害する、液体が光って刀身を濡らしている。
 王の叫びは痛みでもなければ驚愕や憤怒によるものでもなく、絶望と恐怖によるものであった。それは王を知る者にとっては信じられぬほどの、柔弱で情けない叫びである。エデンバルの秘術を施した王の肉体は短剣の傷に痛みすら感じることはなく、人を超えた技と力を生み出すことができるが、液体が傷を侵し全身が死と絶望に向けて弛緩する様子がダビデには理解できた。高峰の支配者は人の精神から肉体、魂までを支配する存在であり、もはや己の肉体を助ける術がないことをダビデ・ファビアスは知らなければならない。

「余は、余は死んでしまう。助けてくれ。嫌だ、余は死ぬのは嫌だ!余はこんなところで消えて良い存在ではない。ダビデは永遠なのだ、高峰の支配者はダビデただ一人なのだ・・・」

 絶望に口角を開き、恐怖に止まらぬ涙を流している哀れな男はすでにダビデでもファビアスでもなくなりつつある。幾代にも渡り、王の意思を優れた肉体に伝えてきた高峰の支配者ダビデにとって崩壊する無様な肉体は価値の失われつつあるものでしかない。
 だが崩壊するダビデは自らの意思を逃がすための器を持っておらず、肉体が崩れれば伴に滅びるしかなかった。それまで人の死に関心を持つことがなかった高峰の支配者は、避けられぬ己の死を前にしてそれを受け入れることもできねば立ち向かうこともできずにいる。世を統べる王にとってすべては彼の思うままであらねばならず、王は困難も知らねばそれに立ち向かう術も持たない者であった。

「ああ!ファビアスよ、貴様が余とこの国を捨てねば!メルキオルを手にかけねば!ダビデよ!貴様が兄だけを重用せず余に機会を与えていれば!孫娘になど期待をかけず、余に高峰の支配者の地位を継がせておれば!」

 一人の男の中で醜い争いが起こる。罵り、なじる声はダビデのものでもファビアスのものでもなく、彼らは滅びゆくダビデにもファビアスにもなりたくはなかったし、崩壊する己が誰であるのかも理解したくはなかったのだ。
 見る者に哀れみすら呼び起こす、醜悪な男は彼に残された最期の時間を無意味にわめきちらすことによって浪費してしまうと、今になってようやく自分を刺したタムシンの存在を思い出す。高峰の支配者ダビデの孫であり、デケ・ファビアスの姪であり、王を除けばただ一人エデンバルの秘術を知る水鳥の髪と空色の瞳を持った娘。ダビデとファビアスは自分を刺した娘に弱々しい視線と卑屈な笑みを向けると、哀願するように背を曲げた。

「おお、タムシン。タムシンよ、余を助けてくれ。お前ならできるであろう?そうだ、お前は余の孫であるからな。お前の技と知恵があれば、余を助けることができるに違いない。
 頼むぞ、余には時間がない。エデンバルの王の地位も高峰の支配者の座も、お前にくれてやろうではないか。そうすればお前には好きなものが手に入るぞ。悪い話ではあるまい」

 自分が王であることも高峰の支配者であることも捨ててしまった、哀れなダビデとファビアスにタムシンは折れた腕をかばうようにして一歩を引くと、ゆっくりと、だが決然とした意思を込めて首を振る。タムシンの好きなものは石壁に覆われた城の中にも、孤独に立つ玉座の上にもありはしない。
 タムシンの好きなものを、かけがえのないものを奪った男は目の前で朽ち果てようとしている。だが水鳥の姫君は勝利の高揚よりも愚者への哀惜すら覚えて、哀れなダビデに通じる筈のない言葉を紡いだ。

「私が望むものは私の友人が与えてくれます。そして私も、私の友人に彼女が望むものを与えたい。星の下で火を囲って吟を奏でる、私が望む音はエデンバルには響かないし、私は貴方に感謝することも決してないと思うけれど、でも私は自分自身に後悔をしていません・・・さようなら、高峰の支配者ダビデよ。吹きすさぶ風あれど、流れる音の旋律に耳を傾けることがなかった者よ」

 タムシンの言葉をダビデは最後まで聞き終えることがなかった。絶望した王には自分がわめく言葉も他人が紡ぐ言葉も聞こえることはなかったろうが、もとよりダビデは他人の言葉に耳を傾けたことはない。ただ救いを拒絶された事実だけをダビデは理解すると、彼の意思を深淵へと突き落としていた。
 高峰の支配者、自分の力と意思のみを信じた世界を統べる絶対者は、彼のすべての望みを絶たれてその末期を迎えようとしている。水鳥の姫君と赤毛の勇者は王の絵巻に従うことがなく、兄殺しの魔人や恐るべき獅子王すら支配した王はジプシーの手品に欺かれてその生を終えるのだ。やがてダビデであった男の肉体は急速にしぼむと肌が黒ずみ、醜い緑色の筋を浮かべたおぞましい姿へと変貌していく。全身が萎びてひからびた、残されたその姿が王本来の姿であるかのような、朽ちた老人に似ていた。

 沈黙に閉ざされた謁見の間、人々が身じろぎもせず見守る中でかつて祖父であり伯父であった男の肉体が崩れ斃れる音が響くと、タムシンは自らの疲労と苦痛を思い出したのか、折れた右腕を抑えて小さくよろめく。彼女の傍らにはアニータがいて、力の抜けた友人の身体を支えると心からの心配の眼差しを向けていた。傷はいずれ治る、エデンバルの技ではなく遊牧民の知識としてそのことを知っているタムシンは、友人に力強い笑みを向ける。
 高峰から世界を睥睨する毒竜を打ち倒した、空虚な達成感がタムシンの細い身体に休息を求めていたが、彼女がやらなければならないことは赤毛の友人に心からの感謝を告げることであった。ゆっくりと、ゆっくりと息を吐くと肺腑の底まで澱んだ空気を入れ換えて、かけがえのないアニータに視線を合わせる。

「ありがとう、アニータ。貴女に会えて本当に良かった」
「・・・タムシン!」

 歓喜の顔をした赤毛の友人に飛び付かれて、思わず腕を抑えると慌てて謝罪するアニータの様子にタムシンも堪えきれずに笑い出してしまう。心の底から笑い、怒り、泣くことができるアニータの勇気を教えられた。かつてハイランドを発つときには考えることもできなかった、タムシンの笑みは狩人の自信と遊牧民の喜びにあふれており、それこそが彼女の本当の姿なのだ。
 アニータがタムシンと初めて出会ったとき、未来に絶望した老人のような、生気に欠けた瞳をしていた娘の姿は今はどこにもない。あのときブリタンニアの内海に吹いた暖かい風が今はハイランドを抜ける冷たく厳しい風に変わっても、水鳥の姫君はその身を風に晒して決して迷うことはないだろう。星空の天蓋に眠る、タムシンはキャラバンの娘であって忘れがたいシンシアやマリレーナの家族である。アニータはそのタムシンが自分のかけがえのない友人であることが、どれほど誇らしいことであるかを知っていた。

「タムシン!私は、貴女が大好きよ!」

 アニータは思い出している。見も知らぬ船乗りを助けるべく名乗りを上げたアニータに、その理由もないのに夜を通して手を尽くしてくれたタムシンの姿を。ノーヴィオの港町で、旅を伴にするよろこびに踊りまわるアニータに振り回されていたタムシンの姿を。そして、エデンバルに向かう星空の下でアニータにしがみついて泣いていた弱々しいタムシンの姿を。
 少し短く切った赤毛を振る、アニータの心に残る姿はすべて一年にも満たぬ間の出来事でしかない。そのタムシンが王の不条理や秘術の愚かさと戦うことを選んだとき、どれほど力強く見えたことか。チェスターで友人を侮辱する声に立ち上がった姿が、揃いの大布を羽織り互いに髪を切りそろえた記憶が、そしてマリレーナと三人で唄い踊り明かした星空の夜がどれほど貴重なものであったか。タムシンに礼を言わねばならないのはアニータであり、彼女と出会えたことに心からの感謝を告げねばならないのもアニータなのである。ありがとう、以上の言葉が思いつかなかった赤毛の娘は、彼女が自信をもって言える言葉をタムシンに伝えたのだ。

 後悔などある筈がない。彼女たちの旅は危難を伴い、貴重なものを失う旅であった。そして一国の王を討った娘たちがこれからどのような結末を迎えるのであったとしても、アニータもタムシンも自ら選んだ星に従って踏み入れた道である。堅牢な石造りの城にある、謁見の間で王の骸を前にして娘たちは現実に立ち戻っていた。旅が終わり、旅人は家路を目指す。

「兄殺しのファビアス!父王を殺したデケ・ファビアスよ!」

 壮麗な広間を無粋な叫びが打つ。エデンバルの騎士、血塗られた赤き鎧のレイモンドの声に視線が集まった。一場の戦いを経て謁見の間にはすでに動くものの姿は少なく、赤毛のアニータと水鳥のタムシン、そして彼女たちに従うフランコの三人を除けばレイモンドと彼が従える兵士たちの生き残りしか立つ者はいない。ダビデとファビアスの肉体は朽ちて動かず、王が誇る不死歩兵団もすべて打ち倒されて床に転がっていた。その犠牲が罪の所行であることを、生き残った者たちは知っている。
 赤き鎧の騎士は大仰な叫びに続けて腰だめから抜き放った剣を高く、高く振り上げると渾身の力と叫びを込めて動かぬ王の骸に深々と突き立てる。易々とすべてを貫いた、鋭い剣先は床面に当たって石を削る不快な音を響かせると、その音で人々は我に返りレイモンドの顔を凝視した。拭うことができぬ罪を負った卑劣な騎士は彼の剣が貫いた主君の身体に一瞥を落とすと、声高に宣言する。

「血塗られた新王ファビアスは今、ここに斃れた!王家は絶えたのだ!兄を殺し、父王を殺したファビアスの汚れた血がエデンバルに継がれてはならない!エデンバルの騎士である赤き鎧のレイモンド、老王ダビデに仕えし忠義のレイモンドがダビデの意思に代わって悪逆なファビアスを討ったのだ!」

 突然の言葉に、レイモンドも彼の兵士たちもすべてを心得た顔で王の骸を囲うように集まると、チェスターからの客人たちに向きなおる。その目には異国の部外者に対する嫌悪にも見える表情と、避けることができなかった自分たちの所行と結末に対する、自己満足的な感情とが混じり合っていた。

「異国の娘たちよ、暴君を打倒した栄光と恥辱は我がエデンバルの騎士たちのものである。お前たちには礼を言うが、エデンバルの恥はエデンバルで雪がねばならない。お前たちが出る幕はどこにもないのだ」

 強圧的な言葉に、すべてを悟ったアニータは一歩を踏み出すと言ってはならぬ言葉を返そうとする。エデンバルを統べる高峰の支配者、王を討った者が必要である。だがそれが幾人もいる必要はない。

「レイモンドさん!駄目よ、貴方は!」
「・・・お嬢様」

 ゆっくりと後ろから歩み寄ると、アニータの肩に静かに置かれたのは彼女の従者であるフランコの手だった。その声ではなく、置かれた手の不思議な重さがアニータの言葉を押しとどめる。フランコには、いや、アニータにもタムシンにも十数年に渡って自らを恥じることしかできずにいた、レイモンドの望みは理解できていた。消えぬ後悔を伴侶として生き続けてきた卑劣漢は、彼の卑劣な所行に相応しい処遇を受けねばならないのである。
 それが正しい望みであるとは、アニータには思えない。だが卑劣な騎士が果たすことのできなかった王家への忠誠を、残されたタムシンへの忠誠を果たすことで購おうとしているレイモンドの思いもアニータは知ることができた。一瞬、感謝するような顔になった赤き鎧の騎士は再び表情を戻す。

「玉座の裏にある通廊から外に抜けることができるだろう、金が欲しいなら受け取るが良い」

 手際よく用意していた、金貨の詰まった袋をぞんざいに投げつけると蔑むような目を向ける。だがアニータにもタムシンにも分かっているのだ。レイモンドの蔑みはこの結末を避けることができなかった、自分自身やエデンバルの国に対して向けられているということを。十数年前に遡ることができない者たちの、後悔の嘆きであることを。
 娘たちは目の前の卑劣漢に対して礼の言葉を述べるようなことはせず、深々と頭を下げると謁見の間を後にする。教えられた通廊はかつてタムシンやアニータが高峰の支配者に囚われたとき、レイモンド自身が案内した城外へと至る道であった。

 ただ一人の高峰の支配者が治める、王が倒れたエデンバルは国を導く者を失い狼狽して為すところを知らぬであろう。ファビアスが出奔する際に使節の一行を潰されていた、チェスターの評議会はこれを機に兵を送るであろうしエデンバルにそれに抗する力などありはしない。王がいなければ貴族にも民衆にも国を治める力はなく、最強の不死歩兵団を支える秘術を伝える者も、もはやエデンバルには存在しないのだから。
 エデンバルには降伏しか道が残されてはいないし、それも遠い未来のことではない。だが騒乱を引き起こした、王家の者たちはすでにその全員が絶えているのだ。老王ダビデは亡く、後を継いだ新王ファビアスは叛逆した騎士レイモンドの剣に斃れ、そして王の孫娘タムシンの存在はもはやエデンバルの民ですら覚えてはいない。

「忘れがたき古き友よ。
 思い出すことがなくとも、例え時が過ぎようとも・・・」

 古きハイランドの民謡の一節をレイモンドは口にする。彼の目の前でエデンバルとその王家は潰えようとしていたが、国は滅びても民は残るし、かつてレイモンドが手にかけた人の娘であるタムシンを救うことができる。高峰の支配者を倒した功を横取りする、卑劣な振る舞いもまたレイモンドに相応しいではないか。
 それだけがレイモンドの望みである。彼が仕えることの叶わなかったタムシンは彼女の友人とチェスターの都へ行くのであろう。星の下で火を囲って吟を奏でる旅、享楽の都で人々と交わる生活。赤毛の友人が認めていたタムシンの唄声は、娘たちがどこにいても清爽に力強く流れるに違いない。それはエデンバルを抜ける冷たく厳しい風ではなく、ハイランドの山中を抜ける生命に満ちた風のような。

「遠き昔のために、友人よ。
 遠き昔のために、唄を交わそう。遠き、昔のために・・・」

 かすかに、遠くから聞こえてきた声は水鳥の姫君に相応しい勇敢で清爽な調べであった。娘たちの姿はすでになく、レイモンドの声も望みも届く筈のないタムシンの唄が何故聞こえたのかは壮年の騎士には分からない。だが、その唄は果たされる筈のない彼の最後の望みであったのだ。

「おお・・・タムシン様、おお・・・」

 それは哀しみとも喜びとも異なる、未来へと向かう感謝の声。冷たい石壁を超えてレイモンドの耳に紡がれる唄声は、一人の騎士の恥辱と後悔に汚れた心を十数年を経て洗い流していた。血の色に塗られた鎧は誰も拭うことができずとも、レイモンドは満足した心で彼のために用意された結末を迎えることができるだろう。
 その時、タムシンの唄が本当に紡がれていたのかどうかは分からない。だが確かにレイモンドはその声を聞いていたのであり、彼にとってはそれがすべてである。壮年の男の頬を洗う涙は、十数年前に彼が流すべき涙であったのだから。やがて充分な時間が過ぎて、もはや娘たちを追う手だてもなくなる頃にレイモンドは彼の信頼する部下たちに顔を向けると、高らかに宣言する。愚かな騎士に従う、兵士らが上官と運命を伴にするつもりでいることを彼は知っていた。

「さあ、勝ち鬨を上げようぞ!私と、そしてお前たちが本当にエデンバルの姫君を救った者であることを、我らだけが知っているのだから!」

 エデンバルの新王、ダビデ・ファビアスが騎士の剣に斃れたという知らせはブリタンニアを驚倒させる。それまでチェスターに亡命していたファビアスは議会の制止も顧みずに出奔すると、彼を招聘した老王ダビデを害して強引に玉座に登ったが旧王に忠実な赤き鎧の騎士とその一団に討たれたのである。ファビアスに議員や使節を害されていたチェスターはすぐに一軍を出すとエデンバルに押し入り、さしたる抵抗もなく王都への入城を果たす。高峰の支配者ダビデ・ファビアスを討った赤き鎧の騎士レイモンドはチェスターの軍と使節を迎え入れると、従容として主なき城を明け渡した。
 チェスターの議会は悪逆なファビアスを倒した赤き鎧の騎士を賛した後で、主君を裏切った彼とその兵士たちを断罪しエデンバルとチェスターの混乱を招いた者として断頭台にかけることを決める。王家に連なる者はすでにおらず、高峰の支配者ただ一人が治めるエデンバルでは貴族も民衆も国を治める者ではなく、誰かが騒乱と犠牲の責任を取らなければならなかったのだ。

「自ら仕える国の父を害した罪は処断されねばならぬ。主君を敬う心は家族を敬う心と等しい」

 エデンバルはチェスターへの賠償を求められるが、もとより償うべき王とその一族は誰も残ってはおらず、国に残されていた王の金庫から相応の額が持ち出されたに留まる。質実で、農耕よりも狩猟や牧畜を主に行っているエデンバルには王であれさほどの資産はなく、賠償も象徴的なものに過ぎない。王が求めていたのはエデンバルの秘術とそれに連なる叡智のみであって、世俗の金品に対する興味ではなかったことを知る者はいなかった。
 ただ一人の高峰の支配者が失われたエデンバルは、国として滅びることはなく王の過ちを正すために貴族と民衆から半数ずつの代表者が集められて議会の設立を強制されると、チェスターから顧問を迎えるという条件で自治を認められることになった。

 エデンバルが経済的に魅力のない国であったことがことを穏当に決着させる原因となっていたが、その背景にはチェスターの評議会で雄弁を振るったプリシウス卿の尽力と、トンマーゾという商人の暗躍があったせいでもあると言われている。
 人好きのする顔をした、抜け目のない商人はブリタンニアを巡る航路が東方のエデンバルに伸びることで得られる権益を材料にして、エデンバルの民を無理に締めつけるよりも新たな市場を開かせた方がよいと評議会を納得させてしまった。傍流貴族のプリシウス卿や彼に親しい者たちもまた、商人階級のようだと揶揄されるほどに市井の商売に熱心で開明的でもあったから、トンマーゾの提案に積極的に賛意を示している。誰もが打算的な解決策に目を向けている中で、エデンバルの王族の血を引く娘のことなど気にかける者すらいなかった。

 主君を殺した騎士たちはチェスターに連れられると衆人の見守る中、エミリウス円形劇場で首を落とされる。恩赦を求める声もなかった訳ではなく、首謀者であるレイモンドはともかく彼の兵士たちには寛大な処遇を与えてもよいのではないかという声は評議会からも上がっていたが、当の兵士たちは彼らの自己満足とレイモンドへの、そしてタムシンへの忠誠を全うするためにそれを拒否していた。

「エデンバルの騎士レイモンドとその兵士に、忠節を果たさず主君を刃にかけた罪を問いここに裁くものとする!」

 朗々とした式部官の声が響き、罪人たちは衆目の中で古式に従って倒れるまで笞討たれると首を落とされた。事情を知る者の中には悪逆なファビアスを倒した騎士たちを惜しむ声もあったが、大勢は長く対立したエデンバルとの騒乱が終わることに喝采の声を上げている。

 その中で、罪人のためにたった二人の娘だけが止まらぬ涙を流していたことを人は知らない。大布を目深に被った二組の瞳は、娘たちに代わって結末を受け入れた卑劣漢の姿を決して忘れぬように凝視して離れることがなかった。互いにしがみつき、耐えきれず崩れそうになる身を支えながら決して顔を背けずに見届けること、忘れぬことだけがアニータとタムシンにできた感謝の思いである。
 そして娘たちに仕える壮年の従者は、彼らなりの忠誠を尽くした赤き鎧の騎士と彼の兵士たちを悼んでしばらくは喪章をつけていたがそれだけであった。人に問われれば、彼は戦いで命を落とした忠実な戦士のために、とだけ言ったものである。

‡ ‡ ‡


 チェスターはブリタンニア西岸にある内海に面した都市の中でも起源が古く、デイ川の畔にあり古くは「川の砦」を意味するケストルデバの名でも呼ばれ、寒冷な東部に比べると気候も温暖で過ごしやすく人の往来も多い。チェスターは都市にして周辺の村や部族を治める小国の名でもあり、街道で結ばれた都には商人が行き交って、帝国時代からの多くの文化が残されているために享楽の都の呼び名で知られている。

「お嬢様、そろそろお時間ですぞ」
「ちょっと待ってよフランコ、すぐに行くから」
「仕方ありませんな。また夜更かしをされたのですか?」
「うるさいわね!分かってるなら言わないでよ」

 時は紀元六世紀、石造りの建築物や彫刻で彩られたチェスターの街角に軽快な声が響く。プリシウスの家には、代々仕えている従者の養女として新しく雇われたという娘がいて、今は赤毛の令嬢の学友として同じ屋根の下で暮らしている。世の中にお転婆娘というものがいるとすればプリシウス卿の娘だけだと思っていたが、どうやらもう一人いたらしいとは享楽の都にいる無責任な人々の噂話であるが、そのことに頭を痛める者はいても深く考える者は誰もいない。
 温厚なプリシウス卿も頭痛の種ばかり増えて気の毒だと、笑い飛ばす陽気な声がチェスターの広場にも酒場にも、評議会の席で交わされる挨拶の折りにも聞こえている。その日も娘たちは父の訪問客と会う筈であった堅苦しい歓談を抜け出して、ヒースの茂る丘で唄っていたらしい。

 野を駆けて、風に髪を流して空の天蓋に唄う。娘たちのその後の足取りを追う史料は存在しない。それが彼女たちと、彼女たちに仕える者たちの望みであった。


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