SCENARIO#1
 時は明治、維新の激動が世を大きく変えて文明開化の潮流が訪れてから十年二十年といった歳月が流れすぎている。かつて数百年の長きに渡り、閉ざされていた国が開かれると極東の小さな世界に収まりきらないほどの文化や技術が押し寄せて、それは今も日々流入を続けていた。
 そうした流れは急速な進歩や発展をもたらしたと同時に左右どころか上下も分からぬ混迷をも人々に与え、激流というよりも滝壺の変化をもたらして鎮まる素振りすら見せていない。ことに世界が開かれる以前に生まれた人々からは大きすぎる変化に異を唱える声が多く聞かれたが、開国せねばこのちっぽけな島国は孤立を続けた挙げ句、列国に攻め入られて滅ぼされるしかなかったろう。これらの情勢をいち早く受け入れたのが多くの若者であったことは、それが彼らを取り巻く現実であったからに他ならない。

 当時、帝都では軍部が活況を呈していて多くの者が自ら願い出ると士官への狭き門を叩いていたが、それは若者らに特有の守旧的な世代への反抗心や立身のための野心が根底にあったとしても、生まれ育った郷里を守るのだという純粋な思慕から生まれた行動でもあった。ことに四方を海に囲われたこの国では、国境を守る帝国海軍に軍拡の必要性を訴える声が多く、その中には人々の眉をひそめさせる言動もなかった訳ではないが保守を過ぎて退嬰にすら思える陸軍に比べて遥かに若々しく清心の気風にあふれていたことは疑いない。

「拝命致します」

 固い軍靴のかかとが床面を叩く音が楽器のように響く。動作の一つ一つが小気味よく律動性に富んでおり、敬礼する指先まで神経が行き届いているがそれでいて自然で力みがない。櫻古志郎(さくら・こしろう)がどのような青年であるのか、その動作だけで窺い知ることができた。
 古志郎は桜舞う季節に帝国海軍士官学校を次席で卒業することになる俊英だが、おごったところはなく組織に忠実で職務にも誠実であり人間としては公明正大で他人にも寛容だった。軍令部の直属として帝大明石研究所と呼ばれる研究施設に出向し、現地での活動に従事すること。特務とはいえ、海軍で最前線への配備を希望していた古志郎に残念に思う気持がないといえば嘘になるが、どのような任務であれ軽んじるつもりはなく不誠実に振る舞ってよい理由にはならない。

 軍令部の厚い硝子窓を通して、差し込んでくる日差しが床面にやや濃い色調の影を投げかけている。鈍そうな身体を大儀そうに揺すりながら辞令を差し出している人事官の傍らには、古志郎よりも幾分か年上に見える女性が立っていて値踏みするような視線を青年へと向けていた。帝国大学で教授を務めている松平紘一郎の娘であり、父に代わって帝大明石研究所を取り仕切る松平健子が彼女である。
 通称明研と呼ばれている研究所は電気神道を提唱した明石博高研究室を母体として誕生し、後に政府や軍部の支援を受けて欧州論理回路研究機構と提携して設立された機関である。不可知の現象を引き起こして時間や空間に干渉する「論理回路(ゲート)」の理論は海の向こうではこぞって研究が進められていたが、極東の島国では未だ理論が公にされてもおらずしぜん研究も遅れていた。一方でこの国では論理回路による多くの特異な技術が古くから存在しているとの言われていて、論理回路がもたらす不可知現象を解析する活動には帝国海軍も積極的な支援と関与を表明していた。

「父から話は聞いています。期待しているから、よろしくね」
「光栄です。必ずやご期待に応えさせて頂きましょう」

 力強い宣言は根拠の無い大言壮語ではなく、若者らしい自信と快い緊張感を伴う決意の表明であり松平健子は口元をほころばせる。多忙な父に代わって研究所の実質的な活動はすべて彼女が取り仕切っており、それは縁故人事といえなくもないが女性の社会進出が公に認められるようになって間もないこの時代に、そうでなければ若い女性がこのような職責を任されることは難しかったろう。
 古志郎自身は性別や年齢で他人に対する評価や態度を変える質ではなく、これから自分の上官となる人物に対して生真面目な礼を返してみせる。開かれた世界、押し寄せる潮流に身をさらされつつ未知の現象の前に立つ、彼が配属されることになる世界はまさしく最前線であるに違いないのだ。

† † †

 積み上げられたがらくたの影からほこりを被った姿が顔を出す。髪は後ろで一本束ねたきりで結い上げられてもおらず、ほこりっぽい容姿が若い女性としてはいささか相応しくないが当人は気にした風もなく厚底の眼鏡についた汚れを平然と袖口で拭っていた。
 海を越えて流れ込んでくる様々な知識や文化は日々積み重なると膨大な厚さになっていたが、そのほとんどは見も知らぬものばかりで理解する術を探している間に新しい知識が流れ込んでくるという有り様だった。人々は未知の領分を受け入れていたのではなく、ただ押し流されると中には溺れたまま浮かんでこぬ者さえいたが、あるいは純粋な好奇心で自ら水底に潜り込んだ者の中には愚者だけがたどり着く宝を見つけ出した者がいたかもしれない。

「では、こちらを頂いてもよろしいですね」
「わざわざ読めない本を選ぶのかい?相変わらず変わってるね」

 相手の言葉に笑いながら、表紙を覆っていたほこりを指先で拭うとかるく咳き込むが爛々とした目の光だけは失われることがない。雑然とした品々の中から迷いもせずにその本を選んだのは小塚玉(こづか・たま)にとってごく当然のことであったが、何故と問われれば答えられる類のものではなく彼女を知るたいていの者もそれを心得ていた。
 彼女が手にしている、装丁された古い革張りの本には「ソロモン」という表題の文字だけを辛うじて読み取ることができて、どうやら古代アラビア語に近い言葉で書かれているらしい。製本の手法から見るにおそらく数百年から千年ほど以前のものでむろん作者など知りよう筈もなかった。

 洋書の取り引きや翻訳の仕事に携わっている玉は、自身の趣味嗜好もありこれまでも仕事の報酬を舶来の古い書物に替えてもらうことがあったがその時は奇妙に自分がその本を手に入れなければならぬという強い衝動に支配されていた。原書か写本かも不明、一見して布教や伝道のための本らしく分厚い表紙で綴じられた頁には複雑な文様や精緻な挿絵がびっしりと描き込まれている。だが奇妙なのは翻訳を多々こなした彼女にも使われている文字が単語の数語しか理解できぬことであり、特に文法が奇異で暗号のようにすら見えることであった。試みにたどたどしく拾い集めた数語が彼女の唇から漏れる。

「ソロモン、目・・・王、解放・・・」

 単語を繋げるにはロゼッタの石が足りないが、堆積した時間に埋もれた言葉を読み解くことは彼女にとって仕事や興味を超えた執念すら感じさせるものであり、掘り出されていく記録に幼い自分から無上の悦びを感じるのが彼女の性質だった。傍から見れば奇人以外の何ものでもないが、苦行に耐える人間がいても悦楽に抗しうる人間がいるだろうかと玉は心から思う。宝を探す者は金儲けのためではなく、失われた世界の樹上に立ち台地を見はるかす瞬間のために密林にも洞穴にも足を踏み入れるのだ。

 古来、本とは綴じられた書物ではなく巻き紙のことを指しており、ことに西欧では薄く丈夫な紙をつくる技術が失われた中世期以降に現代に繋がる製本の技術が生まれている。ひきのばした獣の皮では巻き紙にすることはできず、野蛮な時代の産物だが記録を文字として残そうとする意思が失われなかったからこそそれらは失われることがなかった。時を経て多くの貴重な記録が消え去る一方で、野蛮な獣皮に守られた書の幾つかは生き残ることができて、罪深い時代に生まれた功績に目をつぶることはできない。
 後に技術が発展し、獣の皮が再び紙に戻されても本は巻き紙ではなく綴じられた書物であり続けた。製本された書物は巻き紙に比べて討議や弁論の記録を連ねるには向かないが、雑然とした知識を整理し体系化して記すには優れていた。それは人が論理を追求するための道具として書物を用いるようになったことを意味しているのだ。

「駄目ね。そもそも文法だけではなく、意味そのものが分からない語があまりにもたくさんあるのだもの」

 ひとり言のように呟くと、肺の空気を入れ替えるように息をついてから本を閉じる。彼女の知人であれば詳しい者がいるだろうかと、最近商会にやってきた異人の中に奇妙に流暢な言葉を話す人物がいたことを思い出した。なんとか乃進という和名をわざわざ名乗っているほど帝都を気に入っているらしく、玉は貴重な書を包みにしまうと建物を後にした。この国ではまだ珍しい、舗装された要町の街路を脇目に歩き出した彼女の心中は眠っている多くの知識と記録へと向けられている。埋もれて消えていくことは損失であり、それは掘り起こされるのを待っている宝だが、過去には深く封じることが目的で埋められた知識と記録が存在することをこの時の彼女はまだ理解してはいなかったのである。

† † †

 かもめ亭は要町の目抜き通りから一本だけ足を踏み入れた通りにある、食堂を兼ねた旅館でそれほど老舗という訳ではないが港が開かれた折りに異人の船員や商人らを積極的に迎えたおかげで相応に繁盛することができていた。内陸に離れた要町にありながら、内装は港に面している旅籠を意識したつくりになっていて看板に揺れているかもめの絵も上手いとはいえないが相応の雰囲気を醸し出す役に立っている。料理も部屋も一流にはほど遠いが三流という訳でもなく、大皿に盛った飯の上に卵焼きと野菜を乗せただけの定食が大柄な船乗りたちには人気だった。

「すみません。おかわりをもう一皿お願いします」
「はい、ランチ一皿追加です!」

 元気よく応じながら、心中で天城すずね(あまぎ・すずね)はこっそりと舌を巻いている。卓上に積み重ねられた大皿はすでに四枚、一枚が二人前という料理はすべて目の前にいる小柄な女性の胃袋に収められていた。その日、昼時の忙しい盛りをすぎてようやく休憩の時間が手に入ると、公園通りの路地を散策していたすずねは今時珍しい行き倒れを発見する。龍波真砂子(たつなみ・まさご)と名乗る女性はすずねよりも数歳年長に見えたが襲われたのでも怪我をしたという訳でもなく単に腹を空かせて動けなくなっただけらしい。
 まさか放っておく訳にもいかず、肩を貸すようにして助け起こすとすずねが働いているかもめ亭へと連れてきたが、なるほどこの食欲であれば胃袋が空になれば動けなくもなろうと納得するしかなかった。五枚目の大皿を積み上げて、ようやく落ち着いた女性は碗に満たされた茶をひと息に呑み干すと、持ち帰りにと頼んでいた握り飯と饅頭を巨大な背嚢に詰め込みはじめている。呆れた視線に気がつくと改めて命の恩人に頭を下げるが、話によれば栃木の小村から帝都に上がってきたばかりでどこかに働き口はないかと探しているらしい。

「なにぶん神職に勤めていたせいか世事に疎くて」

 真砂子が言うが、すずねの目には世事よりも別の理由で生きていくのに苦労しそうな人物には見える。とはいえこの時代、建て前としては女性の社会進出が認められるようにもなって帝都であれば働き口も多いだろう。とはいえそうした中にいかがわしい職場がないとはいえず、よほど知り合いや信用できる相手でなければ散々な目にも遭いかねない。すずねが働いているかもめ亭も親類縁者のつてで雇ってもらっていたから、勝手に雇い人を増やすこともできないが困っている人がいるなら何とかしたかった。
「そうね。たまにお仕事を頂いている商会なら・・・」

 切り出したところで扉を揺らす鈴の音が鳴ると、肩までの金髪を切り揃えた快活そうな少女が入ってくる。エミリー・ランフォードは叔父の商会を手伝っている若い娘だが、実際には気まぐれな代表を置いて彼女がたいていの事務も仕事も仕切っているとは巷の評判だった。働く娘としてすずねとは気が合う点が多いらしく、他愛のない世間話をすることもたびたびで最近は舶来の蹴鞠競技のなんとかいう選手がお気に入りだと観戦した親善試合の感想を交わしている。

「そうだスズネ、これいつもの注文書。よろしくね」
「ありがとう、それよりちょっと相談があるんだけど」

 分厚い封書を受け取りながら、すずねは傍らの真砂子をちらりと一瞥すると手短に事情を説明する。働き口がないものかと単刀直入に聞いてみるが、友人の言葉に少女は申し訳なさそうな顔になると最近不忍池で請け負った工事に人を集めたがここ数日仕事が滞っているらしいのよとぼやいてみせた。日雇いは仕事がなければ日当を渡すことができないから、雇う側も雇われる側も困った事態だから何とかしなければならないのにウチの宿六は帰ってこないと、世間話から始まった愚痴が気がつけば呪いの言葉に変わっている。ろくでなしのごくつぶしでとうへんぼくだと、異人の娘とは思えぬ語彙の多様さにすずねも真砂子も感心させられた。しばらく悪口が続いたところで、すずねの相談を思い出したようにエミリーは善処を約束すると後で事務所に来てくれないかと言って一足先に帰ってしまう。要件を終えたすずねもかもめ亭の手伝いに戻り、真砂子を案内してランフォード商会に行くことになったのは傾いた日がとうに暮れた後だった。
 日が落ちても要町はすぐには眠りにつかず、頭上を照らしているガス灯が街路に明かりを投げかけて目抜き通りはにぎやかな喧噪に包まれている。真砂子にとっては月よりも煌々とした明かりに照らされている夜空が珍しくて仕方がなく、笹にぎりをほおばりながら周囲に目を向けている様子を見るにどちらが年長者か分からない。すずねは軽く笑うと、近道になる裏通りへ足を踏み入れるが常は閑静な道に人だかりができていることに気がついた。

「あれ?こんな時間になにかあったんでしょうか」
「いえ、あれは・・・」

 それまで呑気な様子でいた真砂子の口調が変わっていることにすずねは気づく。通りの右と左、ガス灯の支柱から支柱へと縄が張られていて通行止めになっているらしく、一人の青年がこちらに気がつくと視線を遮るように近づいてきた。娘たちは軽く身構えるが、青年は姿勢も態度も丁寧で威圧する素振りもなく、むしろそう思わせることに恐縮しているようにも見える。

「申し訳ありません。こちらの道は立ち入り禁止にさせて頂いております」

 丁寧だが有無をいわせぬ口調がかえって好奇心を刺激していることに気がついたらしい。娘たちの表情を見て青年は少しだけ失敗したという顔をするがもちろんそれ以上は会話も説明もしようとはせず、穏やかな物腰のままで迂回してもらうように促す。無理を押し通すつもりはなかったから、すずねも従うときびすを返そうとするが黙り込んだままでいる真砂子の様子を見てどうしたんですかと声をかける。暗がりの路地の向こう、常人には見える筈のない暗中で真砂子の目に映っていたのは地面に飛び散っている血痕と無惨に横たわった犠牲者の骸、そしてわずかな残滓として感じられる不可知の存在の痕跡とであった。

† † †

 要町は旧江戸城に隣接する一画を起源とする町であり、活気のある下町と閑静な旧市街双方の側面を持ちながら、開国に伴う変化にさらされて日々様相を変えている都市でもあった。古い木造のあばら家は取り壊されると近代的な煉瓦や色硝子で飾られた建物に替えられており、街路は固く均されたことはもちろん大通りを中心に石が敷かれて舗装が行われるようになり、未だ充分でないとはいえ雨水を流すための側溝も次々と設けられている。一方で通りを一歩外れれば未だ工事が追いついておらず、木造りの長屋や組み上げた資材に天幕を張っただけの労働者街が幾つも軒を連ねていた。
 とはいえ国が開かれて多くの進歩と発展がもたらされたとしても、地方への伝播は未だ遅く里中菊(さとなか・きく)が暮らしていた山形の農村部とは比べるべくもない。踏み固められた道を人力車や鉄道馬車がけたたましく奏でていく轍の騒々しさは彼女の想像の遥か外にあった。舗装した街道の脇によけられている、馬糞の臭いがいっそ親しみのあるものに感じられる。

「これが、都があ」

 息をついて、思わず漏らした声に郷里の訛りが混じったことに気がつくと誰も聞いてはいなかったかと慌てて口を押さえてから右に左に視線を向ける。未だ十三歳、ありていに言えば口減らしのために奉公に出された身であと数年遅ければそこらの家に嫁に出されていただろう。古くさい風習と慣習の中で育っていた、彼女にしてみれば女が男の嫁として生きるのは正しいが奉公先で女として家を守るに足る振る舞いや教養を身につけることも悪いことではない。貧乏人には貧乏人の、富家には富家の作法が存在することを菊はわきまえていた。
 目の前にある松平邸は閑静な住宅街の一画を占める立派な邸宅であり、家を囲っている塀をひと巡りするにも時間がかかるほどだが広さだけであれば彼女の郷里にある庄屋の農地や山々に遠く及ばない。むしろ畑にせず畜舎もない庭が広くて何の意味があるのだろうかと、半ば本気で考えさせられてしまう。

 そろそろ約束していた刻限だろうかと、門脇にある通用口に近づくと扉を叩くが農村で時刻といえば日の出、日の入り、正午しかなかったからこうした感覚にも慣れる必要があるのだろうと思う。しばらくして堅い木造りの扉が静かに開かれるが、これだけ広い邸宅でどうやって訪客に気がついたのだろうかと不思議になる。菊の疑問に気がついたふうもなく、通用口の向こうにいる線の細い少年が丁寧に礼をすると口を開いた。

「お待ち、しておりました。あいにく女史は不在ですが、僕、いえ、私が邸内をご案内させて頂きます」

 少年は亮太郎と名乗り、女主人たる松平健子の甥として邸内のいっさいを任されているらしい。非礼にならない程度に値踏みをする視線で評価するに、年齢は菊とそれほど離れてはいないがいかにも気弱そうで頼りなく、男性に求められるべき毅然とした強さや厚みのある人格といったものとは無縁に見えた。女が従うべき男とはそれらを備えていなければならず、いずれ邸の万事を菊が取り仕切るようになれば軟弱な男もどきは不要になるのだろう。やってきたばかりの奉公人に対しても腰が低い亮太郎の態度は公正に見れば彼が善良な人物であることを証明しているが、善良さとは必ずしも男に求められる美徳とは限らないのだ。

「里中菊と申します。暫くは教わることも多いと存じますが、何卒御指導御鞭撻のほど御願い申し上げます」

 堅苦しすぎる口調は男もどきを威嚇するためではなく、郷里の訛りが出ないように意識したためである。女主人の身の回りの世話はこれまで通り亮太郎が行うので、菊に任されるのは帝大明石研究所の代表代行としての松平健子の助手としての仕事が主になるらしい。研究所とやらの仕事を菊が知っている筈もないが、いずれにしろ彼女は与えられる仕事を選ぶことができる立場ではないしむろん断る理由もなかった。
 古い慣習に馴染んでいる菊が思うところでは松平邸の女主人はいささか男性の領分に入りすぎているが、時代が変わり女性の地位権利が拡大していることを認めないほど彼女は狭量でもなかった。彼女はまぎれもない男尊女卑の思想を持ってはいたが、それは生物的な性差で優劣をつけるものではなく男は尊き振る舞いをしなければならぬ、そして尊き振る舞いをする男は尊ばなければならぬという信念である。女主人が男性の領分にいるのであればそれは尊重されるべきで、少なくとも小間使いの男もどきと比べられる存在ではないだろう。

「何か仰いましたか?」
「いえ、別に」

 庭園には刈り込まれた植栽はもちろん、水を噴き上げている水溜めや敷かれた石畳の表面まで手入れが行き届いていることが分かる。案内された邸も塵ひとつなく磨かれており、これらを男もどきが取り仕切っているなら彼も決して無能ではないらしい。あてがわれた部屋に少ない荷を置くと他の使用人たちと挨拶をして、女主人が邸内で仕事をする際に使っているという客間に案内されたところで鐘の音が響くと訪客が告げられた。背の低い菊は気がつかなかったが、門脇のどこかに鐘を鳴らす仕組みがあるらしかった。
 小走りになって客人を迎えにいく亮太郎の後ろに従う菊は既に彼女が松平邸に仕える身であることを自覚して、神妙に振る舞おうとするが、庭を抜けて門扉の向こうに居並んでいる白衣の集団を見て思わず怯んでしまう。亮太郎から聞かされたが、松平健子は明研代表としての多忙を補うために自宅を事務所に使っていたから所員が訪れることも珍しくはないが、白衣の一団を従えている長髪の男はそれにしてもぞんざいな態度で挨拶の言葉すらなく切り出した。

「亮太郎くん、不忍池に行きますよ!準備なさい」
「え?あ、はい」

 菊などにすれば相手の無礼に言い返して然るべきだが、当然のように頭を下げている亮太郎を見てやはり男もどきは駄目だと評価する。とはいえ彼女も自分の立場はわきまえていたから、亮太郎が男に従うなら彼女がそれに倣わないわけにはいかない。白衣に長髪の男は初対面の菊を気にする素振りもないが、女子供だからというのではなく単に他人に興味がないだけで亮太郎に尋ねなければ名前すら知ることができなかったところである。
 長髪の男、鳴神学(なるかみ・まなぶ)は一見して整った顔立ちをした青年に見えなくもないが、整った顔立ちの青年という存在自体に価値観の古い菊が偏見を持っているという事情を差し置いても奇異な人物に見える。一刻も惜しいという様子で背に担いでいる袋には怪しげな機材がいくつも詰められていて、視線は爛々と熱を帯びて他人を不安に思わせる。亮太郎と一緒に連れ出されることになった菊は、学と同じ白衣姿で従っている研究所員たちが同様の荷を担がされている様子を見て自分も手伝うと主張するが、正直なところ学を除けば青びょうたんめいた所員たちよりも小柄な彼女がよほど力があるように思えなくもない。肝心の学はといえば些末な事柄は気にしたふうもなく、心ここにあらずといった風情で先んじて足を速めていたからそもそもこれから何をするつもりなのだと尋ねるだけでも苦労だった。

「オオナマズです!オオナマズが現れたのですよ!」

† † †

 ソロモンの目と題された本は精緻な挿絵と奇妙な言葉でどの頁も埋め尽くされていて、玉の知識では数語の意味を拾うのがせいぜいだがそれでも苦労して繰っていくと見開いた頁のいくつかが共通する書き方をされていることが理解できる。特に精緻な挿絵がある頁はどこかに必ず奇妙な模様があり、それを説明する記述が書かれている構成になっているらしかった。

「これは面白いものを見つけましたな」
「読めるんですか?」
「いや全く。ですが本の読み方を教えることはできますぞ」

 波斯初乃進(ふぁるす・はつのしん)の言葉に玉は首を傾げる。読めないのに読み方を教えるとはどういうことか、この流暢な言葉を話す奇妙な異人は玉と同じく翻訳や通訳の仕事でランフォード商会に雇われることが多くしぜん交友がある人物だが、驚くほど多芸多才で助けられることも多かった。

「そうですなあ、無理に知っている単語を辿ろうとするのではなく、模様を解くつもりでなぞってごらんなさい」

 ようするに絵解き文字のようなものだろうかと、いまひとつ要領を得ないまましばらく模様をにらみつけてから何度か指でなぞってみると、不思議と頭の中で文字が繋がり散らばっている単語を拾えそうな気がしてきた。なぜそうなるのか分からないが、どうやらこの模様が文法の役割を果たしているらしい。
 我にかかる事柄を為さしめる者に栄光あれ、汝に告げる・・・そこまで読んだところで事務所の扉が開く音が玉の耳に聞こえると今まで外出していたらしいエミリーが部屋に入ってくる。初乃進の姿を見つけて、いてくれたかという表情になると早足で戻ってきたらしい息を弾ませながら腰に手を当ててみせた。

「ちょうど良かったわ、不忍池で困ったことが起きてるらしいの。新入りさんと一緒にお願いできるかしら」

 不忍池で予定されていた工事のいっさいが中断して人工たちが途方に暮れている。先ほど事務所の下で油を売っていた叔父を向かわせたから追いかけて事情を調べて欲しいというのが彼女の「仕事の依頼」だった。ランフォード商会は常の取り引きや人の紹介とは別に帝都で起こるさまざまな厄介事を解決する仕事を請け負っていて、初乃進などは翻訳よりもそちらを要町での主な生業としている人物だった。奇妙な事件に携わる輩が奇妙な人物でも仕方なかろうというものである。
 代表が向かったなら詳しい話はそちらで聞けということなのだろう。やれやれといった風情で外套を羽織った初乃進が事務所を出ると、ことの成りゆきを見守っていた玉は呆然として残されたが、なんとなく置いて行かれた気分になると開いていた本を閉じて放られていた上着に手をかける。不忍池であればそれほど離れてもいなかったから、のんびり歩いても追いつくことはできるだろう。

 不忍池は古く一面の芦原であったこの地が平野として開拓されるようになった当時から池として残されたままの場所とされている。記録では江戸時代初期の文献にはすでに不忍池の名前が現れており、当時は数本の支流が池に流れ込んでいたが開国した後の帝都の整備事業で埋め立てられると今の姿になっていた。もとが芦原だから増水して周囲を水浸しにしたことも一再ではなく、帝都が発展するに従い工事や整備もたびたび行われて今回の工事もそうした事業の一環である。
 その池に怪物と見紛う巨大なナマズが現れた、とは荒唐無稽なおとぎ話に思えるが、たとえば工事を中止させるために誰かがでっち上げた作り話にしてはあまり荒唐無稽に過ぎる。工事夫たちの中には実際に化け物を目の当たりにして逃げ出した者もいるらしく、工事を請け負っていたランフォード商会にとっても、調査に訪れた帝大明石研究所にとっても看過できる話ではない。

「おや明研の小娘自ら小間使いとは、自分の立場を弁えていて大変よろしいですな」
「あら今日はいい日だと思っていたら大変な厄日だったようね」

 穏やかな口調による無礼な挨拶に、不機嫌さを隠そうともしない声が返される。ランフォード商会と帝大明石研究所は商売敵ではないし仕事柄手を組むこともままあったがそれで代表の二人が個人的に親しくなることはなく、むしろクリストファー・ランフォードと松平健子が互いを蛇蝎のごとく嫌っているのは周知の事実とされていた。一方は仕事を口実に厄介事に首を突っ込みたがる変人であり、一方は親の七光りに守られた口やかましい道楽娘でしかないと互いを見なしている。
 幸い彼らは足を引っ張りあった挙げ句に事態を悪化させる愚を犯さない程度の分別は身に着けており、せいぜい互いに悪口雑言を交わす武装中立の関係程度で済ませている。あるいは済ませてやっていると思っていた。

 論理回路とは一般の物理法則から外れて引き起こされるさまざまな超常現象の中で、そのきっかけとなる特異点に与えられた名前である。特異点を通過した事象が不可知の現象に変換されることから欧州論理回路研究機構では単に「ゲート」と呼ばれている。そして論理回路により生み出される存在の中でも、偶然あるいは意図的を問わず自らの意思で活動する存在を称して妖怪変化とか異形とか呼んでいた。

「オオナマズといえば琵琶湖にいるやつが長さ三尺から四尺、海の向こうで見つかっている種類でもせいぜい倍がいいところだろう。とてもではないが化け物と呼ばれるような生き物じゃない」

 どことなく教師を思わせる口調で冬真春信(とうま・はるのぶ)が説明する。明研を手伝っていはいるが帝大医学部に在籍している現役の学生でもあり、物腰は穏やかだが泰然とした印象で奇態な事件にも動じた様子を見せていないのは彼が生まれた拝み屋の家ではるかに厄介な事件を多く見てきたからだった。
 一般に生き物の大きさに対する印象は長さよりも高さで論じられることが多く、特に目の位置が高い場所にあるか否かで判断されることが多いとされている。たとえば丸木のように巨大な蛇がいたとして、地面に寝そべっていればとても長い蛇と思われるが鎌首をもたげて伸び上がれば巨大な化け物にしか見えなくなる。見上げること、見下ろすことで感じられる威圧感は本能に訴えるもので、ことに二本の足で立って歩くヒトにとって見上げるような生き物などほとんど存在しないだろう。

「だから普通に考えれば水の中にいるナマズを見て人々が逃げ出すなど考えづらいのだが」
「なにかと見間違えた可能性が高い、ということですか?」
「あるいは人々が逃げ出すような化け物をナマズと見間違えたのかもしれないね」

 尋ねる菊に冗談めかして返すが、あるいは冗談ではないのかもしれない。春信の生業では悪趣味な冗談としか思えない存在を目の当たりにした経験は決して少ないものではなく、そしてこの不忍池は要町でも古くからの言い伝えがいくつも残されている場所である。広く知られているものでも池に棲んでいる竜の伝説にはじまりたびたび起きていた氾濫を鎮めるために弁財天に捧げる社が設けられているほどであった。今回も工事を始める前に慣例的に地鎮祭が行われて供え物も置かれていたが、祀らなければ祟るが祀らても祟らぬとは限らないのが妖怪変化というものである。多少、肩をすくめるような素振りを春信がしたところで足下の地面が大きく傾ぐと続いて揺れが訪れた。

 突然の地震に足をとられてよろめきながら、玉が不忍池に着いたときには白衣姿の珍妙な集団が池のまわりを囲むようにして如何わしい装置を並べているところだった。一団の隅にいる気弱そうな少年に向けて、何やら怒鳴っているエミリーの姿を見つけると玉もそちらに近づいていく。ただならぬ事態が起きていることは彼らの表情以前に、周囲の異様な様子だけで充分に察することができた。もう一度揺れが襲い、よろける身体を池の柵にしがみつくようにして支えるとエミリーたちもこちらに気がついたらしい。驚いた様子で何やら叫んでいるが、揺れと喧噪でよく聞き取ることができない。

「あ、あの、いったい何が?」
「玉!池に近づいてはだめ!」

 その言葉に続くように娘の傍らで水面が大きく歪み、ありえないほど巨大な水柱が立ち上がると頭上で弾け飛んで時ならぬ豪雨が降り注ぐ。全身を水に濡らしながら、とっさに本だけは守るように抱え込んだ玉の背後に黒々としたかたまりが現れると、人の背丈よりも大きな口を開いている。化け物としか言いようがないオオナマズ、目撃された証言そのままの姿が巨大な図体を現わしていた。
 呆然とした玉は両腕に本を抱えたそのままの姿勢で動くことも逃げることもできずにいる。洞穴のように開かれた口腔は歯も牙もないのっぺりとした空洞で、それが自分をひと呑みにしようとする奈落であることを否応なしに思い知らされた。

「いったい・・・なにが・・・」

 呆然と繰り返しただけの言葉を巨大な影が呑み込もうとする。あまり唐突に彼女の人生は終わるらしいが、せめてこの本は読みたかったと奇妙なほど冷静に考えた玉の視界がそのまま暗くなった。思わず身をすくませるが、一度閉じてゆっくりと開いた目の前にあるのは化け物の顎ではなくせり上がった泥土の壁であり、その間を遮るように割り込んできた背中である。大玉の数珠を握る腕を右に突き出しながら、肩越しに視線を向けた春信が叫ぶ。

「立つんだ!長くは保たない」
「は、はい!」

 それ自体が術具となっている霜水晶の数珠に輝きが宿ると冬真家に代々伝わる八葉の式神、無月が地面に弾けて土のかたまりが渦を巻くように地面を這い伸び上がって泥土の壁になっていた。本来土気の術は水勢を遮る力を持っているが、娘を助けるべく急ぎ放たれた式神は術も力も不充分で化け物を相手に一時しのぎにしかなりそうにない。ほうほうの体といった様子で、礼を言っている玉が半ば転がるように逃げていく姿を見ると池に向き直って強く念を込める。目の前にそびえ立つオオナマズを相手にして、さてどうするかと考えたところで場違いに思える芦笛の音色が春信の耳朶に届いた。

「これは、思業式神、慎みて願い奉る、急急如律令、旋律がそのまま律言に?」
「微力ながら助太刀します!」

 芦笛を持ち替えて吹き直す、菊が吹き鳴らす音色には幼い頃より人を助ける不可思議な力が宿されていた。彼女の郷里では時折似た才能を持つ者が生まれることがあって、笛吹き名人と呼ばれて代々重宝されている。彼女がこの要町まで奉公に出されて松平邸に雇われることになった理由もこの力によるものだが、どうしてか笛の力は男性にしか及ばないこともあって彼女の男尊女卑の原因にもなっていた。唐突な笛の音に春信は一瞬当惑したものの、何が起きているのかをすぐに理解すると意識を彼が呼び出した式神に向け直す。

「よし。行けるな、無月」

 流れる旋律が式神の力を増していることを見て取ると、正面に立ちはだかっていた泥土の壁を大きく広げて周囲に被害が及ばないようにすると同時に化け物が後ろに逃げるための道をも遮ってしまう。そこまで準備ができたところで、池の脇で大仰な装置を組み上げていた白衣の一団の中からけたたましい声が響くと長髪の青年が勢いよく立ち上がった。

「操・雷!フウウウウウウウウウウウッ!」

 嬌声というよりも奇声に思わず春信は苦笑するが、学は意に介したふうもなく右手と左手に警棒のような電極を握り締める。明研の変人たちの中でも春信とは最も性格が合わない人物の一人だが、経験と判断では信頼に値する男でもあり春信の意図をすでに理解していることにも確信が持てる。惜しむらくはまっとうとは言い難い彼の性格で、春信が同僚のためではなく自分自身のために嘆くところであった。
 芝居がかった仕草で大仰に叫んでいる学の頭上がにわかにかき曇ると雷雲が集まって右に左に紫電が走る。明研が設立するよりも以前、幼い頃から超常現象に興味を持つと独学で論理回路の研究と実践に取り組んでいた学は、今では不安定ながら強力な特異点を操ることすらもできるようになっていた。昂る感情に呼応して解放されていく論理回路が大気中に放電現象を引き起こす、学が「操雷実践研究」と称する1億ボルト、1ギガジュールににも及ぶ巨大な力のかたまりである。

 逆光になった白衣の影から幾本もの雷光が走り、一本一本がひとつの生き物であるかのように弧を描きながら次々と水面に突き刺さっていく。単純に化け物に当てようとするのではなく、杭のように深く打ち込んで逃げ道を遮ると同時に電撃で追い立てる目論見は放電を誘導する方角まで完璧に操作されて誤りがない。各地にある竜の伝説を紐解いてみると、大きな池や沼の底には竜脈と呼ばれる水路が通っていることがあり、そして竜とは魚の眷属に類する存在とされている。地下の水路にある論理回路の影響で魚が妖怪変化に変わったのだとすれば、化け物を水奥から追い立てれば論理回路との繋がりを断つこともできるだろう。常軌を逸した振る舞いに見えて学の目算にはわずかな狂いもない。
 笛吹き名人の旋律に乗って、伸び上がった泥土の壁が左右に広がりながら化け物の動きを阻むとその背後に一本、二本、三本と突き立つ雷光が逃げ道を遮断する。人の背丈よりも何倍も巨大な妖怪変化がいきり立つがそれは獲物に襲いかかろうとするものではなく、追い立てられた獲物が立てる威嚇の声でしかない。

「さあさあ!いよいよご対面!」
「ではせいぜい紳士的に振る舞わせて頂きましょう」

 昂揚して叫ぶ学の脇からすべり込んでくるように、ごく自然かつ無造作に初乃進が進み出ると、どのような動きであるのか泥土の壁も降り注ぐ雷光もあふれる水すらも潜り抜けてオオナマズの懐に近づいていく。沈み込むように踏み込んだ右足で一歩、残された左足を流れる渦のように巻き込みながら二歩を踏み入れて更に深く低く身を沈める。彼の流派「にゅるり流体拳」は常人の目にも追うことができる踊りか舞いのような動きにしか見えないが、論理回路を認識する術士の目にはあまりにも自然にすべての力を伝える動きが彼自身の肉体をドジョウかウナギであるかのようににゅるりと異形化したかのように見せる。

「これぞ女紋獣の打撃!」

 女人の肌のようになめらかと称される、並みの武術ではあり得ない一撃で身をひねりながら流れる力を乗せて突き上げる。人を丸呑みにする化け物を相手にして正面から打ち込まれた一撃は彼が曰く、うみうし二千頭に等しい威力を持つが岩場にいるウミウシならば数グラムでも海峡を泳ぐカイギュウであれば一頭の重さが一トンを超える。すくい上げた手のひらの衝撃が周囲の地面すらも揺らし、小山のような妖怪変化を軽々と空中に打ち上げてしまう。
 そのままもう一撃、ある種の遊戯のように無造作に打ち上げて弾むように宙を舞った巨体が池の外にどさりと落ちると周囲の柵や植栽ごとなぎ倒した。竜脈との繋がりを断たれた化け物は地面を激しく揺らしながらそれでもしばらく暴れまわっていたが、やがて動きが鈍くなると観念したように大人しくなった。派手な立ち回りを演じてみせた初乃進だが、おどけて肩をすくめてみせる姿には動じた素振りもない。

「これは申し訳ない。公園管理の方に怒られそうですな」
「いやいや素晴らしい!人の理解などは後から求めればよいのです」

 感心する学の視線には純粋だが熱っぽい好奇心が溢れていて、初乃進を見る目は先ほどまでオオナマズに向けられていたそれと変わらないように見える。二人の奇人が妖怪変化を打ち倒してみせた様子を見て、この界隈には珍しくもないことだと半ば諦観した春信はせめて自分は常識人たろうと首を振ると不思議な旋律で力を貸してくれた娘の姿を探す。
 水面に腹を見せて横たわっているオオナマズの巨体は論理回路との繋がりを断たれると見る間に縮んでいき、あとには三尺を超える程度の魚の姿が残された。竜脈を通じて池底の魚が変化した、その想像で間違いはなさそうだがこのような現象が起こる場所には同様の論理回路、世界を歪める境界が散在していることが多く今後も似た事件が起きるのだろうと思わせる。それでも安堵して息をつき、傍らで同じように息をついた菊の様子に気がついて苦笑する。

「魚としては立派なものだ。だけど化け物としては枯れ尾花だね」
「よいのではありませんか?本当に化け物だったというよりもよほどましですから」

 大人びた返事に感心して反省もさせられる。確かに彼女のいう通りであり、笑えない話よりも笑い話で済むならば遥かに健全に違いないのだ。捕まえられたナマズは池に戻すのも不安がられたから、公園の事務所に大きな水槽が据えられるとそこで飼われることになるが実のところナマズはコイなどとは違い水底を回遊するよりも同じ場所に潜んで獲物を待つ類の魚だから、餌さえ手に入れば狭苦しい水槽暮らしもさして苦にはならないらしい。地下深くにあるのだろう竜脈は探すことも塞ぐことも難しく、工事に合わせて論理回路を抑える術が行われると弁財天の社に収められることになった。
 こうして不忍池の化け物の噂は噂だけで鎮まったが、巻き込まれてずぶぬれになった娘は、玉は彼女が見たものを人に話さぬように念を押されたものである。しばらく放心するばかりだった彼女がそのときのことをようやく思い出すのは後々になってからのことである。それは水底から現れた妖怪変化のことではなく、その妖怪変化に襲われた彼女の視界が暗転したとき、彼女が必死に抱えていた古い本から何やら声のようなものが聞こえてきたことであった。我、汝の「接続」を承認する・・・。

† † †

 古来より灯火とは人が暗がりを打ち消すために生み出した所産であり、それは洞窟にたいまつが掲げられた時代から変わっていない。だが灯火に切り取られた暗闇はその境界をよりいっそう際立たせて光が届かぬ闇をむしろ深く濃く変えていく。そして人は灯火を手にしてもなお暗がりの恐怖から解放されることはなく、畏怖の念を捨てることができずにいる。
 気分よく、から最も遠い検分を終えると神代一角(かみしろ・いっかく)は不機嫌そうに眉根を寄せてから太い首筋に手のひらを当てる。盛り上がった筋肉の鎧に乗せられている禿頭を何度か動かすと、太すぎる首がぼきぼきと音を立てた。変死事件の捜査という仕事は元来捕方の出自である彼にとって本分であり、その動機も人の平穏な暮らしを守るためという純粋な信念を実現させたいがためのものである。文明開化の影響を受けて捕方の様相も岡っ引きの時代からずいぶん変わったが、時代が変わり世代が替わっても人が守るべきものは変わらない筈であった。

「尋常な技ではありませんが、それ以上にこれを平然と為す残酷さが尋常ではありません」
「うむ。儂の広背筋も怒りに同意しておるぞ」

 若々しい憤りを込めた古志郎の言葉に、力強く頷いてみせる一角のたとえはこの男なりに本意ではあるようだ。捜査は官憲で一定の検分が行われたがあまりにも奇怪な点が多く、帝大明石研究所に協力が請われると彼らが遣わされていた。この当時、国体が未だ成熟していなかった事情もあり官憲が軍部や民間に助力を求めて物事に当たる例が幾つも見られている。とはいえ軍が動くとなればことが大きくなるから古志郎のように名目上は民間の機関に人を送り込んでおけばこのような事態にも動きやすくなる。士官学校を出たばかりの若い軍人らしく、堅苦しいところもあるが今時の若い者には珍しい気骨があって一角の目には好もしく映っていた。
 夜は決して永遠の漆黒ではなく人に安息をもたらす帳の役割を果たしてもいるが、掲げられた光が世界を切り取って濃く深い影が現れれば人が恐れる暗闇が訪れる。古来から夜は存在していたにも関わらずなぜ文明開化の灯火が世を照らす時代になっていまだ恐怖が訪れるのか、それは強い光が強い闇を生み出すからではないと思えてしまう。その夜は十四の月、明るく強い月光がガス灯の頭上から更に明かりを重ねる刻であり、切り取られた闇の境目に論理回路は描かれるのだ。

「目撃証言通りです。この気配は・・・」
「居るぞ!」

 斬殺としかいいようがない、だが遺体を残すだけで加害者の痕跡が一切見つからぬ連続怪死事件。共通していたのはそこが人気のない場所であったことに加えて夜なお明るさのある通りであったことで、人気がないからこそ明るい場所を歩いた者が襲われると重い鉈のような一刀で肉も骨も両断されていた。あり得る技ではなく、あり得る力ではない。自身が刀剣を扱う剣士であるからこそ古志郎には人間を両断することの不可能事がよく分かる。
 一角が指し示した街灯の下、ガス灯に照らされた下に一人の影が立っていた。背の高い紳士めいて見える影は不自然に折り曲げた身体に手足は奇妙なほど長く、杖のような長い棒で身を支えているがそれが光を照り返す刃であることに気づかされる。からくり仕掛けの人形のように、ぎこちなく折れていた首がゆっくりとこちらを向くと目のあたりに赤く爛々とした光が宿る。明らかな殺意も明らかな害意も感じられないにも関わらず、疑いのない危険だけは知ることができて古志郎は彼の後ろに控えている協力者たちを身振りだけで下がらせる。ここには彼や一角のように荒事に長けた者ばかりではなく、官憲と一緒に捜査を手伝う者たちもいて襲われればその回数だけ骸が増えるだろう。

 唐突に、音すらも立てずに大きく振り上げられた刃がそのまま縦に振り下ろされると正面にいる一角を頭から両断した、ように見えたが咄嗟にかざした捕手棒でかろうじて受け止める。遅れて金属と金属が弾ける不快な音が周囲に響き、一息で静寂が引き裂かれた。

「ぬううううう!?」

 両腕と両足を力強く踏ん張ると、たくましい肩と二の腕が大きく盛り上がる。体躯にふさわしい大力にも関わらず、重すぎる一撃を受け止めるには全身の力が必要で、うなるような声を上げてむき出しの腕に力が込められるが刃はそれごと両断すべく頭上から圧しかかってくる。十手に似た捕手棒で力を逸らし、相手を組み伏せるのが彼の捕手術の真髄だが異形の力はあまりにも強く正面から受けたせいもあって力を逸らすことができずにいた。浮き出た血管が弾けるのではないかと思えた矢先、弾むような女性の声が耳に届く。

「助太刀します!」

 下がったところで官憲たちと一緒に控えていたすずねが一歩半ほど前に出る。ひるがえした着物の裾をまくり上げて、踊るような足先が不可思議な軌跡を描くと蹴鞠のような丸い球を一度地面に弾ませてから蹴り上げた。正確な軌跡と正確な技はそれ自体が術となって何の変哲もない球に力を宿らせる。
 小気味よく内股に踏んで弾ませた力を右足で軽く受けてから左ひざで弾き、浮いたところに飛ぶようにして思いきり右足を振り抜いてみせる。年頃の娘にはいささかはしたない姿だが、古くから伝わる蹴鞠の流儀よりも彼女が先日来観覧に行ったという舶来の蹴球めいて見えなくもない。

 街灯下の影は刃を引くと、飛んできた力のかたまりを横に一閃して両断する。頭から断ち割られようとしていた一角は解放されると順手に構えた鉄扇で殴りかかり、すずねももう一つ放り落とした蹴鞠を蹴り込むが異形は両腕をぶらりと下げた姿勢から信じがたい迅さで二つの打ち込みを二つとも弾いてみせた。尋常な技ではなく、少しでも危険を引き受けるべく再び一角が進み出た後ろからすずねが跳ね返ってきた球を三弾四弾と打ち込むが縦横に動く刃の軌跡をすり抜けることすらできない。その間、古志郎は無理に割り込まずにいざとなれば仲間を守ることができる場所にいながら意識を集中し続ける。手に何も持たず自然な姿勢で構えているが、その姿勢のままで機会を窺っているのが分かる。彼らに守られるように控えていた真砂子は、多少周囲の目を気にすると着物を少しだけはだけて肌を露にした。

「それでは私も、ご助力させてもらいます」

 若い娘がふしだらであると指摘する余裕は古志郎にも一角にもない。真砂子の白い肌には刻まれた鬼の刻印、陣が描かれていてそれは彼女の呼びかけに応じると力が解き放たれて彼女自身の声に荒々しい声が重なった。

「烈火召喚、我が呼びかけに応じ・・・待ち草臥れたぞ!喧嘩の時間か!」

 待ち切れずといった風情で叫ぶ声と同時に娘の姿に鬼の姿が重なり、刹那の間に軽鎧を着た赤鬼が現れる。鬼力変身と呼ばれる降霊法、彼女が尋常ならざる巫女であることと、この鬼を宿しているからこそ彼女が尋常ならざる食欲を有していることが今さらのように知れた。
 烈火は無造作な動きでずかずかと異形に近づくと、やはり無造作に握り締めた拳を大きすぎる動作で振りかぶる。それは武芸の心得がある古志郎や一角にはあまりにも作法を無視した動きにしか見えないが、そのあり得ない動きから放たれた拳が目にも止まらぬ速さで弧を描くと影に向けて打ち込まれた。異形の動きも赤鬼に劣らず、高速で動く刃が拳ごと両断すべく閃くが、斬られる刹那ありえない向きに軌道を変えた拳が頭とおぼしき箇所に命中した。軽い音がして、背の高い影が大きくのけぞったところで折れ曲がった首に逆方向からの拳が打ち込まれて別の方角に曲げられる。

「まだだ!食らいやがれ!」

 大きく振りかぶった右拳が打ち込まれると、烈火の一撃に弾き飛ばされた異形の至近に滑り込んできたのは古志郎だった。士官学校で評価された彼の術は実戦で用いるのはこれが初めてだが、彼自身の心がそうであるようにまっすぐに伸ばした右腕が異形を断罪するかのように突きつけられる。

「異界より現れた者よ、それが君の意思でなくとも犯した罪は裁かれねばならん」

 伸ばした手のひらに刀身が姿を現すと、伺候励起の銘が浮かび上がる柄をしっかりと握り締める。確定武装と呼ばれる不可知の力を実体化させて出現させる術で、研ぎすまされた意志が研ぎすまされた刃となる業物だがそれを振るう腕は古志郎自身の剣技によるしかない。背を伸ばして自然に立ち、突き出した刀身そのもので間合いを測ると同時に遠間から打ち込む距離で身構えた。意識を集中して構えていた間、異形の動きを観察していたが街灯下の影は間合いに立ち入れば神速の技を閃かせる一方で獲物が間合いの外にあるうちは糸の切れた人形のように動きが鈍い。真砂子の鬼がそうであったように、遠間から俊速で打ち込む速度が勝れば相手に先んじて両断することができる筈だった。

「参る!」

 夜の帳は下りて明るい月が邸宅や塀に隠れると切り取られた影が漆黒の闇を映し、灯された街灯の明かりよりも明暗を強く際立たせる。構えた姿が消えて一足飛びに踏み込んだ古志郎の刃が軌跡を描くと静かすぎる夜の中で刃と刃、力と力が打ち合う音が響くよりも前に一方が一方を斬り捨てた。どさりという音がして、長柄の刃を手にした腕ごと異形の肩が地面に落ちると伺候励起の光がもう一閃して首から上を横一文字に切り落とす。街灯の明かりが影を淡くすると力を失った異形の姿もそのままぼんやりとしてやがてかき消えてしまった。
 人の営みが人の恐怖を生み出すとそれが姿を得て人を襲う、愚かかもしれず、それで犠牲になった者は救われることもなく斬り捨てられた異形が祀られるでもない。ただ事件は解決して戻らぬものは永遠にそのままであるか、古志郎は深い息をつくが、少なくとも新たな犠牲者が出る危険がこれで断たれたことに安堵すべきなのだろう。手を貸してくれた娘たちに向き直ると今さらのように礼儀正しく振る舞おうとするが、今ひとつぎこちなく見えるかもしれない。

「御婦人方、お怪我はありませんでしたか」

 とってつけたような言葉は女性たちを心配するというよりも仲間を気づかう言葉に聞こえたかもしれず、恐縮しながら頭を下げている真砂子やすずねの様子に一角の豪快な笑い声が路地に響く。つられて笑いながら、鬼が消えて腹の虫が鳴き出したことに真砂子が赤面すると悪意のない笑い声が一層大きなものになった。

† † †

 不忍池を賑わせた化け物の噂は珍しいオオナマズを見つけた物がおおげさに騒ぎ立てたせいであったと、掴まえたナマズを入れた水槽が公開されると騒動は落ち着いて事務所を訪れる客足を増やしている。帝都の公園にこのような生き物がいるのだから、必要な開発であっても残すべきものはあるのではないかと環境擁護派の声を大きくする程度の影響は残された。ランフォード商会としては滞っていた工事を再開することができたばかりか、環境保護を名目にした調査と工事を新しく請け負ったのはエミリーの提案による。商会は代表よりも代表の姪の才腕に支えられているとは誰も否定ができぬ周知の事実であった。

「如何です?少しは読めるようになりましたかな」
「いえ、まだですね」

 商会の事務所の一画で、初乃進の言葉になおざりな返事をしながら玉の視線は手元の本から離れようとしない。あるいは危急を救ってくれた恩人に礼を失した態度なのかもしれないが、本を前にした彼女がこのような性格であることは彼女の知人のほとんどが知っていた。
 奇妙なことだが、初乃進に教えられた通り指先で模様をたどりながら読める単語だけでも繋げていくと、語られる言葉は旋律のようで断片的にでも意味が知れてくるように思えた。たいていは広げられた頁に描かれている挿絵の存在を仔細に解説する語が綴られていて、それに付随する文言がどの頁にも刻まれている。初乃進のように知識を持つ者が注意深く見れば、模様をたどっている彼女の指先が円環の真理を示す図柄を描いていることに気づくことができたかもしれない。聞いた話では要町の閑静な裏路地であった街灯下の連続怪死事件も官憲に協力した明研と商会の手助けもあって無事に解決したらしく、保安部から出されていた警戒態勢も解かれていたが夜の要町が危険や喧噪から解放された訳ではなかった。

 これらの事件に論理回路の存在が影響をもたらしていることは関係者には周知のことで、政府や軍の一部にはいささか強権でも構わないから列国に遅れをとらぬよう論理回路の研究実績を上げることを求める声もある。更には開国以来、妖怪変化や異形化け物自然災害はもちろん前例のない退廃的な犯罪まで、より危険で凶悪な事件が増えている事情を思えばそれらの原因の一部を負っていると思われる事象を捨て置く訳にはいかなかった。
 初乃進の目にはおそらく常人に見えぬものが見えていたが、少なくとも彼はそれを当然にあるものとして受け入れると目を瞑るどころかより積極的に情報を集めては多くの人々に披瀝している。流体とは無限の変化を受け入れること、変化がどれほどの激動と困難を人にもたらしたとしても、目を背けることが事態を好転させることはありえない。人はせいぜいもがきながら溺れぬように泳ぎ続けるのが精一杯で、それすらも他者の都合に振り回されるが先んじて泳ぐ者がいれば安堵した人々は先達に続くものだった。初乃進の目には疑いなく人の目には見えぬものが見えていたが、彼は不可知を知る者として目をつぶるつもりもなければ異人として知識と文化の交流を歓迎する。流体とは無限の変化を受け入れること、それが彼の流儀でもあった。

 脇目で見る。玉は相変わらず熱心に本の頁を繰り続けていて、知識の門が開かれたときに何がもたらされるのかを彼女は考えてもいないが、どうせなら人知れぬ暗がりで一人それに出会うよりも灯火を掲げた知人や友人が傍らにいれば少しでも助けになるに違いない。一人が数十人であってもどうしようもない奈落の混沌というものが確かにこの世には存在するが、あるいは彼の存在が数十人と一人目の助けになるかもしれないのだ。

...TO BE CONTIUNUED.
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